大公と枢機卿
まだ日の昇りきらない早朝、オトロス大公はいつもの如く眠りについていた。
ここはネブラシア城の三階にある貴賓室。オトロスが城を占拠した際に、居室にと選んだのだった。
一人用としては不必要なほどに室内は広く、飾りつけの意匠も優れていた。そこいらの貴族なら、豪華絢爛と口をそろえて褒めそやすだろう。
……が、あいにくオトロスは大貴族である。この程度の部屋を手に入れた程度では満足できなかった。
本当なら皇帝の居室を接収したいところだが、まだ早い。あまり欲を出しては無用な反発を招いてしまう。元老院の連中に、付け入る隙を与えるべきではないのだ。
と、そこへ居室の扉を叩く音がした。
「閣下、オトロス閣下!」
声は馴染み深い執事のものであるが、その声には激しい動揺が混じっていた。
「む、なんだ……」
普段ならまだ数時間は眠りについているところである。渋々ながら、オトロスはベッドから起き上がった。寝間着のままで、扉を開ける。
「閣下! デモイ将軍が敗れたそうです!」
扉を開けるやいなや、執事は非礼を詫びることなく言い放った。
「な、なんだと……!? デモイの奴、死におったか……!」
オトロスの表情は凍りついた。眠気も一息に吹き飛んでしまった。
敵に二人の将軍がいるとはいえ、兵力ではこちらが上回っていた。だからこそ、今回の戦いはデモイに任せて、オトロスは惰眠を貪っていられたのだ。
「それが、上帝軍によって捕らえられたと!」
「小娘相手に生け捕りとは、恥さらしめ! せっかく、軍を任せてやったというのに、口ほどにもない!」
「は、はあ……」
執事はどう答えたものかと、困惑しているようだった。もっとも、オトロスにしても何か返事が返ってくるとは期待していない。
「何をしている早く着替えさせろ! それから、ビロンドを執務室へ呼び出しておけ」
気を取り戻したオトロスは、悪態をつきたい気持ちを抑えて指示を飛ばした。
執事の後ろに控える召使いが、オトロスの衣服に手をかける。大貴族たるオトロスにとって、着替えは召使いの仕事である。それはこの非常時にも変わりなかった。
着替えを済ませるや、オトロスは執務室へと急いだ。
「お呼びですかな、大公閣下」
そこで待ち受けていたのは、赤いマントを羽織った中高年の男だ。帝国十将軍の一人ビロンドである。
「デモイが小娘に敗れた。以降、軍はお前に任せたい」
オトロスは担当直入に言った。
明確に味方といえる将軍は三名。その内の一人、ソブリンはネブラシア港の雲軍基地に駐在している。デモイがアルヴァネッサに敗れた結果、陸の防衛を一任できるのはビロンドしかいなかった。
「順当ですな。それでは私が軍を率いて、アルヴァネッサに挑みましょうか? 恐らく、敵はカトバを狙ってくるでしょう」
冷静な口調ながらも、ビロンドはわずかに目を細めた。競合が減ったことをほくそ笑んでいるのだ。
「いいや、帝都の防衛を固めてもらいたい。あの小娘のことだ。どうせ早期決着を狙ってくるだろう。そこを挫いてやるのだ。カトバ如きはくれてやっても構わん」
「さすがは大公閣下ですな。思い切りがよい」
いつものようにビロンドは追従してみせる。決して実力がないわけではないが、こういう小物じみたところは残念なようにも思う。
「頼んだぞ。昼夜を問わず監視させ、敵の動きを見逃すなよ」
「お任せあれ」
優雅に礼をして、ビロンドは退出していった。
その背中を見送ったオトロスは、まだ呼ぶべき相手がいることを思い出した。
「次だ。枢機卿を呼べ!」
オトロスは再び執事に向かって怒鳴りつけた。
執事はそれに従って、急いで別室へと走っていく。
「閣下、何のご用でしょうか?」
呼ばれてやって来た人物は、大公とは対照的に落ち着き払っていた。ゆったりとした足取りで、オトロスのそばへと歩み寄ってくる。
全身に赤い衣をまとっており、その顔も目深なフードに隠れている。声や体型、わずかに覗く顔から、性別は女であると判断できた。
「誰も部屋に近づけるなよ」
オトロスの指示に従って、執事は枢機卿と入れ替わるように外へ出た。内密の話をするため、見張りをさせる必要があったのだ。
それから、オトロスは枢機卿へと視線を移す。
「――何の用だと! あの小娘がデモイを破ったそうだ。お前達の計画によれば、上帝は帝国に戻って来ないのではなかったか!?」
オトロスはまくし立てるように、枢機卿へ迫った。
「ほう、それはそれは……。さすがはアルヴァネッサ陛下ですね。獣王を破り、デモイ将軍を破り、こうも短期間で帝都へ迫るとは見事というしかないでしょう」
枢機卿は穏やかな口調で、他人事のように語った。なぜだか、この女はドーマの出来事について顛末をつかんでいるらしい。
その態度が、オトロスの頭に火をつけた。
「見事もクソもあるか! そもそも、お前達がドーマで、あの小娘を始末する約束だったろうが! 雲海の藻屑にするのではなかったか!?」
