皇帝と大公
ミスティンの放った矢は、針に糸を通すような正確さで兵士の肩を射抜いた。
巻き起こる風圧が、兵士をあらぬ方向へ吹き飛ばしていく。それに巻き込まれて数人の兵士も倒れていった。
ミスティンはワムジー、ラザリックの二人と共に、城壁の内側に潜んで機を窺っていたのだ。
神獣によって破壊された城門のお陰で、皮肉にも見通しはよかった。角度を調整することで、正確に対象を射抜いたのだ。
「あ――?」
オトロスは金縛りにあったように硬直した。周囲を取り囲む数十人の兵士達も、状況を理解できず呆然としている。
「陛下、お助けに参りました!」
そこへ突入するのは、一般兵の装備をまとった二人の男――ワムジー大将軍とラザリック将軍だ。二人は多勢の敵中へと、恐れも知らず躍りかかったのだ。
「き、貴様らは!? 謀ったな、アルヴァネッサ!」
オトロスは振り向き、二人の姿を確認して驚愕した。
捕虜であったはずの二将軍が、いつの間にか解放されていた。その事実にようやく気づいたらしい。
「陛下に弓引く大逆人よ! このワムジーがお前の首を叩き落としてやる!」
「だ、大将軍、お命頂戴します!」
兵士達が気を取り直し、二人の将軍へと向かっていく。だが、そのとまどいと足並みの乱れは隠せない。かつての上司に対して、兵士達はいかにも及び腰だった。
「容赦はせんぞ!」
前に出すぎた兵士を、ワムジーの剣が貫いた。老いたりといえど、剣の腕はいささかも鈍っていないようだ。
「オトロス閣下こそが、次なる皇帝にふさわしいのだ!」
そこへ次なる兵士が襲いかかる。
突き出された剣が、ワムジーの側面を狙った。オトロスの親衛隊だけあって、敵の技量も決して侮れない。
それをさばいてみせたのは、ラザリックの剣技だ。
「ふん、それでも自称新皇帝の親衛隊か。鍛え方が足りないのではないか?」
ラザリックの剣が兜を強打する。兵士は昏倒し、倒れ伏した。
「何をしている、相手はたった二人だぞ! 突出するな! 囲んで始末するのだ!」
オトロスの指示に従って、兵士達が二人から慎重に距離を取る。囲むような位置取りで、両将軍を追い詰めようとするが――
そこへ走るのは一筋の稲妻。
兵士は体を痙攣させて、言葉もなく崩れ落ちる。思わぬ不意打ちに、兵士達の足が止まった。
「我々を無視するだなんて、随分と余裕ですわね。大公閣下」
対岸のアルヴァが杖を突き出していたのだ。
「な、何を馬鹿な!?」
卒倒せんばかりにオトロスの顔色が赤く染まっていく。
水堀の向こうから正確に魔法で射撃するなど、常識的には不可能なのだ。だからこそオトロスも、人質がいる乱戦下で撃てるはずもないと油断していたのだろう。
「――畜生め! さっきの約束はどうした!? それでも、皇家の女か卑怯者め!」
悔しまぎれにオトロスが叫ぶ。
「閣下、卑怯者呼ばわりとは心外ですわね。約束通り、あなた自身には危害を加えていないでしょう。もっとも、拘束はさせていただきますが。その後で処罰を決めるのは、『私達』ではなく皇帝陛下です」
嗜虐的な笑みを浮かべて、アルヴァは嘯く。どことなく楽しそうに見えたのは、ミスティンの気のせいだろうか。
ちなみに、アルヴァがした約束とは『私達もあなたが自領へ戻るまでは、危害を加えない』の通りである。
その間にも、彼女の杖先からは紫電が放たれ続けていた。射程外からの強襲を受けて、兵士達は倒れていく。
かといって、アルヴァに気を取られるわけにもいかない。前方への警戒を怠れば、ワムジーとラザリックによって立ちどころに斬り捨てられるのだ。
数の上では有利だったはずの兵士達は、瞬く間に恐慌へと陥った。
「人質だ! 人質を盾に使え!」
オトロスはわめきながら、皇帝一家のほうへと視線を移す。皇后に剣を向けていた兵士は倒れたが、まだ何人か見張りが残っているはず。
そうして、再度の脅しをかければ、アルヴァも両将軍も攻撃をやめる。オトロスの算段はそんなところだろうか。
ところが――そこには一人の兵士の姿もなかった。
いや、正確には皇帝一家の足元に軒並み倒れていたのだが。
ミスティンは最初の一矢を放った後、ただ戦況を見守っていたわけではない。皇帝一家の周囲にいる兵士を、一人ずつ着実に始末していたのだ。
そうして今や、皇帝一家に手を伸ばせる者は一人もいなくなった。
「な――」
口をぽっかりと開いて、オトロスは虚空を見つめた。
「閣下、閣下!」
「しっかりなさってください!」
二人の側近が、必死になってオトロスの肩をゆする。
見た印象では二人とも高位の貴族だろうか。いずれにせよ、彼らもオトロスとは一蓮托生の運命なのだ。何が何でも、オトロスにすがるしかなかった。
