激動の夜
アルヴァが北方遠征に発ったという知らせは、帝都中に広まっていた。
それはもちろんソロンの耳にも届いている。
彼女は間違いなくあの杖を使用するつもりだろう。なんせ、そのために苦労して遺跡へと行ったのだから。
それにしても、あの杖からは得体の知れないものを感じた。何事もなければよいのだが……。
「心ここにあらずって感じだな」
酒場で食事中に考え事をしていたら、グラットに声をかけられた。ハッとして見れば、彼が目の前で手を振っている。
「陛下のことが心配?」
ミスティンも、ソロンの顔を覗き込みながら声をかけてくる。
「うん。探検から戻ったら、すぐ北方行きだしね。そんなに酷使してたら体を壊しちゃうよ」
「まあ、心配すんな。あの人もああ見えて相当に頑丈だ。それについちゃ、あの探検で嫌ってほど見せられただろ」
確かにあの探検で見せたアルヴァの体力は、並大抵のものではなかった。
雲竜と戦い、島を歩いた。
遺跡を探検し、機兵と戦った。
それでも決して弱音を吐かなかったのだ。
「それにも限度があるさ。皇帝なんていっても、しょせんはタダの女の子なんだし」
「皇帝陛下に対してタダの女の子とは、不敬な奴だな」
注意するような言葉だが、実際はからかうような口調である。そういうグラットにしても、結局は同意見なのだろう。
「私も心配。だけど心配してもしょうがない。私達には無事帰るのを待つしかできないから。それに、ソロンにはソロンの目的があったんじゃないの?」
「うん、そうだけどね」
もっとも、ソロンの目的である神鏡も女帝次第なのだ。
アルヴァは約束を守ってくれるだろうか……。戦いに忙しくて忘れていないだろうか……。
どう思考を持っていっても、彼女から切り離すことができなかった。
「それにしても身分違いの恋か……。若いっていいよな……」
そんなソロンを見て、グラットがポツリとつぶやいた。
「あのねえ……」
「じょ、冗談だ。そんな目で見るなって! それよか次の仕事でも探そうぜ」
ソロンの冷ややかな視線にグラットはうろたえていた。
探検が終わった翌日、ソロン達には報酬が支払われていた。
それもしばらくの間は働かずに暮らせるような大金である。さすがは皇帝直々の依頼だった。
ちなみにグラットは、銀行という施設にお金を預けているらしい。軽薄そうに見えて、なかなか堅実なのだ。自分の竜玉船を手に入れるという目的も、忘れていないようだった。
*
北方での戦いを電撃的に終結させて、女帝アルヴァネッサが帝都に戻ってきた。
それも圧倒的な勝利である。
北方での戦いは、現地の兵士に女帝への恐怖に近い畏怖を抱かせたのだった。
もっとも、その正確な事実までは帝都に伝わっていない。ただアルヴァが強大な魔法を行使して、亜人共を散々にやっつけたということだけが伝わっていた。
元々、帝都から連れ立った兵が少数だったのもあって、凱旋は簡素なものである。
ソロン達三人も、その様子を沿道から見ていたのだった。
「思ったより早かったな。やっぱり、あのお姫様はただもんじゃねえなあ」
帝都を出発してから戦を終わらせ、戻ってくるまでに要した日数はわずか三週間。グラットが言ったように信じられない早さだった。
「なんにせよ、無事でよかったよ」
ソロンも胸をなでおろす。
「魔法で亜人を一網打尽にしたって聞いたけど……。やっぱりあの杖かな」
ミスティンは杖のことが気になるらしい。それについてソロンも頷く。
「だろうね。他にないと思う」
「噂によると、千を超える亜人を皆殺しだってよ。とんでもねえぜ……」
グラットは感嘆と畏怖が半々に混じった調子でつぶやいた。
ソロンはその生々しい噂に顔をしかめる。
亜人は人間ではない。それはそうだろうが、動物や魔物よりもずっと人間に近いのも確かなのだ。
ソロンの故郷では亜人が奴隷として扱われることはない。彼らにも人間と同等の権利が認められていた。
敵を殺すことを躊躇しては戦ができない。ましてや国を守れない。
それは相手が亜人であろうと人間であろうと変わりない。それ自体はソロンも納得している。
だが、アルヴァのような少女同然の娘がなぜ、その重責を担わなければならないのだろうか。
* * *
繁栄の都である帝都は、夜もにぎやかだった。
神鏡に照らされた大通りの歓楽街では、多くの人々が浮かれ騒いでいる。
神鏡の光も深夜には途切れる。
だが、その後も街路樹に取りつけられた蛍光石が、街を照らし続けていた。
なおも帝都が暗闇に沈むことはない。それはアルヴァが凱旋を終えた夜も変わりなかった。
けれどその帝都も、時計塔の針が深夜の二時を過ぎれば、さすがの静けさがやってくる。
