迫る呪海
教祖に置き去りにされたリーゲル達は、戦意を失っていた。
レムズは彼らを制圧した上で、市民達を救出したのだった。鎖を断ち切り、その手足を自由にする。けれど、市民達の嘆きは深い。それもそのはず、生き残ったのはわずか数十人しかいなかったのだ。
一行がたどり着くまでに、どれだけの生贄が呪海に捧げられたのか、想像もできなかった。
しかし、事態はそれで終わらない。
大神殿の振動が激しさを増していたのだ。
収まりきれない赤黒い瘴気が、神殿全体を包んでいる。近くにいるこちらの気分も悪くなってしまいそうだ。
「ダメだっ! みんな逃げるよ!」
ソロンは大声で叫び、警告を呼びかけた。
とはいえ、問題があった。鎖につながれていた市民達は、手足を満足に動かせないらしい。これでは逃げ遅れてしまう。
「亜人兵は市民を背負って走れ!」
サンドロスが指示を下すなり、イドリスの亜人兵が市民達を背負い出す。人間の何倍もの力を持つ亜人達だからこそできる芸当だった。
「すまん、恩に着る!」
レムズが珍しいほど殊勝にサンドロスへ礼を述べた。
そして、ついに大神殿が崩壊を始めた。
まず上部にある五本の尖塔が砕け散った。それを契機に崩壊は上部から波及していく。
三階から二階、二階から一階……。ついには大神殿が全壊した。
衝撃と共に赤黒い瘴気があふれ出す。しかし、それを確認する余裕もない。
大神殿の崩壊に巻き込まれて、土台の島が崩れ始めたのだ。崩壊した部分が衝撃を連鎖させ、それがまた崩壊を広げていく。
無論、ソロン達もそれを見守っていたわけではない。その時には、皆も我先にと逃げ出していた。
先をゆくのは亜人兵達だ。たくましい亜人達は市民達を背負いながらも、驚くべき速さで駆けていく。
ソロンはアルヴァの手を引いて、その後ろに続いた。アルヴァも必死に遅れず足を動かす。
二人の隣をミスティンが走る。しなやかな手足で、男達にも負けない走りっぷりだ。彼女の場合、装備が身軽なことも大きいだろう。
「鎧を脱げ! 重い物は捨てろ!」
イセリアが帝国軍へと指示を出す。兵士達には強い抵抗感があるようだったが、それでも命には代えられない。急ぎ鎧や盾、槍や剣を捨てて走っていた。
「おい、親父! 大丈夫か!」
「若い頃より体力は落ちるが、お前に心配されるほど老けてはいない」
グラットが父を気遣うが、ガゼットも言い返す。
「みんな、生きて帰るんだ!」
「ヤツを倒すまで、死んでたまるかあっ!」
サンドロスやレムズも自らの足で走り続ける。彼らの体力ならば問題ないだろう。
そうなると心配なのは……。
ソロンはメリューへと視線をやった。
「はあ、はぁ!」
彼女は必死に短い手足を動かし、仲間達に追いすがっている。さすがに子供同然の背丈で、大人達に付いていくのは無理があるだろう。
「おら、大丈夫か!」
グラットがメリューを左腕で強引に抱えた。右腕には槍を握りしめており、その魔力で身を軽くしているようだった。
「ぐっ、世話をかける……」
申しわけなさそうにしながらも、メリューはグラットにしがみついた。
さすがはグラット。メリューのことは彼に任せれば心配ないだろう。
……が、もう一人心配なのがいた。
ソロンが視線をやれば――
「ううっ、ぎゃっ! 揺れます揺れます!」
「軍師殿、死にたくなければ我慢してください!」
ナイゼルは屈強な亜人兵に背負われていた。四つ足で走る熊男の背にしがみつき、必死で振り下ろされないようにしている。
……まあ、なんとかなるだろう。
しかしながら、逃げ遅れた者達もいた。
戦って敗れたリーゲルとその部下達だ。
意気を失っていた彼らは、判断に遅れがあった。その上、多くの者が後方にいたため、逃げ出すのも遅かった。
「レムズ、弟よ! 助けてくれー!」
リーゲルが必死の形相で走りながら、レムズへと叫びかける。
「悪いが兄者、手が回らん。だが、嘆くことはない。貴様らが生贄にした者達と同じだ。教祖様によれば、神と一体となるだけなのだろう?」
レムズはわずかに振り返り、それから最後の言葉を兄へ送った。
「レ、レムズー! 兄を見捨てるかあああぁぁぁ!」
崩落はついにリーゲルの足元を飲み込んだ。しかし、レムズはそれを見届けもしなかった。
仲間達の無事は確認した。ならば、後は一心不乱に足を動かすだけだ。
ソロンはアルヴァの手を引きながら走り続けた。
しかし、手を引いたところで、体力の限界は越えられない。アルヴァは息を切らし、足をもつれさせかけていた。
「ちょっとごめん!」
ソロンは一言断るなり、アルヴァを無理やり抱えて持ち上げた。
