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雲海のオデッセイ  作者: 砂川赳
第九章 深淵を越えて
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深淵の大穴

 川を渡り終えた一行は、対岸で休憩を取ることにした。

 ソロンとメリューも馬から降りて、渡河に疲れたであろう馬を休ませる。

 馬は体をブルブルと震わせ、まとわりついた水を吹き飛ばしていく。


「こらやめんか、離れてからやれ!」


 水滴を喰らったメリューが、迷惑そうに顔をそむけ抗議する。しかし、馬の耳に何とやら――その抗議が通じることはなかった。


 それを見ていた走竜が真似をしたくなったのか、同じように体を震わせる。馬を上回る勢いで水飛沫が放出された。

 哀れにも御者がその犠牲となった。

 なおナイゼルは持ち前の危険察知能力で、真っ先に退避していた。この男、高い座席に陣取っていたせいか、下半身すらロクに濡らしていなかった。


「返すぞ」


 メリューは背負っていた刀を、ソロンへと手渡した。

 ソロンはさっそく水に濡れた皆のため、蒼炎の焚火(たきび)を作った。一つではなく複数の焚火で、人も動物も速やかに温まれるよう手配する。

 各自、服と体を乾かすことに専念した。

 そうこうしているうちに、西日の鮮やかな時間帯となってくる。輝く夕日が、イドリス川の行く末を照らしていた。


「少し早いけど、今日はここで泊まったほうがよさそうだね」

「みなさんお疲れのようですし、仕方ありませんね」


 ソロンの意見にナイゼルも同調する。

 なんといっても、人以上に馬が疲れていた。

 馬達は体を横に倒し、思い思いにくつろいでいる。そんな中で走竜だけは、ただ一頭落ち着きなく首を振っていた。相変わらず、竜種の体力は底無しらしい。


 ともあれ、イドリス川の付近には深淵の亀裂もない。オアシスの恩恵に預かる意味でも、ここでの野営が最適だった。

 渡河する前は荷物になるため、水汲みも控えていた。しかし、今なら水樽をいくらでも補充できる。

 その場で川魚を捕れる利点も大きい。

 黒雲下には得体の知れない生物が多く、安全のためにも狩猟は控えていた。しかし、ここはイドリス川の一部であり、生物相にも大差がない。見覚えのある魚を捕るだけならば、問題ないはずだ。



「私に任せるがよい」


 例によって、魚の捕獲にはメリューが大活躍した。瞳で(とら)えたものを即座に捕らえてしまうのだから、魚にとってはたまったものではない。


 捕らえた魚は、その場で料理していく。

 無骨な手をした熊男が、意外な器用さで短刀を振るっていた。

 ソロンも手先の器用さには自信がある。負けじと短刀で魚をさばくのだった。


「さすが坊っちゃんは器用ですねえ」

「そなたは相変わらず働かぬよなあ……」

「ええ、このナイゼル。体力のなさと手先の不器用さには定評がありますからね」


 メリューが呆れるように言ったが、ナイゼルは悪びれなかった。


「まあいいよ。ナイゼルには後で冷凍してもらうからさ」


 魚はいくつか魔法で冷凍しておけば、多少は日持ちもする。魚自体を凍らせた上、密閉した樽の中に氷を入れて貯蔵しておくのである。


「お任せあれ」

「ほほう、そんなこともできるのか? なまけものなのか有能なのか判別に苦しむな」


 メリューは値踏みするようにナイゼルを観察する。


「適材適所というものですよ」


 ナイゼルはそう(のたま)ってとぼけたのだった。


 でき上がった新鮮な刺し身を、ソロンは醤油(しょうゆ)で味付けしていく。醤油はタンダ村の魚を塩漬けし、発酵させた魚醤(ぎょしょう)だった。イドリス王国では広く使われている調味料である。

