昼闇に羽ばたくもの
そうして、一行は黒雲の下――深淵の荒野へと足を踏み入れた。
深淵――この不吉な名前を冠する荒野は、イドリスとラグナイの両国に隣接して広がっていた。
この荒野はどちらの領土でもないし、両王国ともに主張もしていない。人の住めない死の大地を、領有する利点は薄いためだ。
見渡す限りの乾いた岩荒野。赤茶けた大地にはひび割れが目立っている。
見通しはよく、目立った障害物は見当たらない。大小様々な岩が点在し、丈の短い植物がちらほらと群生しているぐらいだろうか。
黒雲下の例にもれず、強く冷たい風が吹いている。日当たりが悪く冷えた黒雲下から、南の白雲下へと風が流れてくるのだ。
それでも、吹きつける砂がないため、過去に旅をした砂漠よりは気楽かもしれない。
冬の寒さを残した厳しい風を、一同はマントで防ぎながら進んでいく。
「メリュー、寒くない?」
少女の体には辛かろうと、ソロンは気遣ってみたが。
「風が強くてかなわんが、涼しいのはありがたいな。……もしや、そなた寒いのか?」
メリューは風に揺れる銀髪をうっとうしそうに撫でていたが、表情は至って涼しげだった。
「いや寒いよ。普通は寒いでしょ?」
「この程度で寒がっていてはアムイでは暮らせんぞ。人間は難儀よのう」
と、憐れみを受けた。北国生まれは卑怯である。
東の空には何十里も続く黒雲――その向こうから、朝の太陽が強くこちらを照らしていた。
ソロン達はその太陽を右手にして、荒野を北上していく。
ひび割れは先へ進むほどに大きくなっていった。
初めは小さな溝程度のものだったが、次第に底の見えない亀裂へと移り変わる。
やがては巨大な亀裂が至るところへ走るようになった。人間どころか走竜すらも平気で飲み込んでしまいそうだ。
「はぁ……これが深淵の亀裂っていうヤツか」
初めて見る光景に、ソロンが溜息をつく。
巨大な亀裂の数々――黒雲下には、こういった奇妙な場所が多々点在しているという。
「ううむ……」
メリューが不思議そうに亀裂へと馬を寄せていく。
彼女の美しい銀髪と着物も、今は風よけのマントとフードに覆われていた。
ちなみに、マントは子供時代のソロンが使っていたお下がりである。大きさは気味が悪いほどにピッタリで、当人もお気に召したようだった。
メリューは亀裂を遠目に覗き込んで。
「これが深淵と呼ばれる由縁か。荒野にクレバスとは面妖だな。なんなのだアレは?」
クレバスとは、ドーマの氷雪地帯で見かける割れ目のことらしい。もちろん、ソロンは見たこともないので、これはメリューの言である。
「見た通りの亀裂としかいいようがありません。迂闊に近づけば崩れるかもしれませんので、気をつけてください」
ナイゼルが注意するも、メリューは興味を抑えられないらしい。
「私も子供ではないから、心配はいらん。しかし、あの下はどうなっているのだろうな」
遠くから見る限り、亀裂は底知れない闇を抱えていた。混じりない闇――何の光も返してこない文字通りの深淵である。
「さあて? 誰も降りたことがないので何とも。一説には呪海につながっているとか。はたまた、地底世界につながっていると主張する者もいますね」
「ほほう。一つ試してみるか」
メリューは一層の興味を惹かれたらしい。そう言って、彼女は馬の足を止めた。
何をするかと思いきや、視線を前方の地面と移す。
彼女の視線にとらえられた拳大の石が、宙へと浮かび上がった。
乗っている馬も、不思議そうに石を視線で追いかける。
石はゆったりと宙を移動しながら、亀裂の上で停止する。次の瞬間、石は急速に降下した。自由落下を上回る勢いで、深淵の中へと飛び込んだのだ。
「便利ですねえ」
