踊る蒼炎
横を向いた獣王の姿が、ソロンの瞳に入った。
その巨体にはハリネズミのように、大量の矢が突き立っている。
ミスティンと兵士達が矢を射って、獣王の動きを牽制してくれていたのだ。そのお陰で、まだこちらには気づいていないようだ。
もっとも、獣王に対して、その程度の攻撃は決め手にはならない。
それでも、一応の痛みは感じるらしく、獣王は目に怒りを宿らせていた。血走った目を向けて、今しも兵士達へ襲いかかろうとする。
「やっ!」
疾走と共にソロンは刀を一閃――青い火球が放たれた。
獣王の横腹に火球が直撃し、その身を焦がす。
うめき声を響かせながら、獣王は足を止めた。兵士達がその隙を見て、散り散りに逃げていく。
単純な魔法ではあるが、蒼煌の刀が力を与えてくれている。獣王にも確かな効果があるようだ。
「うっ、があぁぁ!!」
異形の獣王がこちらを振り向いて、目を留めた。大声で吼えたて、怒りをあらわににらんでくる。
獣王はこちらを敵と認識したのだ。シグトラに代わって、これよりソロンが矢面に立たねばならない。
「だりゃあっ!」
ソロンは威圧にも負けず、青の火球を放った。
対する獣王は爪を振るって、風圧の壁を作り出す。火球は霧散するように弾け飛んだ。
「ダメか……」
正面からでは簡単に防がれてしまうようだ。
獣王は体を捻り、爪を軽く一振りした。空気を震わすような衝撃波が巻き起こる。
それをソロンは転がってかわした。
「ぐっ……」
だが吹き飛んだ瓦礫が、体へと打ちつけてくる。
ソロンとしては、安全な距離を取っていたつもりだった。計算が狂ったのは、異形と化す前よりも魔法の威力が上がっているせいだ。
「この程度……!」
痛みに耐えながら転がり起きる。起き上がりざまに、また火球を放つ。
今度も獣王は爪で火球をかき消した。
……が、その瞬間――獣王の体が衝撃につんのめった。獣王の後頭部に、槍が突き刺さったのだ。
巨竜でも仕留められそうな見事な一投。飛び上がったグラットが、流星のように投げ槍を投じたのだった。
だが、それでも獣王の動きは止まらない。頭部に槍を突き刺したまま体をひねり、振り向きざまに爪を一閃。
「ぬわーっ!?」
強風に煽られて、グラットは吹き飛んでいった。
「よそ見するなよ!」
ソロンはすかさず飛びかかった。無防備となった獣王の左足へ、強かに刀を叩きつけた。
蒼炎をまとった刀が、肉を焼き斬る。信じられないほど分厚い肉であったが、それすらも蒼煌の刀は斬り裂いていく。
赤黒い霧状の血が吹き出す。だが、同時に燃え移った蒼炎が、即座に霧を蒸発させた。
渾身の一撃の結果を待たずして、ソロンは走って離脱した。
敵はあの巨体だ。少し手足を振り回されただけでも、こちらは致命傷を受ける。慎重に距離を取らねばならない。
分厚い毛皮に覆われた左足が炎上を続ける。
「ぐがああぁ!?」
奇怪な叫びを上げながら、獣王は左足を上げた。下半身を巻き込もうとする火柱を、不格好にも両手の爪で叩く。
そこへ大量の矢が降り注ぎ、獣王へと追い討ちをかけてくれた。
度重なる痛みにもだえ苦しみながら、獣王は強引に炎を消し止めた。
左足への攻撃が効いたのだろうか。さしもの獣王も体勢を崩し、地面に手をつけた。
「少しは効いたかな……?」
あまり期待せずにソロンがつぶやいた。
獣王はそのまま両手を地面に降ろし、唸りを上げた。頭を低くして、こちらに射抜くような眼光を送ってくる。
「あの構えは……!?」
まるで四本足の獣のような構え。ソロンの脳裏に嫌な予感が走った。
「うわっ!? 来るな!」
ソロンは火球を放ち牽制した。
獣王が飛び出し、火球へと頭から突っ込む。巻き起こる爆炎をくぐり抜けて、そのままソロンへと巨体が突進してきた。
両手――というよりは前足を使って、地面を蹴って進んでくる。獅子の本性をむき出しにして、突進してくるつもりだ。
その時には、ソロンは背を向けて逃げ出していた。
体格の差を考えれば、逃げ切れるはずはなかった。獅子と競争して勝てる人間などいないのだから。それでも、すぐに追いつかれなかったのは、敵が左足を痛めていたからだろう。
「どいて、どいて!」
周囲を囲んでいた兵士達が、散り散りになっていく。ソロンの帝国語が通じた――のではなく、追ってくる獣王に恐れをなしたのだ。
振り向かなくとも分かるような、凄まじい地響きが追ってくる。
ソロンは一目散に、市街地の中を走り回った。