 口の中に放り込めば。甘味と塩味が適度に合わさって広がっていく。

 上界では雲海の魚ばかりを食べていたが、やはりソロンにとっての魚といえばこちらの味だった。


 メリューは蒼炎を使った焼き魚、ナイゼルは魚のスープを食していた。

 馬はオアシスの草を(たしな)み、走竜は生魚を豪快に飲み込んでいた。

 夕焼けの中、水と魚をふんだんに使った料理をみな大いに楽しんだのだった。


 *


 イドリス川のほとりで英気を養った一行は、黒雲下における三日目の旅を再開した。

 早朝に水と魚を補充したため、皆の士気もみなぎっている。

 魚を取り過ぎるメリューに対して。


「朝から飛ばしてたら、夜まで持たないよ」


 旅立ち前のソロンは、そんな注意をするほどだった。


 乾いた大地を縦横無尽に走る暗黒の線。

 川辺を離れれば、深淵(しんえん)の亀裂がまたも目立ち出す。

 一筋のオアシスを過ぎてしまえば、深淵の荒野はまだまだ続くのだ。


「この荒野にも段々と慣れてきたな」


 初めての黒雲下を経験したメリューも、三日目となれば気がゆるんできたらしい。

 本来なら危険極まりない黒雲下の旅である。ところが闇鴉(やみがらす)を難なく退けた彼女にとっては、さほど危険の実感もないのだろう。


「まっ、あまり気を張っても長旅は持たないからね。その調子で頼むよ」


 ソロンの心にも余裕が生まれてきた。この調子ならば、荒野も予定通り乗り越えられるだろう。


 昼闇の時間をいつも通りに休憩して、再び北を目指す。

 ここに至って、亀裂がいっそう目立つようになってきた。

 亀裂に挟まれた狭い道を、慎重に進まねばならない。こうなれば、行進にも時間を取られてしまう。


「道がふさがってなければいいんだけどね。ここまで来て引き返すとか勘弁だよ」


 先刻までの余裕から一転、ソロンの胸中に不安が芽生えてきた。


「まあ、大丈夫でしょう。山側に向かえば、抜け道の一本や二本はありますよ」


 ナイゼルが楽観的な見通しで勇気づけてくれる。実際のところ、傾斜の厳しい西の山側は竜車で進むには苦しい。それでも、複数の選択肢があるという事実は心強かった。


 *


 そして昼下がり、ソロン達の前に新たな光景が待っていた。

 東側から迫る幾本の亀裂――それが一点に向けて集結している。

 集結した深淵の亀裂が、荒野に広がる巨大な穴を形作っていたのだ。

 他の亀裂に(たが)わず、大穴の深淵は(うかが)い知れない。ただ暗黒が満ちるばかりである。


「深淵の大穴といったところか。計り知れんが、これも呪海の影響やもしれんな」


 さしものメリューもこれには目を見張った。馬の足を止めて、呆然と大穴を眺めている。

 数千年の時を経て、下界を浸蝕してきたといわれる呪海。それは下界各地に様々な驚異を演出してきたという。この穴もその一端なのだろうか……。

 肉眼では、穴の対岸にあるはずの崖すら視認できない。穴の全長は途方もなく巨大なようだ。


「これは恐るべき光景ですね。穴平線(けつへいせん)とは寡聞(かぶん)にして知らずでした」

「……穴平線って語呂が悪くない?」


 ナイゼルの言語感覚はさておき、ソロンは双眼鏡を手に取った。

 穴の中を覗き込めば、目眩(めまい)がするような暗黒があるばかり。それにもめげず大穴の向こうとなる北を窺えば、対岸に切り立った崖が見えてきた。

 当たり前だが、この大穴にも果てはあるらしい。その事実にひとまず安心する。


 東側には穴から伸びる無数の亀裂があった。遠く東には呪海があると伝わっているので、その影響かもしれない。

 (ひるがえ)って西側の地盤は安定しているようだ。

 おおよそ数時間も歩けば、対岸までたどり着けるだろうか。


「行こう」


 ソロンは馬首を左に巡らし、仲間達の先頭に立った。

 右手の深淵に沿って、反時計回りに北を目指していく。

 左手には傾斜の厳しい山があるため、道幅は少し狭い。それでも、竜車が通るには幾分の余裕があった。

 もっとも、できることなら日が落ちるまでには、大穴のそばを抜け出したいところだ。よほど肝が太くない限り、こんな場所で野営をしたいとは思わないだろう。


 変わらぬ景色の中を、淡々と歩き続ける。

 馬達も深淵に慣れてきたのか、勇敢に足を運び続けた。

 右手を見れば、どこまでも広がる深淵の大穴。当初は明瞭だった東の対岸も、穴の横幅が広がるにつれ、肉眼では見えなくなっていた。とはいえ、それだけ長い距離を進んだ証左ともいえる。


「うぬ? 何かいるぞ」


 メリューが穴のほうを向きながら、怪訝(けげん)な声を上げた。

 尖った耳が何かを察知したらしい。冒険において、何かに気づくのはミスティンの得意技だったが、今はメリューがその役目を担ってくれていた。

 ソロンは彼女の感覚を信じ、背中の鞘から蒼煌(そうこう)の刀を抜き放った。

 魔力を注ぎ込めば、刃が輝き出す。馬上から強い光で深淵の大穴を照らした。


「あれは……!」


 ナイゼルが声を上げた。


 蒼煌の光に照らされて、黒い生物が穴を這い上がってくる。

 大きさは人間大。見た目の印象は七本足のクモだ。青く光る八つの点も、クモの如き複眼だろうか。

 もっとも、よく見れば本物の足は六本で、尻についた一本は尻尾(しっぽ)らしかった。さらには手足も太く、指らしきものが確認できる。虫に爬虫類(はちゅうるい)を混ぜたような、ちぐはぐな印象だった。


 さしずめ深淵の虫とでもいったところだろうか。

 そんな得体の知れぬ虫が、穴を這い上がって前方をふさいでくる。確認しただけで五体。

 思いのほか接近されている。黒くて視認しづらい上、こちらからは崖下が死角になるため発見が遅れたのだろう。

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