カトバ解放
「一気にカトバを解放しましょう。今なら防衛も手薄なはずです」
ソロン達と別れた翌日、アルヴァは進軍を指示していた。
アルヴァにとっては小さくない別れ……。けれど、それで計画を延期してはならない。今の自分は大勢の兵士の命を預かり、国家の命運を握る身なのだ。
目指すは穀倉地帯――カトバ市である。帝都を攻め落とすための補給拠点として、ゲノス将軍が進言していたのだ。
敵の大軍を蹴散らした上に、総指揮官であったデモイは捕らえている。次なる指揮官を選定し、軍を再編成するにも時間が必要となるだろう。
デモイから聞き出した情報によって、大公軍がカトバの防衛に割く余裕はないと考えられた。
カトバにも外壁はあるが、帝都に比べれば低くもろい。穀倉地帯であるため、日光を遮るような高い防壁は敬遠されているのだ。籠城して抵抗するにも不向きだろう。
アルヴァの予想は当たり、道中に大公軍の抵抗はなかった。
途中、遠くに敵兵の姿を認めたが、攻撃をしかけてくることはなかった。偵察が目的だったのか、あるいは前回の敗戦に士気を喪失したのか。
そうして、上帝軍はカトバ市にたどり着くや、外壁を包囲したのだった。
市は抵抗の意思すら見せず、あっさりと降伏の使者を送ってきた。既に大公軍は出払った後だったようだ。
上帝軍は難なく、カトバを占領したのだった。
カトバは農業を生業とした人口四万程度の中都市である。
遠く北西のイシュテア海から伸びる大河が、市の北方まで流れている。そこから汲み上げられた水は、水道橋によって外壁の中まで運ばれていた。
水は農業用水として活用され、カトバを豊かな農場足らしめている。そうして、栽培された作物が帝都へと供給されているのだ。
「呆気ないもんだね」
市庁舎へ向かう道中に、カリーナがつぶやいた。
周囲では上帝軍の兵士達が見回りしているが、緊迫した雰囲気はない。
大公軍の姿は一切なく、残された住民達もどこか安堵しているようだった。こちらが危害を加えないと見るや、皆一様に民家を出て見物を決め込んでいる。
例によって、住民達が向ける視線はアルヴァへと集中しているが、それはこちらも慣れたもの。アルヴァが愛想よく微笑み、優雅に手を振って見せれば歓声が沸き起こった。
「抵抗がないのはありがたいことですが……。ただこの様子だと、兵糧は期待できないかもしれません」
「どうして? ――ってああ、敵もバカじゃないもんね」
アルヴァの言葉にミスティンは疑問を示した――が、すぐに察したらしい。
見る限り、大公軍はカトバを完全に捨てた様相である。敵に少しでも思慮があれば、放棄した町へ物資を残してはおかないだろう。恐らくは帝都へ運び込むはずだ。
「あのまま勢いに乗ってカトバを攻め落とせれば、理想的だったのですが……」
デモイ将軍を破った後、時間を与えずにカトバを攻め落とせば、物資を奪われることもなかった。アルヴァはそれを後悔していた。
「それも結果論でしょう。あれはあくまで、ミューンの防衛が目的ですからな。そのまま進軍するのは無謀というものです」
ゲノスがアルヴァの後悔を否定した。
もっとも、その程度はアルヴァだって百も承知である。ゆえに、ゲノスの言葉は慰め以外の何物でもない。
「おお、さすが将軍のおじさんは賢いね」
「おじさん……」
ミスティンに褒められたゲノスは複雑そうな顔を作った。なんせ二人は父娘ほども歳の差があるのだ。
「ふふ……。将軍のおっしゃる通りです。これが最善だったと私も考えています」
そんな二人のやり取りを微笑ましげに見守りながら、アルヴァが答える。
「まあ、全く無意味というわけでもなかろう。見る限り、全ての物資を運んだとは考えがたいですからのう」
ガノンドが町並みを眺めながら指摘した。
穀倉地帯というだけあってカトバの土地は広く、一面の田畑が広がっている。