獣王が建物を破壊しながら、追いかけてくる。だが、破壊に力を使っただけ勢いは失われる。お陰で簡単には追いつかれないはずだ。
建物の破壊について罪悪感に襲われるが、それには目をつむる。結果的に獣王を倒せれば、全ては許されるだろう。……たぶん。
ソロンは振り向きながら、獣王に刀を向けた。火球を連射し、少しでも獣王の速度と体力を削いでおきたい。
「どうだ! 喰らえっ!」
火球が次々と獣王の巨体に被弾していく。
周囲の建物を巻き込むように爆炎が上がっていく。瓦礫が崩れ落ち、それがまた獣王の動きを妨害してくれた。
満足に身動きも取れない獣王を、様々な角度からソロンは攻め立てた。一箇所には留まらず、次から次へと火球を撃ち続ける。
機敏を活かした変幻自在の攻撃こそが、ソロンの強みである。正面から巨体に挑む必要はないのだ。
だが……。
「ぐうっ、はぁ……。これじゃあキリがないよ」
ソロンは積み重なる疲労に肩で息をした。底なしの体力を誇る獣王に、決定的な打撃を与えられないでいた。
しかも、逃げるために仲間のいる場所を離れてしまった。今や援護も期待できなくなった。
このまま孤独に戦い続けるしかないのだろうか。これではソロンの体力と精神力が、先に尽きてしまう。
「だったら――」
こうなれば強烈な一撃を加えて、終わりにするしかない。刀に魔力を溜めて一気にぶつけるのだ。
だが、それだけの隙を見つけられるだろうか? できないからこそ、こうやってちまちまと火球をぶつけているのだが……。
ともかく、獣王は瓦礫の中に埋もれて動きを止めている。魔力を溜めるなら、今が好機だろう。
ソロンは両手に持った刀を掲げ、魔力を溜めようとした。
その時、瓦礫の山が盛大な音を立てながら、飛び散った。中から獣王が飛び出してきたのだ。
「しまった!?」
ソロンの想定を越えて接近されてしまった。すぐには出てこれないだろうと油断していたのだ。
飛びすさるソロンを追うように、獣王は爪を突き出した。
魔法の暴風が巻き起こり、ソロンを押しやろうとする。
「ぐっ……!」
魔法に対しては、魔力をぶつけて相殺するのが魔法使いの戦い方である。ソロンは刀を暴風へ向けて、打ち消しにかかった。
だが、全身を包むように襲いかかる魔法を、全て打ち消すのは難しい。
身を斬り裂くような暴風を受けて、ソロンの体は大きく吹き飛んだ。背中を建物へ強く打ちつける。
「いって……!」
地面に転がりながら、ソロンは悲鳴を上げた。
頭を打たなかったのは幸いだが、背中の痛みで起き上がれない。
獣王がジリジリとにじり寄ってくる。獲物を追い詰めた猛獣のように、四本足でゆっくりと迫ってくる。
もしこちらが動けば、その瞬間に飛びかかってくるに違いない。
「師匠、やっぱり無茶ですよ……」
ソロンはあまりの痛みに、泣き言を漏らした。
そもそも部外者の自分が、なぜここまで必死にならねばいけないのか?
ドーマへの旅に同行したのは、ただアルヴァが心配だったから。それから、見知らぬ土地への旅に魅力を感じたのも否定できない。
アムイ城への潜入に同行したのは、メリューを放っておけなかったから。今、戦っているのは師匠に恩を返したかったからだ。
「はぁ……。これだけあれば十分か」
と、ソロンは刀を握りしめた。
伏せた体勢のまま、ありったけの魔力を込めていく。蒼煌の刀が呼応し、刀身から青い炎が湧き上がる。
諦めていたのは口だけで、心と体は諦めていなかった。
死ぬなら死ぬで、一矢は報いておこう。そうしたら、彼女達が目の前のバケモノを倒す糸口になるかもしれない。
獣王が大きく爪を振りかぶった。それをソロンは目をそらさずに直視する。
巨体から振り上げられる爪は、こちらよりも遥か高みに位置している。それが降ろされた時の衝撃は疑いようもない。ソロンなど跡形もなくなるかもしれなかった。
「もっと、力を……!」
刀へ蓄える魔力はまだ足りない。もっと時間が必要だ。だがこのままでは――
その瞬間、ソロンの瞳にまばゆい閃光が映った。
「ごぶぅ……!?」
閃光は獣王の眉間へと突き刺さり、巨体が後ろによろめく。獣王はたまらず眉間へ手をやろうとする。
だが、閃光は一本だけではなかった。
何本もの閃光が軌跡を描きながら、獣王めがけて襲来してくる。
輝くそれは、星霊銀の矢だ。
獣王はどうにか眉間の矢を抜いたらしい。次なる矢を防ごうと爪を振り、風を巻き起こした。
