お互いの祖国を
ミューンに引き返して数日が経った。
上帝軍はカトバへの進軍を決定し、翌日にも動き出す予定だった。
カトバを落とすこと自体はさして難事ではないだろう。だが進軍を始めれば、帝都を奪取するまで引き返せない。それが皆の共通認識であり、軍全体でも緊張が高まっていた。
来客が訪れたのは、そんな時だった。
訓練の合間、市庁舎で過ごす休憩時間。
ソロンはミスティンやメリューと他愛のない会話をしていた。アルヴァが忙しく手を離せないため、三人でいる機会が多かったのだ。
すると――
「ソロニウス殿と面会を求める方々がいらっしゃるのですが……。広間でお待ちいただいていますが、通してよろしいでしょうか?」
兵士がそんなことを恭しく尋ねてきた。
「僕に?」
「そなたに来客とは珍しいな」
メリューが意外そうにソロンを見やる。
「もしかして……!? 僕から行きますよ」
兵士の返事を待たずに、ソロンは歩き出した。
ソロンを指名して会いに来る人物となれば、候補は限られている。はやる気持ちを抑えきれなかったのだ。
「坊っちゃん!」
市庁舎の広間に出たところで、一人の男が走り寄ってきた。
灰茶の髪色をした眼鏡の青年。いかにも魔道士然とした草色のローブを身にまとっている。
ソロンに対して、坊っちゃんなどと呼びかけるのは世界に一人しかいない。……いや、少し前に二人になったのだったか。
ともあれ、来客は予想に違わぬ人物だった。
「ナイゼル! 脱出できたんだね!?」
ソロンのよく知る故郷の親友――ナイゼルはいつにない真剣な面持ちだった。
「ええ、父さんも姉さんも来ていますよ」
と、ナイゼルが後ろへと手をかざす。
そちらを見れば、矍鑠と追いかけてくる老人の姿。さらにその後ろには亜人の娘が続いていた。
ナイゼルの父ガノンドと、その娘のカリーナだ。
「全く……。わしを置いていくでない」
ガノンドは息を切らしながら、ナイゼルへと苦言を呈した。
息子と同じ灰茶の髪は加齢によって白さを増している。それでも六十を過ぎた年齢を考えれば、豊かなほうだろう。こちらも歴戦の魔道士らしく、茶色いローブをまとい、腰に杖を挿していた。
「親父さん。別に無理して走らなくてもいいんだよ」
と、後ろを歩くカリーナがガノンドを気遣った。
ウサギの亜人――人兎の母を持つカリーナは、母譲りの薄紅色の髪と長耳の持ち主である。こちらは旅慣れた冒険者のような服装で、ナイゼルよりもよほど体力がありそうだった。
「みんな無事でよかった。けど、よくここまでやって来れたね」
ソロンは顔をほころばせながら、三人へと尋ねた。彼らはそろって、帝都のイドリス大使館に滞在していたはずだった。
「脱出自体は、さほど難しくありませんでしたよ。元より、我々のような小国の者など眼中にないといった感じでしたし。商人に化ければ、あっさりと門を抜けられました。連中にしても、他の町との交易を止めるわけにはいきませんからね」
「そっか、安心したよ。ずっと気になってたんだ」
ホッと息をついたソロンだったが、ナイゼルは真剣な面持ちで首を横に振った。
「残念ながら、安心できません。坊っちゃん、ラグナイがまたもイドリスに侵攻したそうです」
「なっ!? こんなに早く! それで大丈夫だったの!?」
胸中の動揺を抑えて、ソロンは故国の安否を問いかけた。
ラグナイ王国は、イドリス王国にとって不倶戴天の敵。イドリス北方と国境を接する下界の大国だ。
ラグナイが前回の戦争をしかけたのは、おおよそ一年前のこと。それによって、ソロンが上界に逃れたのが全ての始まりだった。
そして、両国が停戦に合意してから八ヶ月。あまりにも早い再侵攻だといえた。
「サンドロスがどうにか追い返したそうじゃ。とはいえ、それも敵の第一波に過ぎぬだろうがな」
それには、ガノンドが答えてくれた。
ラグナイはイドリスに比較して数倍の人口を抱えており、軍事面でも常に優勢だった。国王たる兄サンドロスの苦境は、想像するまでもない。
「ラグナイっていうと……。あの何とか教団絡みだよね」
背中側からミスティンが会話に加わってくる。メリューと二人でソロンの後を追ってきたらしい。
「何とかじゃなくて、ザウラスト教団ね。この前、君の姉さんと話したでしょ」
ソロンも振り向いて答える。
ラグナイ王国はザウラスト教を国教として崇めている。怪しげな術を操る彼らの後援によって、ラグナイは飛躍的に勢力を増大させたのだ。
「ほう、ザウラストか……。連中があちらでも動き出したか」
メリューもこれには関心を持った。
彼女の故国たるドーマ連邦は、ザウラスト教団との長い対決の歴史を持っている。数ヶ月前のドーマで起こった騒乱は、今も記憶に新しかった。
「ええ、ザウラストの加担は疑いようもありません」
ナイゼルは銀竜族の娘に、かすかな驚きを見せながらも言い切った。それから、ソロンをまっすぐに見据えて言葉をつむぐ。
「――数日前に、サンドロス陛下の使者とどうにか合流できたのですが、それによれば至急帰還せよと」
「だけど、僕は――」
ソロンはためらった。
先日の戦いで実感した通り、ソロンが持つ蒼煌の刀は絶大な力を誇っている。
今の自分なら、一人で千の軍隊と戦うことも不可能ではない。それも自惚れや誇張ではなく客観的に評価してだ。少なくとも、ソロンはそう確信していた。
単身で力を振るえる柔軟性を考えれば、千の軍隊を大きく上回る利点がある。この先もアルヴァの戦いを優勢へと傾けられるだろう。
そして、ソロンとしては友好国の一員として、彼女に協力し続けるつもりだった。兄ならば、それくらいは許してくれるだろうと。
しかし、それもイドリスが平時だからこそ言えるのだ。
自国の危機を放置して、他国への協力を優先する――そんな行為にどれほどの正当性があるだろうか。
「ソロン」
思い悩むソロンの背中へと、静かな声がかけられた。
振り向けば、アルヴァはゆったりした足取りでこちらへと近づいてくる。
「アルヴァ……」
ソロンはアルヴァと視線を合わせた。
彼女は物憂げな表情でこちらを見つめ返したが、すぐに首を横に振って長い黒髪を揺らした。
「行きなさい、ソロン。ザウラスト教団は大公とつながりを持っていると、セレスティン司祭は言いました。この時期にイドリスへ侵攻したのには意味があるかもしれません」
「…………」
ソロンは言葉もなくアルヴァを見つめ続ける。
「私なら大丈夫です。お互いの祖国を守りましょう」
自らも迷いを振り切るように、アルヴァは告げたのだった。