異変はそんな中で起こった。
得体の知れぬ魔物達が、帝都を襲ったのである。
緑色の獣のような姿で、人の数倍の高さを持った巨体。顔の横幅にほぼ等しい大きな口。大きな白い目。
体格は立ち上がったカバを思い起こすように寸胴だったが、腕だけが不揃いに長かった。
巨獣の数はおよそ五十体。
それらが地響きを鳴らしながら、帝都の北門へと殺到したのである。
もちろん、深夜であろうと北門には守護の兵士が付いていた。
だが、いかんせん襲撃は唐突だった。
それだけの大群が進撃すれば、いかに夜間であろうと目撃されて、事前に知らせが入るのが当然である。
それがなぜか、その時には手遅れだった。
帝国兵が防衛態勢を整える前に、巨獣は北門に到達してしまったのだ。
閉ざされた北門を、巨獣は長い腕で殴りつけた。
大きな音が鳴り響くが、それだけでは門は破壊されない。
けれど、巨獣はしつこく何度も何度も殴りつけてくる。腕の長さを利用して、遠心力を利用した一撃をぶつけてくる。
まるで破城槌のような衝撃が、振動となって伝わってきた。
その有様に門を守る守護兵も恐怖する。
北門付近の住民も、その音を聞きつけて避難を始めていた。
帝国兵とて、手をこまねいているだけではない。
外壁の上から矢と魔法で、先頭の巨獣へと集中攻撃を浴びせる。巨獣は体から赤黒い霧のような血を吹き出した。
一発や二発では効果が薄いようだった。それでも、頭に何発も攻撃を受けては平気でいられるはずもない。
さしもの巨獣も苦悶のうめきを上げて倒れた。
「ざまあみろ! カバ野郎め!」
「この調子だ!! 次はあいつに集中攻撃だ!」
戦果を上げて、兵士達の士気も上がる。だが、二体目の巨獣に攻撃を浴びせようとした刹那――
「おいあっちを見ろ! 何か投げてくるぞ!!」
少し離れたところにいた巨獣が、つかんだ岩を思い切り投げつけたのだ。
凄まじい勢いで岩は外壁の上部を直撃。
帝国が誇る重厚なコンクリートの外壁。その壁すらも、これには耐えられず砕け散った。
衝撃で二人の兵士が、外壁から都市の中へと落下した。
外壁の上に陣取っていた兵士達がひるんだ。だが、その間も巨獣は容赦なく門を殴りつけてくる。
「ひるむな! 攻撃をゆるめてはならん!」
指揮官の叱咤に兵士達も態勢を立て直した。しかし、それも遅かった。
ついに門へと小さな穴が穿たれたのである。
巨獣はそれを見逃さず、長い腕でさらに殴りつける。広がった穴を強引にこじ開けて、太い首を突っ込む。
大きな緑の頭と白い目玉が、壁の内側にいる者達からも見えるようになった。
いまだ野次馬根性を発揮して留まっていた住民もいたが、これには震え上がり一目散に逃げ出した。
恐怖に震えるのは帝国兵も同じだが、こちらは逃げ出すわけにはいかない。踏み留まって覚悟を決める。
さらに穴が広がっていく。
緑の頭がはっきり覗いた瞬間。壁の内側で構えていた帝国兵が、矢を一斉に射かけた。
十を超える矢が巨獣の頭に突き刺さる。赤黒い霧状の血が緑の体から吹き出す。
だがこの巨獣は往生際が悪く、すぐには倒れずに暴れまわった。
北門を死に物狂いで殴りつけて、ついには巨獣が通れるだけの穴を開けてしまった。
こうなれば、もはや乱戦は避けられない。
帝都にいる帝国兵とて、決して練度が低いわけではない。
常に脅威にさらされている北方の兵には劣るが、通常なら魔物の百体や二百体、対処に困ることはないのだ。
……が、しかし予想外の急襲である。
加えて巨獣は、一体一体が驚異的な力を持っていた。兵士数十人がかりで一体を倒すのが精一杯なのだ。
そして、不利な戦況は皇帝へも伝えられていた。
深夜、叩き起こされたアルヴァは、すぐに着替えをして街へ出る準備を始めた。
「陛下、どうかお待ちください! 御身自ら戦いに出向くのは危険すぎます!」
ワムジー大将軍が、城を飛び出そうとする女帝をいさめる。
「そうです! 帝都の治安維持は私の仕事。どうかお任せを!」
大将軍に続いたのは、若きラザリック将軍だった。近衛将軍たる彼は、城内を始めとする帝都全体を守護する役目を担っていた。
しかし、アルヴァは直感していた。これは真に危機的な状況であると。
「報告を耳にする限り、ただごとではありません。これは帝都の存亡に関わる事態です。こんな時に皇帝が座視してよいものですか!」
そうして、周りの制止も聞かず、杖を片手に城を飛び出す。
「アルヴァ様! どうか、お気をつけて!」
秘書官のマリエンヌが、背中に向かって叫びかけていた。
帝都は広く、北門まではかなりの距離がある。
アルヴァは馬屋まで自らの足で走り、眠っていた馬を叩き起こした。
馬は迷惑そうにしながらも、アルヴァを乗せてくれた。