そして、オトロスが出した窮地の打開策は――
「お前達も剣を取れ! こいつらを人質に取り、この場を収めるのだ! 腕ぐらいは斬っても構わんぞ!」
オトロスは腰に差していた剣を手に取り、それを皇帝へと向けた。兵士達が当てにならぬなら、自らやるしかないということか。
側近達もそれぞれ同じように剣を構える。
三人そろって、戦いの経験などあるとは思えない腰つきである。それでも、毒を食らわば皿まで――と、腹をくくったのだろう。
「陛下!」
皇帝へ接近する三人を察知し、ワムジーが叫ぶ。だが、彼もラザリックも敵兵との戦いに必死で、加勢に入る余裕がない。
エヴァートは倒れた兵士のそばにかがみ込み、いかにも無防備だった。
「あなた!」
セネリーがウリムを抱きしめながら、悲鳴を上げる。ウリムは事態を理解できないのか、きょとんとした目をしていた。
「皇帝陛下、お覚悟を!」
オトロスの側近がエヴァートへと斬りかかる。
武器も持たず、かがんだままの皇帝が対抗する術はない――はずだった。
ところが、エヴァートは立ち上がりざまに、さっそうと剣を振り上げた。
予想だにしない鋭い一閃。
側近は剣を叩き落とされ、よろめいた。そこを逃さずエヴァートは追撃を加える。肩を打たれた側近は倒れ伏した。
「な……に!?」
もう一人の側近は、思わぬ反撃に振り上げた剣を止めたところだった。
そして、その一瞬の隙が命取りとなった。エヴァートの剣は、そんな彼の横腹を薙ぎ払ったのだ。
流れるような剣技で、二人の男が皇帝の前に倒れ伏した。
そんな中、ウリムは「キャッキャ、キャッキャ」と嬉しそうに手を叩いている。……なかなか、大物かもしれない。
「悪いが、幼少から剣の訓練は積んでいる。才には恵まれなかったが、素人にやられるほど未熟でもないよ」
そうして、エヴァートはオトロスへと剣を向けた。
エヴァートはいつの間にか腕の拘束を外し、剣を手にしていたのだ。拘束は縄によるものだったため、倒れた兵士の剣で断ち切ったのだろう。
「ば、馬鹿な……こんなはずは……!?」
オトロスは眼前の皇帝から視線を外さずに後ずさった。
「オトロス、君もかかって来たらどうだ? 僕にしても、少しばかり鬱憤が溜まっているんだ」
控え目な言葉の中には、隠し切れない怒りが満ちている。
温和で知られる慈悲の皇帝エヴァート――オトロスはその逆鱗に触れたのだ。
後ずさっていたオトロスの足が止まる。剣を握りしめる腕が震えていた。
「お、俺を舐めるなよ、エヴァァァァート!」
オトロスが咆哮を上げて襲いかかった。いや、咆哮というよりは理性を失った絶叫だろうか。オトロスは皇帝の眼光に耐え切れず、動かざるを得なかったのだ。
エヴァートは無駄のない剣さばきで、オトロスの右手を打った。痛みに耐えられず、オトロスは剣を手放す。
相手に息をつかせる間もなく、エヴァートは肩を貫いた。
「ふぎゃっ!」
オトロスは滑稽な悲鳴を上げ、流血する左肩を押さえた。その顔は恐怖に青ざめている。
だが、エヴァートは容赦なく、その右肩までも貫く。
オトロスは重い体を支えきれず、仰向けとなって夜明けの空を仰ぐのだった。
「慈悲を送る気はないが、命だけは助けよう。君には聞きたいこともあるからな」
冷然と見下ろし、エヴァートは言い捨てた。
オトロスは言葉を返す気力もないのか、ただ虚空を見上げるばかりだった。
こうして、皇帝と反乱の首謀者による決戦は呆気なく終わった。
*
「大丈夫ですか、陛下!」
戦いの終わりを見届けたミスティンは、エヴァートの元へと駆け寄った。
「ああ、お陰様でね。助かったよ、ミスティン」
エヴァートは気疲れを隠せないようだったが、それでもしっかりと礼を述べた。
どうやら、こちらの顔を覚えていたらしい。直接話したこともあるのだから、当然といえば当然だが。
「えへへ、さっきの剣技お見事でした」
ミスティンが称賛すれば、エヴァートははにかむように笑いながら。
「少しぐらいはいいところも見せないとね。ひょっとして、さっきは僕に花を持たせてくれたのかい?」
「さあ、なんのことでしょう?」
と、ミスティンはうそぶいてみせる。
実際のところ、先程の三人はやろうと思えば始末できたのだ。ただ、エヴァートが密かに剣を手に取ったのを確認して自重しておいた。
もちろん、背後から敵に矢を向けて、いざという時の備えもしていた。ミスティンは空気を読める女なのだ。
「しかし……その服は使用人の真似事かい?」
エヴァートは不思議そうにこちらの格好を見る。