冬が明けたとはいえ、今もまだ寒さの残る時期である。収穫時期にはまだ遠い小麦が、町を緑に彩っていた。
小高い丘の上に立つ小屋には、目まぐるしく回転する風車が見えている。小屋の中では、備蓄された穀物をすり潰して粉に変えているのだろう。
「本当だね。全部が全部、略奪されたって感じはしないな」
ミスティンもガノンドの意見に同意する。
見渡す限り、カトバの町並みは平穏を維持していた。人気は乏しいが、乱暴な略奪や焦土作戦が展開されたようには見受けられなかった。
「ふむ、大公軍も焼き払う決断ができなかったのか……。被害が少ないことを願うばかりですわね」
*
「上帝陛下、どうかお許しください!」
市庁舎の一室にて、中年の男が平伏していた。
その頭上から表情もなく見下ろしているのは、上帝たるアルヴァ。室内には将軍達もいたが、男は憚りもなかった。
「サノーラ男爵、顔をお上げなさい」
アルヴァは眼下の男へ、淡々と声をかけた。
カトバを治めていたサノーラ男爵は、大公軍に呆気なく町を明け渡した人物である。
カトバは皇帝の直轄領であり、男爵は代官として赴任しているに過ぎない。つまり、皇帝が認めなければ、その職務も失ってしまうのだ。
「はっ……」
男爵は恐る恐る顔を上げて、アルヴァを窺う。
「あなたが父の代から、勤勉に務めていたことは私も存じています。それに免じて今回は許しましょう」
「ははあ……」
「引き続き、統治もお任せします。もっとも、処分を決める権限を持つのは、あくまで皇帝陛下です。その点についても、いずれ私がとりなしておきましょう。その代わり、わが軍への支援をお願いします」
「仰せのままに」
サノーラ男爵は再び深々と頭を下げた。
「それより、この町の農作物はどうなっていますか? 外の小麦は無事なようでしたが」
男爵への温情を示したアルヴァは、最も気になっていた内容を切り出した。
「食糧庫にあったものは、大部分を大公軍に奪われてしまいました。外にあるのは収穫前でしたので、大公軍も手をつけなかったようです。ただ陛下へ献上しようにも、まだ数ヶ月はかかるかと……」
「収穫前のものは仕方ありませんね。いずれ必要となれば、適切な対価で買い上げましょう。そうなると、すぐに使える食糧はないということでしょうか?」
胸中の落胆を抑えるように、アルヴァは尋ねた。
カトバでの補給が当てにならないならば、補給手段を別に考える必要がある。他の町を見つけるか、ミューン港からの輸送に頼るか……。いずれにせよ、帝都への進軍は大幅に遅れるだろう。
「いえ、地下には非常時の備蓄が残っています。それをお使いなさるとよいでしょう」
「朗報です。よく無事だったものですわね」
「はい。連中も上帝陛下の進軍を耳にして、大慌てでしたから。庁舎の地下室まで探る余裕はなかったようです」
デモイ率いる大公軍との会戦から、わずか五日しか経っていない。大公軍にしても、敗戦の混乱の中で食糧を接収する余裕はなかったということだろう。
アルヴァはしめしめとほくそ笑みながら、男爵から詳細を聞くのだった。
「占領した甲斐があったみたいだね」
男爵が引き下がった後で、ミスティンが入れ替わりにやってきた。
「よく分かりましたね」
「嬉しそうな顔してるし」
「そうでしょうか……。ミスティンには隠せませんね」
と、アルヴァは自分の顔を押さえて苦笑する。
「それで、どうだった?」
「男爵の話によれば、数週間は全軍の食糧を供給できそうです。その間に、友好的な諸侯から支援を受ければ当面の問題はないでしょう」
アルヴァは問題を一つ解決して、ひとまず安堵していた。戦争の遂行には、食糧の確保が欠かせない。ここでつまづくようなら、帝都への進軍もままならないのだ。
「それにしても、男爵をお許しになるとは……。先日に引き続き、上帝陛下は情け深いですね」