向かい風に煽られて、星霊銀の矢は落ちるかと思われた。
ところが矢は急浮上し、獣王の頭上へと飛び上がった。
獣王はなおも矢を落とそうと、風を起こし続ける。ムキになったかのように、両腕を振り回し続けた。
そんな獣王をあざ笑うかのように、星霊銀の矢は飛び回り続ける。
ハエを思わせるような鬱陶しい動き。複雑な軌道を描くそれは、まるで意思を持つかのようだった。
またも眉間に迫った矢を、獣王は強風で叩き落とす。
「わっ……と」
風圧に巻き込まれそうになったソロンは、慌てて退避した。
その次の瞬間、獣王は口を大きく開いて絶叫した。赤黒い胃液のようなものが、口からこぼれ出る。
見れば、獣王の首から後光のように、まばゆい光が放たれていた。後頭部に回り込んだ矢が、獣王の後ろ首へと突き刺さったのだ。
「思った通り、効果はあるようだな」
少女の不敵に笑う声が聞こえた。
獣王は一切の攻撃を止めて、腕を背中に回そうとした。ぎこちない動きで、必死に矢を引き抜こうとしているのだ。
「もう少しだ!」
そして、いよいよ、ソロンの刀に魔力が満ちようとしていた。
立ち昇る蒼炎が巨大な刀身へと変化していく。どんな敵すらも葬れそうな力を発していた。
獣王の瞳が、今までに見たこともない光を発する。満ちあふれる魔力を前にして、獣王はついに恐れを感じたのだ。
後ろ首に刺さる矢を諦めたのか、獣王はこちらへと視線を移した。
そうして、獣王は右腕を振るい、ソロンへと爪を叩きつけようとする。
「いくぞっ!」
ソロンは思い切って飛び込んだ。両手に握った刀を爪へとぶつける。
刀と爪、炎と風が衝突し、空間を震わせる。
一見するとソロンの自殺行為。だが、今回はそれが功を奏した。
巻き起こるはずだった風を、ソロンの蒼炎の刀身が打ち消したのだ。
獣王は爪に魔力を通すことで、風を巻き起こしている。ソロンは爪そのものを抑えることで、風が広がる前に相殺したのだ。
蒼炎が獣王の爪を飲み込んでいく。
獣王は爪を焼かれながらも、その腕を引かなかった。ここで引いたほうが負けだと、敵も悟ったのだ。異形と化しても、百戦錬磨の勘は衰えていないらしい。
刀と爪の鍔迫り合いが続く。
「があああ!」
至近から獣王の咆哮が放たれる。
猛烈な圧力を感じるが、負けられない。腕力では絶対に敵わない相手のはずだが、燃え盛る刀が力を与えてくれた。
それでも、獣王にはまだ余力があった。
ソロンの刀は両手持ち。対する獣王の爪は右手だけなのだ。
獣王はおぞましい笑いを上げて、左手の爪をソロンへと伸ばす。
けれど、爪がソロンに届くことはなかった。
「おらあっ!」
どこからともなく現れたグラットが、獣王の左腕を槍で突き刺したのだ。
彼はここまで必死で走ってきたらしく、その息は荒々しかった。
左腕に突き刺さった超重の槍が輝く。グラットが重力魔法を発動したのだ。
獣王の左腕は瞬間的に重量を増して、地面へと落ちた。
獣王の腕は丸太よりも太く、槍で貫通させることはできない。それでも左腕は槍に縫いつけられたかのように、地面から離れなかった。
獣王の体勢が崩れ、右手の爪だけが前方に突出する。
「やっちまえ、ソロン!」
グラットの鼓舞を受けて、ソロンは刀へとさらなる魔力を溜めていく。
「だあっ!」
気合と共に、蒼炎が一層の火力を増した。刀から伸び盛る蒼炎は獣王の爪を越え、顔面へと達する勢いだった。
「うあっち!? 俺を焼くなよ!?」
グラットが槍を抜きながら、飛びすさる。
「ぐぬぅっ!?」
炎の勢いに押され、獣王の巨体が後ろへと弾かれた。
それを見逃さず、ソロンは突進する。
後先は考えない。
蒼炎をまとった刀を握りしめ、全力で獣王の胴を薙ぎ払った。
炸裂する蒼炎が獣王を吹き飛ばす。踊り狂う蒼炎は止まらずに獣王を追いかけ、さらにはその腹部を喰い破ろうとする。
「ぐぐぅ、ゲアアア!」
獣王は腹部に爪を突き立て、炎を消そうともがいた。
だが蒼炎の勢いはやむことがなく、獣王の巨体をも飲み込んでいく。
そして、肉体が溶け始めた。
獣王の体が赤黒い気体へと昇華していく。やはり呪海を思わせるような禍々しい瘴気であった。
「げぐ!? うげえええぇぇ!?」
自らの体に起こった変化が信じられないらしく、獣王は奇妙な声を上げた。そして、それが彼の断末魔となった。
やがて、獣王の全てが赤黒い瘴気へと転じ、その瘴気も蒼炎に包まれて霧散していった。
「終わったあ~……」
ソロンは仰向けになって倒れ込んだ。