「ええ、かわいいでしょう?」
スカートをつまみ、にこりと微笑んで見せた。何だかんだでこの服装も、わりとお気に入りだった。
「妻に怒られるから感想は控えておくよ。……っと、すまない」
そう言いながら、エヴァートは妻のほうへと視線を移す。
「――もう大丈夫だよ、セネリー」
彼は剣を手に取り、セネリーの腕を拘束する縄を断ち切ったのだった。
「あなた……」
恐怖に涙ぐむ愛妻を、エヴァートは皇子共々に抱きしめた。
あまりジロジロと見るのもあれなので、ミスティンは視線をそらした。しつこいようだが空気を読める女なのだ。
……と、そこへ後ろからやって来るのは聞き覚えのある足音だ。
ミスティンは後ろを振り向くなり、即座に抱きついた。
「ご無事なようですね、ミスティン。今日は大活躍でしたよ」
ミスティンの体を受け止めながら、アルヴァが優しい声色で応えた。
「アルヴァも、元気そうでよかった。おじいちゃんも、そっちに行ったと思うけど元気?」
「ガノンド先生なら、修道院で療養中です。ケガはあるそうですが、大事ないでしょう。カリーナに付き添いを任せています」
「そういえば、どうやってこっちに渡ってきたの?」
出会ってそうそう、ミスティンは矢継ぎ早に質問を繰り出していく。
「俺が運んだんだ。……つうか、妙なメイドがいると思ったら、お前かよ」
そこへ現れたのはグラットだった。片手に槍を持ちながら、油断なく構えている。
「あっ、グラットもいたんだ」
アルヴァから体を離し、グラットへと向き直る。
「いたぜ。久しぶりだな」
グラットはニヤリと笑い、こちらに合わせて左手を差し出す。ミスティンがその手を叩けば、小気味良い音が響いた。
「あーでも、あっちのほうは大丈夫なの?」
ミスティンは今も戦っていると思しき二人の将軍へと視線をやった。
それにはアルヴァが答えて。
「終わりましたよ、つい先程」
残った大公軍の兵士達は余さず倒れ、あるいは降伏していた。
ワムジーとラザリックの奮闘に加え、アルヴァとグラットが水堀を飛び越えて加勢した。その時点で大勢は決したも同然だった。
そして、決定的なのはオトロス自身が敗れたことだ。大公軍の命運が尽きたのはもはや自明の理であり、兵士達も抵抗の意思を失っていた。
「全く……今後、君には頭が上がらなくなったな」
妻子を連れたエヴァートが、アルヴァに気づいて声をかける。
「いいえ。そんなことより、お兄様もお義姉様も、それからウリム皇子も――皆ご無事で何よりです。お疲れではありませんか?」
「ああ、本当に疲れたよ。もっとも、君達みたいに働き疲れたわけじゃない。ここからは責任を持って事態を収拾させてもらう」
「あっ! でも、気をつけて。まだあいつらが残ってるかも」
ミスティンはふと思い出し、慌てて忠告した。
「あいつら……ザウラストの邪教徒ですか?」
以心伝心。言葉足らずなミスティンの意を、アルヴァがすぐに察してくれる。
「そう。枢機卿って呼ばれる女がいて、ちょっと危険な感じがした。弓で狙ったんだけど、変な魔法で防がれちゃって。けっこう本気だったんだけどなあ……」
「枢機卿……? 叔父が口にしていた人物でしょうか。いずれにせよ、あなたの弓矢を防ぐとは相当な手練ですね」
「重要人物なのは間違いないだろう。ぜひとも、捕らえて話を聞きたいものだ」
「ええ、後続を待ってから捜索を始めましょう。容易に逃げられるはずはありませんから」
現状は多くの敵兵を少人数で制圧している有様である。
降伏した敵兵を見張っているのは、ワムジーとラザリックだ。アルヴァにミスティン、それからグラットも会話に興じていても油断はしていない。
ただ、このままでは身動きが取れないため、後続の到着を待つ必要があった。
そうこうしているうちに三人の将軍――ガゼット、イセリア、ゲノスが兵士達を引き連れて、こちらへと渡って来た。埋められた水堀からこちらまでは高低差もあったが、ハシゴをかけて強引に解決したらしい。
「おお、イセリアや……」
「父上、よくぞご無事で……」
ワムジーとイセリアの父娘は再会を祝い合う。
「陛下、この度は私の力不足でした。帝都の治安を守る将軍でありながら、面目ありません」
ラザリックがエヴァートへ深々と頭を下げていた。ミスティンからすれば、ラザリックは無駄に尊大な男という印象である。しかし、こうして見れば、礼儀正しく立派な将軍に見えなくもない。
「やめてくれよ、ラザリック。それを言うなら、今回の件は僕の不徳の致すところだ。君達は命懸けで僕らを助けてくれた。それが全てさ」
エヴァートは懐の深さを見せるのだった。