……やはりそれなりに重い。自分と大して体重の変わらない相手を、持ち上げるのは重労働なのだ。それでも速さを落とすわけにはいかない。
「ソ、ソロン! 大丈夫なのですか……!?」
アルヴァは驚き、心配そうにこちらを見上げる。
「限界まではやってみるよ。逃げ切れなかったらごめん。そうなったら、死なば諸共ってヤツさ!」
半ばヤケクソにソロンが言い放つ。
「了解ですが、死に場所は選ばせてください。できれば、あと何十年か経ってから!」
「仰せのままに!」
ソロンは加速し、背後に迫る混沌から逃げ続けた。
「う、ああああぁぁぁ!」
逃げ遅れた敵兵が、呪海に飲み込まれる。重い鎧を身に着けた状態での逃避行はあまりにも厳しかった。悲鳴を背にしたソロンだが、その様子を確認する余裕もない。
「ああっ……!」
アルヴァが泣き叫ばんばかりに顔を覆う。この時ばかりは、彼女も冷静ではいられなかった。
「やべえっ、死んじまう!」
当初は軽快に走っていたグラットも、今や必死だった。重力操作の魔法を使い続けようにも、精神力の限界が来たらしい。こうなれば右腕の槍も荷物でしかなかった。
「よそ見するな、走れ! お前と心中などごめんだぞ!」
「その格好で偉そうにすんじゃねえ!」
走りながらも、グラットは腕の中のメリューといつものやり取りを繰り広げる。緊張が削がれるやり取りだが、気を抜けない。というか、気を抜けば死ぬ。
「半分は過ぎましたよ! もう少しです!」
腕の中のアルヴァが激励してくれるが、
「うー、まだそんなにあるの!?」
ミスティンが苦しそうに叫ぶ。それでもソロンの隣に並んで懸命に腕を振っていた。
*
逃走の末に、一行は呪海の断崖を走り抜けた。
しばらくそのまま走り続けていると、背後から追ってくる崩壊の音も消え去った。
絶壁の道の入口で待機していた大勢の兵士達が迎えてくれる。
「ソロン、もう大丈夫ですよ」
アルヴァはそう言って、自らソロンの腕から降り立った。
そこでようやく、ソロンも周囲を見渡す。まずは安否確認だ。
隣を走っていたミスティンは、常に視界に入っていたためもちろん無事だ。
グラットは最後の力で大きく跳躍したらしい。着地しながら倒れ込むと同時に、メリューを乱暴に下ろした。
投げ出される格好になったメリューは、受け身を取ってすぐに起き上がる。
「おい、大丈夫か?」
「お、おお……。死ぬかと思ったぜ」
彼女は怒りもせずに、ぐったりしたグラットを気遣っていた。
「うう、吐きそうです……」
ナイゼルは自分の足で走ったわけでもないのに、他の皆と同じように倒れている。よっぽど揺れが酷かったらしい。
サンドロス、ガゼットにイセリア、それにレムズ……。三国軍の主要人物はみな無事なようだった。
その他大勢の兵士達も、酷く疲れた様子でその場に倒れ込んでいる。
イドリスの亜人兵の奮闘により、生贄から逃れた市民達は全員が救出されていた。
その他のイドリス軍、帝国軍も安否確認の途中ながら概ね無事なようだった。
三国軍の中で最も犠牲が多かったのは、レムズ傘下のラグナイ軍だ。市民達を救出しようと半ば強引に突撃したため、逃げ出すのも遅くなったらしい。数十人が崩落に巻き込まれたようだった。
リーゲル軍の兵士は大半が逃げ遅れたが、それでもごく少数が生き延びていた。
そして、ザウラストの神官達は全滅。
体力に劣る彼らが、逃げ延びられなかったのは当然だろう。教団の主張によれば神の元へ還るに過ぎない。……が、末端の彼らまでがそれを是としたかは、神のみぞ知る。
「…………」
アルヴァは呆然と呪海を眺めていた。
自分の友人達は無事だったが、それでも犠牲の大きさは計り知れない。
そこにあるのは、ただ虚無の海……。大神殿も、崩れた断崖も、飲み込まれた人も、何も姿は残っていなかった。
「これで終わったのか?」
グラットはつぶやくが、アルヴァは横に首を振る。
「少なくとも、組織としてのザウラスト教団は崩壊したも同然でしょうが……」
本拠である大神殿を捨て去ったのだ。ザウラストとセレスティンが生きていても、組織としての活動は維持できないだろう。
「それはあやつも承知の上だろう。恐らく、大神殿そのものが最後の生贄だったのだ」
メリューは難しい表情で呪海を眺めていた。大神殿が崩壊した辺りを眺めているのだろうか。
「カオスの海の支配者、呪海の王……。ザウラストはそんなことを口にしていたね。どういう意味だったんだろう」
ソロンはその言葉が気になっていた。そこにザウラストの目的があるのではないだろうか。
「……じきに分かるかもしれん。ありがたくないがな」
メリューは呪海の彼方――大神殿が崩壊した辺りを指差した。