ナイゼルがメリューをうらやましそうに見やった。銀竜族特有の念動魔法は、視線でとらえた物体を自由に動かせるのだ。
「…………」
しばらくの間、皆でそろって亀裂のほうを眺めた。押し黙って反響音を待つが、何も返ってはこなかった。
「何も聞こえないね」
「ふうむ、全力で落としたのだがな。よほど深いのか……。本当に下が呪海になっているのか……」
「あの石、拾えないの?」
「無理だ。視線から外れたものは動かせん。亀裂のそばから覗けば見えるかもしれんが、危険だしな」
「それはそれは、残念ですね」
ナイゼルが本当に残念そうな声で言った。なんだかんだで、彼も興味を持っていたらしい。
「うむ、時間を取らせたな。気をつけて進むとするか」
メリューは気を取り直し、馬を歩かせるのだった。
*
ソロン達は深淵の荒野を進み続けた。
亀裂を避けるようにして、慎重に手綱を操っていく。馬達も本能的な深淵への恐れがあるのか、どことなく足取りが及び腰だった。
亀裂は到るところにあるとはいえ、広大な荒野のことだ。道を選べば、十の騎馬が並べる程度の余裕は常にある。
それでも、気をつけねばならないのは竜車だ。大きく重量があるため、それだけ亀裂に巻き込まれる危険があった。
自然、縦に長い隊列となった。
ソロンは竜車の前に陣取って、油断なく周囲の警戒を行う。気をつけるべきは深淵の亀裂だけではない。ここは黒雲下であり、どのような魔物がいるかも分からないのだ。
昼が近づくにつれて、日が陰っていく。昼になれば、中天の太陽が黒雲の上に隠れてしまうのだ。
けたたましい叫び声が北の空から鳴り響いた。
下界でも上界でもありふれた鳥の鳴き声。黒雲の下を飛び回る大量の黒い点は、どうやらカラスのようだった。
不吉の象徴といわれるカラスだが、所詮はただの鳥獣である。取り立てて近づいてくる気配もない。
ソロンは安堵し気をゆるめかけたが……。
「闇鴉かもしれません。気をつけてください」
ナイゼルは反対に警戒を呼びかけた。
「闇鴉とはなんだ。魔物なのか?」
メリューの問いかけを受けて、ナイゼルが解説する。
「見た目は普通のカラスより少し大きい程度ですが、立派な魔物ですよ。額に第三の目を持っていることが特徴ですね。黒雲下の昼闇に姿を溶け込ませ、獲物へ集団で襲いかかるといわれています。群れが去った後には死骸の骨も残らぬとか」
「けど闇の中だと、獲物も見えないんじゃないの?」
「それが、闇鴉は暗闇の中でも獲物を見逃さないそうです。一説によれば第三の目が、光に頼らず獲物を見つけてしまうのだと」
通常、人が足を踏み入れることもない黒雲下――そこに現れる魔物に関する情報は限られている。そこに精通しているナイゼルはさすがの博識だった。
「分かった。気をつけるよ」
遠くのカラスを警戒しながら、ソロン達は馬を歩ませる。
次第に日の陰りがはっきりと感じ取れるようになった。まもなく昼闇の時間が訪れるのだ。
「ガァガァ」とけたたましい鳴き声が、ますます耳障りになってくる。
黒い点にしか見えなかったカラスが、いつの間にかはっきりと形を確認できるようになっていた。
それでも、カラスが襲いかかってくる気配はなかった。
かといって、こちらから離れる気配もない。付かず離れず――それが彼らの方針のようだった。
やはりこちらを獲物として狙っているのだろうか。不気味ではあるが、追い払おうにも距離が遠すぎる。ここから矢を命中させられるのは、ミスティンぐらいのものだろうか。
「あそこに止まろう」
嫌な予感がしたソロンは、亀裂から離れた広い一帯を指差した。周囲が暗闇になれば、亀裂に転落する恐れも増してしまう。今のうちに安全な場所を確保しておきたかった。
