大地を喰らうもの
光に包まれて、神獣を覆っていた赤黒い瘴気が消滅した。
「ふえ~、あそこから当てるたあ、さすがはミスティンだな」
グラットが感嘆の声を上げる。
「上出来ですね」
アルヴァは外壁の向こうにいるミスティンと視線を合わせ、杖を高々と掲げた。上空へと雷を放ち、礼砲を放ったのだ。
「しっかし、このまま押し切れるか?」
グラットは自らも投げ槍を投擲しながら、話しかけてくる。
槍は大口を開いた巨大ザメの口内にたやすく飲み込まれた。
「無理でしょう」
アルヴァは爆雷の魔法を放ちながらも、悲観的な見解を述べた。
赤黒い瘴気に弾かれていた矢は、今や鱗に突き刺さるようになっている。
今、命中した爆雷の魔法は、神獣の肉をかすかにえぐり取った。赤黒い霧状の血飛沫が周囲に飛び散る。
「さすがは上帝陛下の魔法だ!」
と、兵士達も褒めそやす。
先程とは違い、確実に損傷を与えている手応えはあった。
それでも、このまま押し切るには足らないのも事実だ。
神獣は身震いしたかと思いきや、突如加速する。続けられる攻撃を避けもせず、埋め立てられた水堀を突き進んでくる。
まっすぐにこちら岸へと到達した神獣は、石垣へと衝突した。
土砂と瓦礫が火柱のように上空へと舞い上がる。
接近しすぎていた数人の兵士が、衝撃に巻き込まれて吹き飛んだ。
神獣は巨体をのたうつようにして石垣を登り、こちらの岸へ至ろうとする。いや、登るというよりは、石垣を喰らう勢いだった。
……これ以上は無理だ。
そうして、アルヴァは次なる号令を下す。
「各自、退避してください!」
障壁を消滅させると共に、総攻撃で一気に撃破できれば理想的だった。
しかしながら、兵士達の消耗は著しく、特に精神力を切らした魔道兵は深刻だ。攻撃が散発的になっているのがその証拠だろう。
今は退いて再度の機会を待つべきだ。過去の事例に鑑みても、障壁さえなければ神獣も無敵ではないのだから……。
兵士達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
クジラより巨大なサメが、大地を斬り裂くように迫ってくる。それを目の当たりにしては、平静を保てないのも無理はない。
ガゼットとイセリアの両将軍が、撤退の指揮を執ろうと試みる。しかし、結果は芳しくなかった。
残念ながら、秩序を保ったまま撤退できる時期は過ぎてしまった。ギリギリまで攻撃をしたため、敵の接近を許してしまったのだ。
かくいうアルヴァ自身も、一目散に馬を走らせていた。次なる機会を求めて、今は生き延びることが肝要である。
アルヴァの身が軽いこともあって、馬の足は他の騎士達よりも速かった。整備された帝都の街道を、蛍光石の街灯を頼りに進んでいく。
……が、後方から響く破砕音がこちらを追ってくる。
振り返れば、大口を開き、街道を飲み込みながらやって来る神獣の姿があった。
妙な表現だが、そうとしかいいようがない。
巨大ザメは地面を突き進んで来るのだ。大口で街道を削りながら、蛇が這うように体をくねらせて……。
馬車の重量に耐えうるはずの丈夫な街道が、無惨にも破壊されていく。
「ぐわあっ、助け――!?」
走り遅れた騎士が馬もろともに、サメの大口に飲み込まれた。
慌てて目を背けるが、嫌な咀嚼音が後方から響いてくるのは避けようがない。厄介なことに、『食事』をしていても進む速度は変わらないらしい。
「なんじゃありゃ!? モグラか何かか?」
グラットは超重の槍を片手に、自らの足でアルヴァの馬に併走してくる。
どうやら、重力魔法を使いこなすことで、走る効率を上げているらしい。理屈はよく分からないが、彼も日々進歩しているようだった。
「形態はサメに近いですが」
「サメは地面を泳がねえよ!」
グラットがごく常識的な指摘をする。
「下界の砂海にもサメがいたでしょう。あれと似たようなものかもしれません」
アルヴァは下界でのなつかしい冒険を引き合いに出す。
もっとも、下界で見た砂海は水分を多分に含んでいた。今、後ろにいる魔物は文字通りに地面を泳いでいるのだ。
「つーか、俺達を狙ってるよな」
「私達――ではなく私でしょう。指示が出ているのか、それとも先程の魔法が効果あったのか。ともあれ、あなたも私から離れたほうがよいのでは?」
「やなこった。そんなつもりなら、最初からこっちには来ねえよ」
「……そうですか。くれぐれも無理はしないように」
アルヴァは諦め、それだけを告げた。
グラットは後ろを振り向いて。
「なんて、話してる余裕もなくなってきたみたいだぜ」
後ろに迫る破壊の音が大きくなってくる。
神獣が徐々に距離を詰めてきたのだ。
驚くことにあれだけの破壊活動をしながらも、なお馬並の速さで移動できるらしい。
