紅蓮の刀
「あれ退治したら、船賃の代わりにしてもらっていいですか?」
ここぞとばかりのソロンの申し出だったが――
「おい、坊主! お前がなんでこんなところにいるんだよ!」
船長はこちらを見るなり、即座に怒気を発した。どうやら、まともに取り合ってもらえなかったらしい。
「いや、部屋を出てもいいって言われたんで……」
「そうじゃねえ! 下で大人しくして――」
その時、船に激しい衝撃が走った。
見れば、皇帝イカが船の右舷に取りついたのだ。
「――くそっ! 分かったら、さっさと下に降りろ!」
ソロンの相手を諦めて、船長は船員達の元へと走っていった。
「うおっ!」
魔物の重量で船が傾き、船員達の悲鳴が上がる。
皇帝イカへ近づこうにも、揺れに足を取られて動くこともままならない。
白く大きな頭が右舷を越えて覗いていた。雲海から船上まではそれなりの高さがある。それすら越えてしまうほどに、皇帝イカは恐ろしく巨大な魔物だった。
気味の悪い大きな眼球が、人間達をギョロギョロと見回している。
「くらいやがれっ、バケモノ!」
揺れが収まった隙を見て、勇敢な船員が銛を手にして走り出した。
走る勢いを利用して、皇帝イカへと銛が投げつけられる。銛は頭に突き刺さったが、魔物が動じる様子は全くなかった。
ギョロリと皇帝イカの目玉が、船員をにらみつける。
次の瞬間――風を切る音と共に皇帝イカの触手が伸びた。驚くような速さで、予想もしない距離を伸びた触手が船員を打ちつけた。
「ぐはあっ……!」
船員は弾き飛ばされ船上に転がった。
あの巨体から繰り出される触手は、その重量も馬鹿にできない。相当な衝撃が、音となってソロンにも伝わってくる。
次々と皇帝イカは触手を振るい、人間達へと襲いかかる。
男達も武器を手にして応戦するが、みな腰が引けていた。ムチのようにしなる触手を前にして、恐れをなしているのだ。
本体にはとても近づけない。
慎重に距離をとりながら、触手に銛を突き刺すのがやっとだった。その銛も伸びる触手に弾かれて、手から落とす者もいる始末であった。
「ちっ、あれは魔法でもなけりゃキツいかもな」
皇帝イカを見据えながら、グラットが舌打ちした。
船上に魔道士らしき姿は見当たらない。見る限り帝国はソロンの故郷より遥かに繁栄していたが、魔道士が希少なのは変わらぬようだ。
「思ったより危なそうだね。ソロンも下がったほうがいいよ」
隣のミスティンが、ソロンを心配して声をかけた。
そう言う彼女は下がる気配もなく、弓を構えている。どうやら、戦いに参加するつもりのようだ。
「ミスティンもね。弓だからって安全かどうかは分からないよ」
弓の長所はもちろん、魔物と距離を取って攻撃できることだ。ただ皇帝イカの触手は、相当な長さまで伸びてくる。甲板にいる限り、身の安全は保証できなかった。
「大丈夫っ……!」
ムッとしたように、ミスティンは答えた。それと同時に弓を引き絞って、矢を放つ。
放たれた矢は皇帝イカの頭に見事命中。
相手が大きいとはいえ、揺れ動く船上で離れた的に当てるのは難しい。ミスティンは確かな技量を持っているようだ。
だが、その矢をもってしても、魔物は少し体を揺らしただけだった。皇帝イカはなおも船に取りついている。
「むう……」
ミスティンが不満げに声を漏らす。
「よし、じゃあ僕も」
そうして、ソロンは背負った鞘から刀を引き抜いた。
赤く幅広い湾曲した刀身があらわになる。
故郷でも貴重な紅蓮鋼を材料に、鍛冶屋で鍛えた刀である。過酷な師匠の特訓に、共に耐えてきた愛刀だった。
「ソロンって、戦えるんだ!?」
ミスティンが驚いたように、こちらを見た。
