なつかしきイドリス
一時間の休憩後、三人は宣言通りに宿場を発った。
時刻は昼過ぎ。上界の日中はいつも曇り空であり、朝と比較して薄暗いのが平常である。
宿場で借りた馬を駆りながら、一路イドリスを目指して西へ。整備された街道を馬が軽快に飛ばしていく。
「へえー、メリューもうまいもんだね。ドーマって馬の印象ないから、なんか意外だ」
小さな体で巧みに手綱を操るメリューへと、ソロンは視線をやった。小さな島ばかりのドーマ人だけに、馬術が巧みなのは意外だったのだ。
「うむ、父様から手ほどきを受けたのでな。確かに、上界暮らしのドーマ人にしては珍しいかもしれんが。まあ、さほど誇ることでもなかろう」
「いえいえ、ご謙遜を。そのお歳で大したものです」
「……君が言うと説得力あるよね。まあ、メリューのほうが歳上なんだけど」
ちなみに宿場で借りた馬は二頭である。手綱を握っているのはソロンとメリューの二人。ナイゼルはどうしているかといえば、ソロンの背中にしがみついていた。
「おや、そうなのですか? これは失礼しました」
ナイゼルは謝りながらも、さほどの驚きを見せなかった。これは亜人を見慣れた下界人ゆえの反応だろう。
「よいよい。長寿の銀竜にはよくあることだからな」
メリューは至って鷹揚に構えていた。
そうこうしているうちに、白雲の向こうへと太陽が降りてくる。下界においては、真昼よりも今の時間帯のほうが日差しに恵まれるのだ。
時折、襲いかかってくる魔物を難なく蹴散らしていく。
三人にとっては敵でないとはいえ、上界と比較すればやはり魔物は多い。そういう意味では上界人にとっての下界の旅は、まだまだ敷居が高いかもしれない。
「ふう、さすがに疲れましたね」
何もしていないナイゼルが真っ先に疲れを表した。
「そりゃ、こっちの台詞だ。まだまだこれからだよ」
*
太陽が地平線の向こうに沈んでも、まだイドリスは見えてこない。
下界の夜は上界のそれよりも暗い。なんせ星空も満足に見えないのだ。
蛍光石の街路樹も、この辺りまではまだ整備されていない。もちろん悲しき費用の都合である。
明かりにするため、ソロンは蛍光石の首飾りを身に着けた。アルヴァの愛用している蛍光石のブローチを見習って、帝国で調達しておいたのだ。
さらに走ること数時間、彼方に炎の光が見えてきた。
王都イドリス――その門前に掲げられた松明の炎だった。
「よ、ようやくですか……」
その頃には、ナイゼルはすっかり息を切らしていた。
情けないといえば情けないが、馬の後ろにまたがるのも決して楽ではない。ほとんど休憩もなかったのを考えれば、仕方ないかもしれない。
「さすがに一日でこれだけ進むのは大変だったな」
メリューも疲れを見せていたが、ナイゼルほど露骨ではない。
ともあれ、下界から降りて一日もかからなかったのは特筆すべきだろう。街道の整備がなければ、決して成し得なかったはずだ。
*
「ソロニウス王子! お待ちしておりました!」
門番達の出迎えを経て、イドリスの街中へと足を踏み入れる。
風情も何もない無骨な壁に囲まれた都市である。
通りには質素な木造の建物が立ち並んでいた。去年の戦災を乗り越えて、新しく建てられた建物も多く見られる。復興は進んでおり、既に傷跡は目立たない。
窓から漏れるランプの光と、街角に掲げられた松明が、暗い夜道を照らしている。昔ながらの温かみある橙の光だ。
ちなみに蛍光石は主に上界で産出されるため、王都まで備えつける余裕はなかったらしい。
相変わらず、帝国の町と比較すれば冴えないことこの上なし。帝都どころか、中堅都市と比較しても見劣りするだろう。
それでも、故郷は故郷。無事な町の姿を見て、ソロンはどこかホッとしたのだった。
「ほほう、ここがお前の故郷か。随分と寂しげだが、やはり戦争の影響は大きいようだな」
夜の町並みを見つめながら、メリューが口を開いた。
街中に人間の姿はあまり見られない。目につくのは猫人のような夜行性の亜人だが、それも大した人数ではなかった。
「……元からこんな感じだけど」
「む、そうなのか?」
メリューはきょとんと紫の瞳を瞬かせる
「うん、帝都みたく人があふれているわけじゃないし、みんな夜はすぐ寝るしね」
「そ、そうか。そう言われてみれば、わが大都には夜行性の種族も大勢いるからな。感覚がマヒしていたかもしれぬ。人間主体の町ならば、夜が静まるのも必然というものか」
メリューはどこか歯切れが悪かった。
「いや、いいんだ気を使わなくて。僕も去年、上界に行って理解したよ。イドリスは実際、田舎だし。帝都みたいに夜もまぶしくない。ぶっちゃけ、国全体の人口を合わせても帝国の都市一つに及ばないし……。というか、国全体が辺境みたいなもんだし……」
「ま、待て。私はそんなこと言っていないぞ。素朴ないい町ではないか」
「素朴というのは何も褒めるところがない時に使う言葉だよ」