「全く! 疲れを知らぬのでしょうか」
アルヴァの声にも焦りがにじみ出る。
試しに何度か魔法を放ってみたが、案の定効果はなかった。
「わりいが、馬は諦めてくれよな」
グラットはそう言うなり、左手でアルヴァの腰をつかんだ。右手に槍を握りしめたまま、アルヴァを馬から引きずり下ろす。
グラットは走りながら、アルヴァを左手に抱えたのだった。
「ちょっと! 何をするのですか!?」
上帝としてあるまじき情けない体勢である。アルヴァは必死に抗議するが。
「しゃーねえだろ。他に方法ねえしよ」
グラットは耳を貸すこともなく、地面を蹴った。アルヴァを抱えたまま、天高く飛び上がったのだ。
目の回るような速さで景色が移り変わっていく。抱えられた体勢のせいで、視点もまともに定まらない。こぼれそうになる悲鳴を、アルヴァは必死に押しとどめた。
すぐ下にあったはずの街道が見る間に遠ざかる。代わりに目に入った黒い水面が、不気味に揺れていた。グラットは水堀の向こうへと飛んだようだった。
一拍遅れて、巨大なサメが迫って来る姿が見えた。
しかし、こちらは既に空の上。
置き去りにされた馬は、自らの意思で逃げ出していた。幸い、神獣の餌食にはならなかったらしい。
*
二人は長い滞空の末に、水堀の向こうへたどり着いた。
重力を操る槍のお陰か、着地の衝撃はさほどでもなかった。アルヴァも両足でしっかりと地面を踏みしめる。
目の前には貴族の屋敷があり、その向こうにはネブラシア城の城壁がそびえている。
走っていた方向から推測すると、現在地はネブラシア城の南西側だろう。この辺りでミスティンとガノンドが、火災を起こしたはずだが、既に鎮火しているようだった。
「……屈辱です」
アルヴァは乱れた髪を直しながら、グラットに複雑な視線を向ける。
「そ、そんなに嫌そうな顔すんなよ……。あいつじゃなくて悪かったな。それよりあっちだ、あっち!」
グラットはわりと本気で傷ついたふうだった。それでも、アルヴァの腰に軽く手を添えたまま水堀の向こうを指差す。
さすがにアルヴァも申し訳ない気持ちになった。黙り込んで、視線を指差された先へと移す。
アルヴァは息を呑んだ。
対岸へ置き去りにされた神獣が、鋭い目でこちらを凝視していたのだ。
ゆったりとした動作で体を這わせ、水堀の手前まで追ってくる。
「来るなよ来るなよ……。来るんじゃねーぞ」
グラットが祈るようにつぶやく。
「…………」
もっとも、信仰心のないアルヴァに祈る習慣はない。ただ緊張の眼差しで、神獣の一挙手一投足を注視する。
神獣は水堀へと巨体を乗り出し、尖った鼻先を水面へ突っ込んだ。図体に似合わず、不思議と慎重な動作だ。
息が止まるような緊張が続くが――
その時、神獣の背中へと強烈な光が炸裂した。水堀に身を乗り出していた神獣の体が、わずかに押し出される。
「貴様の相手は俺だ! バケモノザメめ!」
姿を現したのは、一度は退避したはずのガゼットだった。十人ほどの騎兵を連れており、それぞれが投げ槍を構えている。
ガゼット自身も騎乗し、神獣の背中に槍を向けていた。
ただし、その槍は尋常の物ではない。光と一体化した穂先が、異様な長さまで伸びていたのだ。
恐らく、魔力によって穂先が構成されているのだろう。本来の槍と比較して、長さは数倍にも及んでいた。
背後を突かれた神獣は、振り向こうとする素振りを見せたが、それは許されなかった。
ガゼットが目にも留まらぬ速さで、さらなる突きを繰り出したのだ。空間を隔てているにも関わらず、穂先は神獣へと突き刺さる。
銀と黒の鱗が斬り裂かれ、赤黒い飛沫が噴出する。
さらに重量のある投げ槍が、神獣の脇腹に次々と突き刺さった。ガゼットの部下達が、将軍に続いて槍を投じたのだ。
神獣は水堀に向かってより一層押されていく。大き過ぎる体が災いして、向きの転換すら容易にはできないらしい。
それでも、神獣は恐るべき強靭さで踏ん張った。ヒレのような両腕で、石垣を砕きながらつかんだ。
「おい親父、無茶すんなよ!」
父の奮闘を目にしたグラットが、対岸へと大声で叫ぶ。勇敢かつ無謀な父の猛攻に、心配を隠せないようだ。
神獣はその巨体を大儀そうに転換させ、背後の敵へと向き直ろうとするが……。
「ふははっ、さらばだ!」
その時にはガゼットは馬を走らせ、颯爽と逃げ去っていた。騎士達も将軍に負けじ劣らずの逃げ足だった。
神獣は遅れて彼らを追いかけていったが、あの調子ならうまく逃げ切れるだろう。
「逃げ足が速え……!」
グラットは大きく安堵の息を吐いた。そうして、アルヴァに添えていた手を離す。
「さすがあなたのお父様。引き際を心得ていますね」
「それ褒められてんだよな?」
「さあて」