「戦えるに決まってるよ! 何のための刀なのさ!」
刀を飾りか何かだと思っていたのだろうか。
そうこうしているうちに、男達と皇帝イカの戦いは進んでいた。
「おらっ!」
グラットは槍を振り回して、向かってきた触手の一本を斬り裂こうとした。彼の槍は刃に重量があるため、叩き斬るにも適しているようだ。
「げっ、かてえっ……!」
ところが太い触手は、イカのそれとは思えないほどに強靭だった。
「そんじゃ、これでどうだ!」
グラットは触手の先端を斬り裂いた。どうやら、細い先端部分なら難なく斬り裂けるだろうと妥協したようだ。
「フッ……。他愛もない」
小さな成果に気をよくしたらしい。調子に乗ってキザな台詞を吐くグラットだったが――
皇帝イカは、先が断たれた触手をそのまま伸ばした。たちまち、触手はグラットの胴体に巻きついてしまう。
「えっ、ちょまっ!? 反則だろ!」
必死にグラットは槍を振るうが、あの体勢ではまともに力も入れられない。触手を断ち切ることはできなかった。
「あれはまずいな……」
ソロンは刀を右手に持って、グラットへ駆け寄った。紅蓮の刀身が赤光を放ち、高熱を帯びていく。
ソロンが刀を振り下ろせば、触手はたやすく斬り裂かれた。
「どわっ!?」
グラットは甲板に転がったが、すぐさま飛び跳ねるように起き上がった。
「――や、やるじゃねえか……。ってか、今どうやったんだ?」
「魔法だよ」
と、ソロンは刀を掲げて見せたが、
「はあっ?」
グラットはよく分かっていない表情で呆けていた。
それを尻目にして、ソロンは皇帝イカへと目をやった。
魔物は相変わらず右舷へ取りついているが、触手を振るう動きが鈍くなっている。触手の一本を断ち切ったことが、効いたようだ。
この機を逃さじと、ソロンは両手で刀を握りしめた。
あの巨体に弱い魔法を放っても効果はない。狙いは頭。なるべく上部を狙って、竜玉船へ燃え移らないようにするのだ。
紅蓮の刀がまばゆい赤光を放ち出した。ソロンが刀身へ魔力を集めた証拠だった。
ソロンは皇帝イカに向かって、思い切り刀を突き出した。
赤光が炎へと変わり、刃先から撃ち出される。
襲いかかる炎を前にして、男達を襲っていた触手が縮み出す。皇帝イカは炎を防ごうと触手を盾にしたのだ。
けれど、その程度でしのげる火力ではない。
炎は触手を飲み込んで、皇帝イカの頭へと到達した。
燃えさかるイカの頭部から、白い煙が湧き上がる。イカの体は多くが水分らしいので、水蒸気かもしれない。
「マジで魔法かよっ!?」
グラットが今更ながら驚きの声を上げた。
「もう一発!」
ソロンは油断なく、追撃の魔法を放とうとする。
ところが、皇帝イカは触手を引っ込めるや否や、自ら体を右舷から引き離す。
そのまま、雲海の下へと潜り込んでしまった。
「逃げたっ!?」
ソロンは船の端から身を乗り出すようにして、皇帝イカの姿を追った。
だが、どこにも見当たらない。
雲海の下へと完全に隠れてしまったのだろうか。
「全速力で行け!」
船長がここぞとばかり、操舵手へ指示を飛ばした。船を加速させ、魔物から引き離そうとしているのだ。
「凄え魔法だったな……!」
「あれなら、もう襲って来ないんじゃないか」
船員達は気が抜けた様子で、口々に声を上げていた。
仕留め損ねたとはいえ、これで終わってくれるならソロンとしてもありがたいのだが……。
……が、またも船に衝撃が走った。
「こっち!」
ミスティンの声に反応して、ソロンは振り向いた。
皇帝イカは反対の左舷側に取りついていたのだ。その頭からは炎が消えている。どうやら、雲海に潜って消火したらしい。
ミスティンが後退しながら、矢を連射した。
