北方へ
「アルヴァ様、大防壁が破られたそうです」
息せき切って部屋へと飛び込んできたのは、秘書官のマリエンヌだった。
アルヴァが帝都に戻ってから、わずか数日しか経っていない。
「……またですか。私には休む暇もないのですね」
アルヴァは深々と溜息をついた。
「先日、休暇を取ったばかりでしょう。私は大人しく休養するように申したはずなのに、随分と無茶をしたそうではありませんか」
どうやら、マリエンヌにも先日の冒険は筒抜けだったらしい。恐らくは、連れていった兵士が告げ口をしたのだろう。
あくまで私的旅行という体面上、帝都の近衛兵を多くは連れていけなかった。そのため、母方の伯爵家に頼って兵士を都合したのだ。つまりはマリエンヌと同郷の者達である。
「よいではありませんか。苦労しただけのものは得られましたので」
秘書官の小言を受け流し、アルヴァは例の『杖』を手にして成果を誇った。杖はアルヴァが今も肌身離さず持っている。
冒険が国家の事業であったなら、そこで手に入れた宝も財務省の接収を受けていただろう。探索を私的な事業としたのは、それを避ける意味もあった。
「……そうですか」
しかしながら、マリエンヌの視線は冷ややかだった。
例えて言えば、玩具に飽き足らない子供を見るような目つきである。もっとも、杖の絶大な効力を知れば、秘書官もいずれは悔い改めるだろうが……。
「それより、ワムジー大将軍を呼んでいただけますか?」
気を取り直して、アルヴァは指示を飛ばした。
「はい、ただちに」
マリエンヌは駆け込んだ勢いのまま、部屋を出ていった。
大防壁――それは帝国本島の最北を守る巨大な防壁である。
北の雲海の果てにあるというドーマ国……。そこからやって来る亜人を防ぐために、十年もの歳月をかけて建造されたのだ。
建造したのは誰あろうアルヴァの父――皇帝オライバルである。
大防壁が完成したのは、つい六年前のこと。
この大事業によって、オライバルは北壁帝と呼称されることになった。
これには、大事業を成し遂げた偉大な皇帝という称賛。……と同時に、税金の無駄遣いという皮肉がこめられているという。
なんせ空前ではないが、帝国の歴史に残る大事業である。中には大防壁を『帝国三大浪費の一つ』などと揶揄する者もいる始末だった。
ともあれ、北方防衛はアルヴァが父から引き継いだ仕事である。それを果たすのは、他の誰でもなかった。
*
「まずは議会を緊急招集し、国家一丸となって方策を固めるべきでしょう」
ワムジー大将軍の返答は芳しくなかった。
ワムジーは六十路を過ぎた老齢の男である。彼は元老院の議員も兼務しており、帝国の重職を担っていた。
アルヴァの祖父の代から将軍を務め、父の代には大将軍となった人物でもある。軍人らしからぬ穏やかな目つきであるが、胸には武勲を表す勲章がいくつも輝いている。
だがそんな、かつての豪傑も今は白髪の目立つ老人となってしまった。
「そんな猶予はありません。こうしている間にも、カンタニアは危機にさらされているのです。元老院での議論が何の役に立つというのですか?」
アルヴァは大将軍の現状認識に愕然とせざるを得なかった。
カンタニア市とは帝国の北方――カンタニア州の州都である。今は北方防衛の拠点としても機能していた。
「ゲノスは頼りになる男です。ただちにカンタニアが陥落することはありえませぬ。急いては事を仕損じますぞ」
ゲノスとは北方の軍を統括する将軍だ。実際に今もカンタニアを拠点に、亜人との戦いを指揮している。
「ただちに軍を編成してください。あなただって、かつては前線で亜人の脅威を目の当たりにしたのでしょう?」
前回の亜人襲来は、既に半年も前のことである。
戦いが終わって、アルヴァが帰還したのはそれから数ヶ月後。その時点で今後の北方防衛を厳重にしておくべきだったのだ。
だが、彼女の提案を、元老院の議員達は様々な言い訳で退けたのである。
「軍の編成には一週間を要します。陛下は旅行から戻ったばかりで、お疲れでしょう。それまではお待ちくだされ」
「それでは遅すぎます」
「ですが、姫様……」
ワムジーはいまだに、アルヴァを姫君呼ばわりするクセがある。
礼を失する行為ではあるが、当人に悪気はない。父帝の信頼が厚かった大将軍は、幼い頃の彼女をよく知っている。長年の習慣が抜け切れないのだ。
決して悪い人物ではない。
父帝の時代から人望も厚く、元老院との調整にも気を配りながら、帝国全土に渡って軍をよく統括していた。
しかしながら、元来が温厚かつ慎重な性格である。歳を取ってからは特に、保守的で決断力に欠けるきらいもあった。
「もう結構です。カンタニアへは私自ら出立します。それも今日中にです」
アルヴァは見切りをつけて、冷然と言い放った。
これ以上の時間をかける意味はない。何ら亜人への対処に寄与しないのだ。
「……分かりました。私のほうで元老院にも諮っておきましょう。後追いにはなりますが、うまくいけば北寄りの諸侯から兵を引き出せるやもしれません」