イセリアは興味深げに感想を口にしていた。アルヴァの一挙手一投足が、彼女にとっては興味の対象らしい。
「情けという程のものでもありませんよ。町を明け渡したのは確かに男爵の落ち度です。……が、他に手段を取りようがなかったのも事実。話を聞く限り、大公派というわけでもなさそうですから」
しょせん町一つの持つ兵力など、たかが知れている。カトバの住民と男爵が大公軍に抵抗しなかったのは賢明――それがアルヴァの考えだった。
「ふうむ、私ならせめて一戦は交えますがなあ」
不満そうな顔で口を挟んだのは、ゲノス将軍だった。
「それはあなたがた武官の発想ですよ。町と民に被害を出さないため、降伏するのも立派な決断です」
勇将の意見を、アルヴァはやんわりとした口調で諌めるのだった。
「そういうものですか……」
納得はしかねるらしく、ゲノスはなおも不満そうだったが、
「相変わらずお主は頭が足らんのう。偉くなって少しは成長したと思うたが」
そこへ辛辣な言葉を浴びせたのは、ガノンドだった。
「……陛下、この老人は何者ですか? イドリスの者とは聞きましたが、そちらに私の知り合いなどいないはずです」
機嫌を害したらしいゲノスが、アルヴァへと尋ねてくる。
「ああ、説明していませんでしたか? そちらはガノンド・オムダリア元公爵です」
アルヴァは失笑を手で押さえながら説明した。
「なんですと!? ガ、ガノンド副将軍! 追放されたのではなかったのですか!?」
ゲノスは驚愕に目を見開き、ガノンドの顔をまじまじと見やった。
「ふはは! わしの顔を見忘れたか、カーデルよ! わしは不死鳥のように下界から舞い戻ってきたのじゃ! 姫様と共にな!」
そしてガノンドは、高笑いと共に勝ち誇った。相変わらずの大人気ない老人である。
「馬鹿な……。いや、しかし、見間違いようがない……!」
「親父さんも顔が広いね。昔は本当に偉い人だったんだ」
と、カリーナが忌憚なく発言する。無理もないが、父の威光をいまだ疑いの目で見ていたらしかった。
「名門ですからね。帝都の主要貴族では、知らぬ者のほうが少ないでしょう」
アルヴァの父に、母方の祖父――いずれもガノンドとは旧知の間柄らしかった。偶然というよりは、ガノンドがそれだけ重鎮だったということだろう。
「わしが北方で従軍した際に、こやつは部下だったのです。成人したばかりの若造でしたが、ゲノス伯爵家の長子でしたからな。それで最初から百人長待遇だったのですじゃ」
百人長とはその名の通り、百人の兵士を率いる隊長職である。名家の子弟か、熟練の兵士が務める役職だった。
「副将軍――いや、ガノンド殿。どうかその話は……」
ゲノスが制止しようとするが、ガノンドは気にする素振りもない。老人の昔話は留まるところを知らないのだ。
「そのせいで歳上の部下に、しょっちゅうイジメられてましての。その度に、わしのところへ泣きついてきたのじゃよ」
「泣きついてはいませんし、イジメというほどのものでは……。ただ素行の悪い部下がいれば、義務として報告せねばならなかっただけです」
ゲノスが必死に抗弁する。
「ゲノス将軍にもそんな時代が……」
イセリアが興味深そうに口を挟むが。
「わしはお前さんに会ったこともあるのじゃぞ。イセリアや」
すると、ガノンドはイセリアへと矛先を向けた。
「私と? 記憶にございませんが……」
イセリアはきょとんと目を見開いた。
「そらそうよ、赤ん坊じゃったしな。ワムジーの奴とも、副将軍同士で交流があった。その後、すぐにわしも追放されてしまったがのう……」
「そ、そうですか、父とも知り合いだったとは……。しかし、そうなるとあなたはビロンド将軍の……」
「そう、ビロンドはわしの弟じゃ。愚弟ではあるが、始末はつけてやらんとな」
ガノンドは不敵に笑い、弟との対決を誓ったのだった。