狙いは正確で一発、二発とイカの頭に命中する。素晴らしい腕前だが、やはり効きめが薄いようだ。
「くそっ、しぶといヤツだな!」
グラットが悪態をついた。
ソロンは再度、炎を放とうと狙いをつける。だが、イカは頭を低くして船の端からわずかに姿を見せるだけだった。
「さっきの魔法、使わないの?」
躊躇するソロンに対して、ミスティンが尋ねてきた。
「ここからじゃ、船まで焼いちゃうよ。直接、叩きつけるのが一番なんだけどね」
竜玉船も木造であるため、炎には弱いのだ。万が一、炎上しては誰一人生きて帝都に上陸できないだろう。
そう考えると、うかつには魔法を撃てなかった。
「直接叩けばいけるのか?」
ソロンの言葉に反応したのは、グラットだった。
「うん、やれると思う」
「おっしゃ、俺に任せな!」
合点したとばかりに、グラットは皇帝イカへと走り出した。魔物に引っ張られて傾く甲板を、彼は力強く蹴っていく。
「どうする気なの!?」
その背中に向かってソロンは叫んだが、グラットは振り向きもしなかった。
「私もやるだけやってみようかな」
ミスティンがつぶやきながら、弓を構えた。
グラットは触手が届くギリギリの位置まで近づいた。
「来いや! イカ野郎!」
それから、魔物に向かって手をこまねきながら叫びかける。
グラットの挑発が通じたかどうかは定かでないが、皇帝イカは彼を目がけて触手を叩きつけてきた。
間一髪で肩をかすめた触手は船床を割った。
それをグラットは逃さず槍で縫い止める。
そして、素手でつかんだ触手を脇に挟み両手で引っ張り出した。
「お前らもやれっ! イカ野郎を雲海に返すなっ!」
「お……おおっ!」
グラットが叫びかければ、他の男達も遅れがちながら呼応した。しぶとい魔物の攻勢に気勢を削がれていた彼らも、一縷の望みを見出したのだ。
船上に伸びていた触手を、総員でつかみ引っ張っていく。
今、船上では奇妙な綱引きが展開されていた。
そして――驚いたことに、あれほど巨大な皇帝イカが、甲板に向かって引っ張られてきたのだ。
思わぬ人間達の抵抗に、皇帝イカは狼狽しているようだった。残った触手を振り上げて、男達へ叩きつけようとする。
しかし、そこにミスティンの放った矢が突き刺さった。
触手は勢いを失い、船上へ落ちる。それを残った船員がすぐにつかんだ。合計七本の触手が引っ張られることになった。
「ぐおらぁ!! やれるか、ソロン!」
猛獣が吠えるように、グラットが叫んだ。
「任せて!」
ソロンは皇帝イカに向かって走り出した。同時に、両手に握った紅蓮の刀へと魔力を込めていく。
男達に引きずられた皇帝イカは、頭から体までが船上に乗りかかろうとしていた。
ソロンは甲板を蹴って、勢いよく跳躍した。
魔力に呼応して紅蓮の刀身が燃え上がる。
皇帝イカの頭めがけて、ソロンは刀を全力で振り下ろした。まさしく、斬るというよりも叩きつけるように。
手応えと共に、皇帝イカの頭から爆炎が巻き起こった。
爆風に煽られて、ソロンは背後へと吹き飛ばされていく。
他の男達もたまらず魔物から離れていった。
甲板に転がったソロンが、よろよろと起き上がれば、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。
「どうかな……?」
と、ソロンが左舷へ目を向ければ、頭を大きく欠損した魔物の姿が目に入った。イカの身体には詳しくないが、これで生きていられる生物などいるはずもない。
皇帝イカは頭から雲海へと落ちていき、やがては触手までも雲の中へと沈んでいった。
このまま雲海の中を漂って魚の餌となるのか、下界へと落ちていくのか、それはソロンの知識では分からなかった。