「……そなた、今日はいつになく突っかかるな。そこまで気にしていたか……」
メリューは憐憫の目でソロンを見やった。
「坊っちゃん、イドリスはこれからです。お互いがんばりましょう」
「そうだね」
ナイゼルと共に、今後のイドリスの発展を願うばかりだった。
そうして、とぼとぼと街中を馬で進んでいたソロン達だったが――
「ソロニウス王子が帰ってきたぞ!」
ソロンに気づいた人々が歓声を上げた。
「わっ、本当だソロン様だ!」
「ソロン様がいれば、ラグナイなんて!」
「ソロン様、かわいい!」
夜中にも関わらず、民家から続々と人が姿を現してくる。老若男女人間亜人。そのどれもが視線をソロンへと向けていた。
沿道から人々が口々に声援を投げかけてくる。
帝国におけるアルヴァほどではないが、それでも夜のイドリスとしては驚くべき熱狂だ。
「わっ、どうしよう……」
「どうもしませんよ。堂々としてください」
尻込みするソロンの肩を、後ろに座ったナイゼルが軽く叩く。
ソロンは苦笑しながらも、民衆へ手を振って応えた。
民衆からもワッと元気な声が上がる。
「ほほう、ほうほう。やはり人気があるではないか」
「そりゃあ、一応は王子だからね」
メリューの冷やかしを、ソロンはさらりと受け流した。自分が市民に期待されるほどの人物ではないとは、自身が一番分かっている。
「冷やかしのつもりはないのだがな」
ところがメリューは怪訝な顔でこちらを見た。
「そうですよ。坊っちゃんは自己評価が低くていけません。前回だって、国難の時に戻ってイドリスを救ったではありませんか。皆が期待するのは当然でしょう」
「そうかなあ? あの時はアルヴァやみんながいてくれたからね」
「謙虚というか、卑屈な男よのう」
メリューは呆れ混じりに苦笑していた。
一挙ににぎわいを増した街道を通って、イドリス城へとたどり着く。
城というよりも、小さな砦のような印象を受ける小規模な建物である。しかしながら、帝国との比較はもういい加減、悲しくなるからやらない。
「ソロニウス殿下をお連れしました。夜分申し訳ありませんが、サンドロス陛下をお呼び頂けますか?」
ナイゼルが門番へと声をかければ、全てを聞かずして門番も走り出す。街中の騒ぎは城内にも既に伝わっているようだ。
既に夜中ではあるが、眠るにはまだ少し早い時間帯だ。兄なら起きているはずだし、最低でも挨拶するぐらいは問題ないだろう。
「ソロン!」
駆け寄ってきたのは兄サンドロス――ではなく、赤髪の女性だった。既に四十路は過ぎているにも関わらず、相変わらず若々しい。ソロンの母――ペネシアだった。
ペネシアは駆け寄るなり、ソロンを強く抱きしめる。
「母さん、元気だった?」
「ええ、私は元気。上界も騒ぎになってるって聞いて心配してたのよ」
それから、ペネシアはメリューへと目を留めて。
「――また、新しい女の子を連れてきたの? 前の二人はどうしたのかしら? 母さん、ソロンが浮気性になったんじゃないかって心配だわ」
真剣な目でそんなことを言い出す。
「……あの二人も仕事があって大変なんだよ。色んな意味で心配はいらないから」
ソロンはただそれだけ答えておいた。
「ペネシア様は相変わらずですねえ」
ナイぜルがそんな母子を微笑ましく見守っていた。
「やはりマザコンか……」
メリューが一人合点してつぶやいていた。ファザコンには言われたくないと思ったが、ソロンも声には出さなかった。
*
母との再会はさておいて、ソロンは兄が待つという応接室へ向かった。
話が真剣な内容になると踏んでか、ペネシアは付いて来なかった。一家団欒の時ではないと、母も察しているらしい。
応接室の他には謁見の間も存在するのだが、サンドロスは「堅苦しすぎる」と使用を嫌っていた。結果として、よほど公的な場面でしか謁見の間が使われることはなかった。
「久しぶりだな、ソロン。随分と壮大な旅に行っていたようだが」
三人を待っていたのは背の高い赤毛の男――兄サンドロスだった。母似のソロンとは違って、父に似て精悍な男振りである。
もっとも、今はその表情にわずかな陰りを見せていた。状況が状況だけに気苦労が絶えないのだろう。それでも、弟との再会にホッとしたのか口元をゆるめた。
「思った以上に大変な旅だったよ。時間があったら報告するけど」
「男前だな」
「……既婚者だよ」
メリューがぽつりとつぶやいたので、ソロンは釘を刺しておいた。ひょっとして、男らしい男が好みなのだろうか。そういえば、何だかんだいってグラットとも仲が良い。
「そういう意味ではない。弟がアレだから意外だったのだ」
メリューは真顔で答えた。
「そ、そう……」
アレ扱いされたソロンは渋い顔を作った。
「くっ、ははは! 面白い子だな。まあ、座って楽にしてくれ」
サンドロスは笑いながら、自ら席に座ってうながす。
ソロン、ナイゼル、メリューの三人もそれぞれに着席した。サンドロスとは初対面のメリューではあるが、至って余裕の表情だった。