「閣下。我らは約束通り魔物を放ち、上帝陛下の船団を襲撃しました。ただ運悪く、結果が伴わなかっただけに過ぎません」
「畜生めがっ……」
大公は忌々しげに枢機卿をにらんだ。赤いフードの下から、うっすらとその目が微笑み返してくる。
「ですが、多少の計画違いも承知の上でしょう。遠征が成功し、北方の情勢が落ち着けば、皇帝・上帝――両陛下の名声が高まってしまう。北に軍を割く必要もなくなれば、もはや付け入る隙はなくなる。その前に行動を起こすという閣下の決断に、誤りはなかったはずです」
「う、うむ……。それは分かっておる」
よどみない枢機卿の説明に、オトロスは頷かざるを得なかった。
「実際、閣下は帝都を手中に収めたのです。上界で最も繁栄した都市である帝都を……。既に計画の半分は、達成したも同然ではありませんか?」
「そうだな……だが――」
「それとも、閣下では皇帝陛下や、上帝陛下に敵わないとでも?」
挑発的な薄笑いを浮かべた枢機卿に、オトロスの顔色は赤く染まった。
「な、何を言うか、俺があやつらに劣るはずなどなかろう。小僧も小娘も、全てを俺の足元にひざまずかせてやる!」
「そう――仰せの通りです。わが教団はあなたこそが、皇帝にふさわしい人物だと信じています。だからこそ、力をお貸ししたのですよ。一昨年には一人の皇帝が亡くなり、昨年にはもう一人の皇帝が追放されました。事が成ったにも関わらず、誰もあなたに疑いを持ちませんでした」
「それについては感謝しておる。だが、小娘は帝国に復帰し、俺はいまだ皇帝になれていない。今回こそが、その仕上げとなるのだ。失敗は許されん」
少し気が鎮まったのか、オトロスの語調も冷静さを取り戻していた。
「ご心配なく。万が一の時に備えて、我々がついています。カオスの力――あなたもご覧になったでしょう? 何を恐れることがありますか?」
オトロスは頷いたが、かすかな懸念材料を思い出した。
「ああ……。だが去年、あの小娘が呼び出した神獣は、倒されたではないか?」
当時、オトロスは帝都を離れており、例の事件を目で見たわけではなかった。だが、死闘の末に神獣は消え去ったという。カオスの化身たる神獣とはいえ、絶対の存在ではないのだ。
「それも、心配無用です。あの神獣が滅んだのは、星霊銀の力によるもの。しかしながら、神鏡も宝物庫も今は閣下が抑えてらっしゃいます。上帝陛下が抗う術はありません」
「ふむ、そういうものか」
「第一、我々は上帝陛下を亡き者とするため、神獣を召喚させたわけではありません。結果的に、帝都へ必要以上の被害を与えなかったのも、閣下の注文通りでしょう?」
「うむ……。支配する帝都がなくなっては俺も困るからな。小娘を失脚させられれば、それでよかった」
オトロスは枢機卿の説明に納得し、頷くしかなかった。
今に始まったことではないが、目の前の女が何を考えているか理解できなかった。
だがそれでも、皇位継承権の低いオトロスが戴冠するには、圧倒的な力を手に入れるしかない。それを成すには、目の前の枢機卿の協力が不可欠だった。
「カオスの力はあの程度ではありません。閣下が揺るぎない意志で、力を行使してくだされば、必ずや事は成就するでしょう」
「分かった。だが、あくまでも最後の手段だ。お前達の魔物は何をしでかすか分かったものではないからな。この戦いには、なるべく帝都へ損害を与えず勝つつもりだ」
口ではそう言ったものの、大公の本心は違った。
邪教の力を借りている事実は、できる限り公にしたくない。公然と邪教の力を使う時期は、できる限り先延ばししたい。
実情はそんなところだった。
「ええ、我々としてもそれで構いません。ですが、時を逃さぬことを願います。ふふっ……」
枢機卿はそう応え、艶然と微笑んだのだった。
* * *
「相変わらず、浅ましいこと……」
会談を終えて個室に戻った枢機卿は、わずかな疲れを感じて息を吐いた。大公の協力者として重用される彼女は、城内に部屋を与えられていたのだ。
俗世にまみれた大公は、使命に殉ずる枢機卿とは正反対の性格である。話していても、必ずしも気分がよいものではない。
「それにしても……」
気になったのは、帝都に現れた神獣を倒した少年だ。
人畜無害な見た目の印象とは裏腹に、なかなかの実力者らしい。神鏡の力を借りたとはいえ、神獣が一日も経たず倒されたのは意外な驚きではあった。
なんとなく気になっていたところ、後日、下界の小国の王子であると耳にした。追放されたアルヴァネッサを救出したのも彼らしい。それ以来、彼女達とも不思議と縁があるようだ。
それに留まらず、ドーマで獣王を倒したのも彼だと報告を受けている。
そして、少年も上帝と共に帝国へ戻ってきた。
――が、恐らくこちらに来ることはないだろう。王子であるからこそ、故国の危機は無視できないはずだ。
彼なしでアルヴァネッサがどれだけ戦えるか、見せてもらうとしよう。