女王の杖
「さあ、起きてください! 眠たい気持ちは分かりますが、夜までには船に着くようにしましょう」
アルヴァは普段から規則正しい生活を心がけているらしい。昨日は早めに就寝したお陰か、朝から気力に満ちていた。
それにしても女帝自ら、起こしに来る必要はないと思うのだが……。
早朝に出発し、元来た道をひたすらに引き返す。
辛い道のりに変わりはないが、既に目的は達成している。終わりが見えているだけ気は楽なものだ。
川に沿って北東へと進む。
途中、渡った木の橋は渡した時のままになっていた。安全なことを確認してから、また北岸へと渡り切る。恐竜の巣も同じように迂回しながら進み続けた。
そうして、夕方には双子の岩が目印となる元の浜辺へたどり着いた。行きの時よりは、迷いがなかった分だけ到着も早かった。
船員達の熱烈な出迎えを受けて、探検隊の一同は竜玉船へ乗り込んだ。
ここまでの帰り道は至極順調に進んでいたのである。
……がしかし、竜玉船が出発してすぐ、船員達が異変に気づいた。
船が遠巻きに竜のような影に囲まれていたのである。
数日前に交戦したのと同じ雲竜――サーペンスに間違いがなかった。
その数は多く、五十を超えているだろう。
「もしかしたら、復讐のために待ち伏せしてたのかな?」
ソロンの意見に、グラットは首を振って答える。
「まさか! そんなわけあるかよ。人間だってそこまで執念深くはねえよ」
「どうかな。竜っていうのはとっても賢いから、それぐらいはやるかも」
ミスティンが言った通りかどうかはさておき、竜玉船は多くのサーペンスに囲まれていた。それだけは紛れもない事実である。
「一難去ってまた一難だな」
と、グラットは今日もボヤく。
既に冒険者や兵士達は、次々と武器を手に取っていた。ソロン達も同じように武器を構える。
「試してみましょう」
そんな中で、アルヴァが大事に持っていた梱包を解いた。中から現れたのは、女王の杖である。
「えっ、大丈夫なんですか? 危険なんじゃ……?」
ソロンは驚き、懸念を表した。
本来、新しい魔石を行使する行為は危険なのだ。通常なら人のいない場所で試験してから、実戦に投入するのが正しいやり方である。
「この数の雲竜を相手にせねばならないのです。被害が出る前に使える物は使うべきです」
アルヴァはソロンの懸念を歯牙にもかけない。彼女は杖を使うという欲求を抑えられないようだ。
ソロンが止める間もなく、アルヴァは女王の杖を雲竜に向けた。
杖先の魔石が黒い光を放って輝き出す。
赤黒い霧が魔石から湧き上がった。
「あれは……!?」「何事だ……!?」
異様な事態に、船上の皆から声が上がり出す。
赤黒い霧の噴出は止まらず、猛烈な勢いで雲海の上へと集まっていく。
やがて集結した霧が、何らかの形を取り出した。
大きな翼に、長いしっぽ……。人間の数倍程度の大きさはあるだろうか。
鳥か飛竜か、何かの動物のようにも見える。だが、赤黒い影のようなそれは、輪郭も曖昧で判別のしようがなかった。
その異様にはサーペンスすらも、動きを止めて見入っているようだった。
次の瞬間――影が伸ばした手が触手のように伸びた。
まさに一瞬の出来事だった。
影がサーペンスを貫くや、もうその瞬間に竜は絶命していたのだ。
胴体がごっそり抉られた状態で、既に生命の気配は微塵もなかった。
そのままサーペンスの死骸は、雲海の上で不気味に浮かんでいた。
仲間のサーペンスがけたたましい叫び声を上げながら、白い息吹を吐き出した。
いかなる生物をも凍りつかせる息吹が、異形の影を包んでいく。たちまち影は息吹の中に見えなくなった。
「大丈夫かな……?」
ミスティンが不安そうに声を漏らした。みな息を詰まらせるように、雲海上の戦いを見守っていたのだ。
「見ていなさい」
そんな中で、アルヴァだけは余裕の面持ちだった。
まもなく、息吹の霧の中から影の腕が現れた。
伸びる腕が、一気に雲竜を貫いて絶命させる。
白い息吹が晴れた後には、影が宙空にたたずんでいた。まるで何事もなかったかのように。
サーペンスが、けたたましく泣きわめく声が聞こえる。得体の知れぬ敵の登場に、魔物すらも脅えているのだ。
だが、それを眺めている暇もない。