仲間達がソロンの指示に従って移動し、それから動きを止める。
皆、馬や竜車から降りて、大地に立った。
そして、真昼の荒野に闇の帳が降りた。
真上を見れば星も映さない闇があるばかり。
遠く離れた白雲の下には、降り注ぐ太陽の光が漏れている。こちらから見れば、神秘的な光の帯となるのだ。
「ほほう。これが昼闇というものか。なかなかどうして、味のある光景ではないか」
メリューは初めて見る昼闇の世界に、感心しきりだった。東西南北それぞれの方角へと忙しく視線をやっている。方角が違えば白雲との距離も変わるため、景色の印象もまた異なるのだ。
「お楽しみのところ申し訳ありませんが、来るようですよ」
ナイゼルがそんなメリューへと注意をうながした。
闇の到来と共にカラスが動き出したのだ。
けたたましい鳴き声は間近に迫り、耳をつんざくかのように騒がしい。
それでいて、闇に隠れたその姿は定かでない。もっとも、その程度の対策は難しくもないが。
「みんな、気をつけて!」
ソロンは蒼煌の刀を掲げ、魔力を流した。
刀身が青い光を宿し、周囲を照らし出す。
カラスの額にある第三の目が、光を反射してはっきりと見て取れた。まぎれもない闇鴉の姿だった。
ナイゼルの説明にあった通り、大きさは普通のカラスをやや上回る程度。鳥としては大型だが、魔物としては驚くほどではない。
それでも、あれだけの数に襲われれば脅威だ。何十羽という闇鴉の群れが、視界を覆わんばかりにこちらへ向かってきていたのだ。
「ふん、騒がしい奴らだな」
メリューは慌てる素振りもなくつぶやいた。
「坊っちゃん、久々に我々の連携を見せてやりましょう」
ナイゼルがソロンに向けて声をかけた。
シグトラやガノンドの指導を受けた兄弟弟子として、二人は何度となく力を合わせてきた。息を合わせるのはたやすいことだった。
「分かった、ナイゼル。けど、この刀でやるのは初めてだね」
「なに、要領は同じですよ。坊っちゃんが炎を放ち、私の風がそれを広げる。それであんな鳥など一網打尽ですよ」
「よし!」
ソロンはかけ声と共に、蒼煌の刀を迫りくる影へと向けた。
……が、目の前で展開する光景に、ソロンは思わず絶句した。
闇鴉が一羽、また一羽と深淵の亀裂へ吸い込まれていく。
一瞬、自ら飛び込んでいるのかと疑ったが、そうではない。カラス語は分からぬソロンにも、その鳴き声は悲鳴に近いと察せられた。
闇鴉の勢いと数は次第に増していき、やがては群れのまま吸い込まれていくようになった。青い光に照らされて映るそれは、まるで黒い奔流のようだった。
「あー」
呆けたようにソロンはその流れを見ていた。武器を構えていた部隊の皆も、同じように拍子抜けしていた。
「……メリューさん、何をされているのですか?」
かろうじてナイゼルがメリューへと声をかけた。
メリューは瞳を強く紫に光らせながら、黒い奔流を凝視していた。……というよりも、この流れを作ったのは彼女らしい。
「見ての通りだ。おあつらえ向きに手頃な穴があったので、試しに捨ててみた。あのぐらいの大きさなら私の魔法も有効らしい」
メリューは視線をそらさずに答えた。
「捨てるって……ゴミじゃあるまいし」
「焼いて食えるわけでもあるまいし、ゴミと大差なかろう」
メリューは容赦なかった。
そうこうしているうちに、哀れ全ての闇鴉が深淵へと飲み込まれていった。
翼があれば深淵の底からも、舞い上がってくるかもしれない。そう思いしばらく待ってみたが、鳥達が亀裂から戻ってくる気配はなかった。
「……戻ってこないね。みんな、どこ行ったんだろう?」
「さてな。深淵の底としか言いようがあるまい」
瞳を休めるように、メリューは瞬きしていた。