「ええ、可能ならお願いします」
内心では全く期待していなかったが、それは表に出さないように努める。
そうして、アルヴァはまたも出立を決意したのであった。後事は大将軍と秘書官マリエンヌに託すようにした。
北方へ最速で向かうには、帝都から北東にある港町ミューンから出港すればよい。
ネブラシア港から南へ出港するにしても、直接陸路で北上するにしても、余計な時間がかかってしまう。
アルヴァは帝都でわずかな人員を調達し、北東へと馬を駆った。
早さと速さを重視するために、多くの兵員を連れるのは諦めた。何よりもアルヴァと『杖』が現地に到着することが肝要なのだ。
ミューン港までは、徒歩ならばおおよそ二日の行程である。馬で進んでも一日はかかるのが、標準的なところだろう。
それを各地の宿場で馬を交替させながら、たったの五時間で駆け抜けた。
出発したのは昼下がりだったが、日が暮れた頃には港町ミューンへと到着していた。
そうして、アルヴァは早々に竜玉船へと乗り込んだ。
竜玉船はいつでも出せるように指示していた。皇帝たる者、有事は常に想定しておかねばならない。船も替え馬も、事態が起きる前から準備していたのだ。
*
竜玉船が出発し、アルヴァはようやく息をついた。
用意された船室は、船内で最も上等な部屋である。とはいえ、あくまで軍用船なので華美な装飾はない。絨毯や机、それからベッドが申し訳程度の上等品に変えられていた。
そうして、アルヴァはとある人物を船室に招き寄せた。
「セレスティン司祭。急な要請に応じていただき、助かりました」
入室してきたのは、神竜教会の法衣をまとった女――セレスティン司祭だった。
急な出兵に当たって、治療魔法を使える神官の同行が必要となった。そのため急遽、帝都の教会で神官を募ったのだ。
とはいえ、各神官もそれぞれの都合がある。そんな中、過去に従軍した実績のあるセレスティンが、名乗り出てくれたのはありがたかった。
「いえ、陛下の要請とあらば、我ら神竜教会も引き受けないわけには参りません。さすがに、あの短時間でミューンまで駆け抜けたのには驚嘆しましたが……」
帝都からミューン港までは、騎馬を使った強行軍だった。驚くことに、セレスティンも自ら馬を駆って部隊に追随していた。
「それは申し訳ありませんでした。カンタニアへ着くまでは、十分に時間がありますので後ほどゆっくりとお休みください」
「お気遣い感謝します。陛下もあまり無理はなさらぬよう」
実際、アルヴァも船内で休養する想定で強行軍をしたのだ。揺れの少ない竜玉船なら、心地よく眠れることだろう。
「それにしても、あの強行軍に付いて来れるとは……。あなたも妹に劣らず体力がありますね」
「妹……ミスティンのことでしょうか?」
思わぬ妹の話題に、セレスティンは困惑の声を上げる。
「ええ、先日はお世話になりました」
「まあ、一体、どのようなご縁が……?」
「実は――」
アルヴァは先日の冒険について、手短に説明した。そもそもの発端は、神竜教会から古文書の解読に関する情報を得たことである。
「教会内でも、何らかの研究成果があったとは聞いていたのですが……。あの子ったら随分と無茶をして……」
妹の無茶な冒険に、セレスティンは口を押さえて狼狽していた。
「まあ、少しばかり無茶な冒険だったのは否めませんね」
「も、申し訳ありません。そんなつもりは……」
セレスティンは失言だったとばかりに口をつぐむ。どうやら、妹への指摘がアルヴァにも該当すると察したらしい。
「お気になさらず。結果的には成功でしたから。教会の貢献にも感謝せねばなりませんね」
「と、おっしゃいますと、成果があったのですか?」
「ええ、この通りです」
アルヴァは杖を引き抜いた。あれ以来、肌身離さず腰のベルトに差してあったのだ。
杖先を覆う布を外せば、魔石が姿を現す。中に赤黒い靄が渦巻く魔石だ。
「これは……尋常な品ではありませんね」
セレスティンは杖へと目を向けた。妹と同じ空色の瞳は、魅入られたように杖先の魔石を見据えていた。
「お目が高いですわね。さすがは若くして、司祭に上り詰めるだけはあります」
アルヴァは気分をよくして言った。
「――正直なところ、あなたの出番はないかもしれません。せっかく来ていただき申し訳ないのですが……。この杖さえあれば、無傷での勝利も約束されたようなものですから」
「我々のような者は、役目がないに越したことはありません。ですが、随分と自信がおありなのですね」
「ふふっ、それは現地でご覧になるとよいでしょう。後方からでもよく見えると思いますよ」
もちろん、司祭であるセレスティンが、前線に参加するわけではない。戦場から離れた後方にて負傷兵を待ちながら、待機する予定だった。
「はあ……。楽しみにさせていただきます」
不敵に笑うアルヴァに対して、セレスティンは困惑気味に苦笑していた。