なぜなら赤黒い影は、そのまま近くのサーペンスへ目標を変えて襲いかかったのである。
逃げ惑うサーペンスへと影の腕が伸びる。
つかまれた雲竜が、容赦なく握りつぶされた。体内の竜玉が砕かれたのか、無残な死骸が雲海の下へと沈んでいく。
そうして赤黒い影は、次々と竜を屠って、死骸へと変えていった。
船の上にいた一同も、その様を見て呆気に取られている。特に魔道士達は、見たこともない魔法の姿に驚愕していた。
「素晴らしい力ですわね」
雲海を照らす夕日の中で、アルヴァだけが紅い瞳をぎらつかせていた。
*
そうして、戦いはあっけなく終わった。
事が終わり、影はアルヴァの杖へと戻っていった。まさに影が生きているとしか思えないような動きであった。
竜玉船の周囲には、サーペンスの死骸が大量にプカプカと浮かんでいた。勝利の余韻よりも、怖気が走るような光景だった。
アルヴァは疲れた様子ではあったものの、どこか恍惚とした表情で杖を眺めている。ソロンはそんな彼女が気がかりで声をかけた。
「その杖は……できるだけ、使わないほうがよいと思います」
「なぜ?」
その言葉にアルヴァが不機嫌をあらわにする。返事には、今までの彼女にはないトゲが含まれていた。
「陛下が心配なんです。今だって、疲れているじゃありませんか。そんな魔法を使っていては、いつまで平気でいられるか……」
「余計なお世話です。自分のことは自分が一番よく分かっています。この杖をもっと使いこなせるようになれば、帝国を脅かすものは何もなくなるでしょう」
ピシャリと拒絶された。
それまでのアルヴァにも、目的のために自分の意志を貫く強さがあった。
けれどその中にも、他者のことを慮る寛容さが含まれているように思えた。これほどまでに、他者を拒絶するような性格だっただろうか。
「……分かりました。ですけど、お体には気をつけてください」
「言われるまでもありません」
アルヴァの意志は強い。ソロンが説得しても無駄だろうと思い直した。
そもそもの仕事は、彼女が杖を手にできるようにすることなのだ。その目的を果たした以上、口を挟む権利は自分にはなかった。
何にせよ一行に被害はなく戦いは終わった。
再び竜玉船は出発し、帝都がある本島に向かって動き出すのだった。
*
「あの杖ってどう思う?」
帰りの船上、ミスティンに問いかけられた。
「僕はあんまり好きじゃない」
「やっぱり、ソロンもそう思う?」
「確かに凄い杖なんだろうけどね。それにしても気味が悪いよ」
ミスティンも魔法については修練を積んでいる。それだけに、あの魔法には言い難い違和感を抱いたのだろう。
「うん、生きているみたいで怖かった」
ミスティンも頷いて、率直に感想を述べてくれた。
生きているみたい――とはもちろんあの影のことだ。魔法とは自然法則を操作するものであって、生物のように動くものではない。あのような作用は常識に反しているのだ。
戦いが終わってしばらくすれば、アルヴァもやがては元の穏やかさを取り戻した。
話しかければ、今まで通り気さくに会話をしてくれる。
目的を達成した高揚もあってか、機嫌はいつもより優れているようにすら見えた。
もっとも、彼女は機嫌が表に出るような性格ではないので、わずかな差異ではあったけれど。
ただ、杖に関してだけは触れないように、ソロンは気をつけねばならなかった。
*
やがて、一行はポトム港を経由してネブラシア港に帰還した。
「神鏡については即時――とまではいきませんが、何とかしてみましょう。約束は守ります」
別れ際にアルヴァは改めて約束してくれた。さらには自分の手で、ソロンの首輪を解除してくれたのだった。
長い冒険のようだったが、考えてみれば往復で十日にも満たない日数であった。
幾度も危険はあったのに、一人の死者どころか重傷者も出なかったのは奇跡的だ。彼女の指導力がもたらした賜物といってもよいだろう。
それにしても、その短い間には随分と女帝と話をする機会があった。
鏡や故郷の件があるため、また多少の言葉を交わす機会ぐらいはあるかもしれない。だが、共に仲間として冒険するような機会は二度とないはずだ。
そう思えば、ソロンは少しばかり寂しい心持ちがするのだった。