雲海を抜けて
暗闇の中で、五人は螺旋階段を登り始めた。
ガラス窓からわずかに星の光が差し込んでくるが、それだけを頼りに登るのは難しい。
グラットがランプに火を灯したので、辺りが照らし出された。続いて、アルヴァも蛍光石のブローチを胸元につけた。この二つの光を頼りに階段を登ることになる。
もっとも、上から監視する敵がいれば、光は目印となってしまう。だが、それ以上に暗闇の中で足を踏み外すほうが恐ろしかったのだ。
「分かっちゃいたけど、バカみたいに高いなあ……」
時計回りにどこまでも続く階段を見上げて、グラットがぼやいた。
ランプや蛍光石のささやかな光では、さほど遠くまでは見通せない。光の届かぬ暗闇に、階段が飲み込まれていく有様が不気味だった。
「私が先を行こう。我らは暗闇でも目が利く。危険があれば、いち早く察知できるだろう」
隊長としての責任感からか、メリューが先頭を切った。恐れることもなく、階段へと一歩を踏み出す。
グラットも堂々たる足取りでそれに並び、ランプで先を照らした。
階段の幅はそれなりに広く、三人ぐらいまでは並べそうだ。五十人で後から登る亜人達にとっては、少し狭いかもしれないが……。
二人の後ろに、軽やかな足取りでミスティンが。慎重な足取りでアルヴァが続く。
肝を冷やしながら、ソロンは最後尾に付いた。
最後尾なのは、もちろん怖気づいたからではない。背後の危険に備えるためであり、アルヴァ達が落下しないよう気をつけるためだ。
ソロンは前を歩くアルヴァに向かって。
「アルヴァは高いところ大丈夫だっけ?」
「大丈夫かと問われれば大丈夫ですが、人並みには苦手です」
回りくどい答えを返してきたが、要は普通に苦手ということらしい。
歩みを止めず、アルヴァは一瞬だけ振り向いて。
「――ソロンは平気なのですか?」
「あんまり平気じゃないけど、どうにか我慢するよ。もしそっちが転びそうになったら、こっちで支えるから」
「大丈夫ですよ。一応の手すりはありますから」
そう言って、アルヴァは木製の手すりをつかんだ。
「けど全体的にボロいからなあ。どっかが破損してないといいけど……。ねえ、メリュー。ここって、どれぐらい放置されてたわけ?」
「緊急時の避難経路として、年に一回は点検されているはずだぞ。ボロいのは否定せんが、そこまで心配するほどでもなかろう」
「それじゃ、思ったよりはマシなのかな……」
不安は拭い切れないが、一応はメリューを信じることにした。
*
変わらぬ階段の連鎖を、無言で登り続けた。響くのは五人の足音と、窓の外で渦巻く風の音だけだった。
まだ登り始めて十分程度だが、既に下を覗き込んでも底は見えない。高所恐怖症には耐えられない光景である。
上を見ても天井は見えず、下を見ても底は見えない。かといって、窓から覗く星空に変化があるはずもない。つまり景色に一切の変化はなかった。
「景色、変わんねえなあ……」
ランプが照らし出す先を見上げて、グラットが嘆息した。
「つまんないねえ」
それにミスティンも同調する。軽快だったはずの足取りも既に重々しい。
「もう弱音か? 登山よりこちらのほうが楽であろう」
ぼやく二人を、メリューが叱咤する。
実際、こちらは人が歩くために造られた人工の階段である。自然の厳しさをむき出しにした山肌より、易しいのは確かだった。
「そうだけどよぉ。変わり映えしないってのは、本当につまらんぜ。もうちょっとこう、造ったヤツも気を利かせてよかったんじゃねえか」
「よいではありませんか。構造が単純なぶん、見通しがよくて助かります。これなら道中に奇襲を受ける心配もないでしょう」
「うむ、道中は大丈夫だろう。警戒するなら、やはり出口での待ち伏せだろうな」
アルヴァとメリューが話を真面目な方向に転じたが。
「でも退屈だよ。遊び心が欲しいよね。壁に絵を描くとか」
その甲斐なく、ミスティンが蒸し返した。
「そなたら、観光気分だな……。私は緊張してそれどころではないのだが」
「なんだ緊張してんのか? しっかりしろよ、年長者だろ。最初はあんなにふてぶてしかったくせに」
メリューを見下ろして、グラットが言った。
「無茶言うな。そなたらと一緒にするでない」
「そうだよ。メリューは年長でもまだ子供なんだから、優しくしてあげないと」
ミスティンがあらぬ方向で、メリューを擁護した。
「そういう意味ではなくてだな……。そなたらに緊張感がないことを、私は問題にしているのだ」
緊張感のない会話はしばらく続いた。そのお陰か、メリューの緊張も多少はほぐれたようだった。
あまりにも同じ光景が続くので、永遠に終わらないのではないかと錯覚しそうになる。
「三十分経過しました」
懐中時計を覗き込んで、アルヴァが告げた。進んでいる実感がない中では、時間だけが唯一の証拠である。
「けっこう登ったよな。いい加減、天井が見えてこねえかねえ……」
「確認してみましょうか?」
グラットの他愛ない愚痴に、アルヴァが反応を示した。
「おぉ、どうやるんだ?」
「見ていなさい」
アルヴァは蛍光石のブローチを胸元から外し、天井へ向けて掲げた。
途端、その手の平からまばゆい光が放たれた。アルヴァが蛍光石へと魔力を込めて、光を何倍にも増幅したのだ。
階段を吸い込んでいた闇が切り裂かれ、天井が映し出された。それも、あと数分でたどり着ける程度の距離だ。
「わあっ、やった! 見えたよ!」
「おお、これで終わりか。思ったより楽勝だったな」
ミスティンとグラットが歓声を上げる。二人の足が自然と早まった。
「はて、こんなに短かっただろうか?」
メリューだけは怪訝そうな顔をしていた。
*
「ぬか喜びかよ。まだあるじゃねえか……」
「え~」
グラットとミスティンが落胆をあらわにした。
「あはは……。残念だったね」
階段を登り切った先には、石床の広場があった。実際のところ、螺旋階段はなおも延々と上に続いていた。
「すまん。途中に踊り場があったことを忘れていた」
バツが悪そうに、メリューが言った。
つまり天井に見えたのは、長い階段の踊り場に過ぎなかったのだ。
「仕方ありませんね。ここでちょっとだけ休憩しましょうか」
「そだね」
そう言うなり、ミスティンがごろんと広場に転がった。転落の心配もない一面の広場であるため、少し気が抜けたのかもしれない。
「まあ、落胆することはない。ここがちょうど中間地点になっていたはずだ。私は最初から一時間だと言っただろう」
「半分かあ。これでどのくらいの高さまで登ったのかな? っていうか、上界ってどのくらいの高さなんだろ?」
寝転んだままのミスティンが、ふとそんな疑問を漏らした。
「上界の高さなら、確か僕の背丈の数千倍だったかな。細かくは忘れたけど……」
ソロンは記憶を元に答えた。
「なるほど。ちなみに、どうやって高さを計算したのでしょう?」
いかにも興味津々といった体で、アルヴァが尋ねてきた。
「えっと、ナイゼルが言ってたんだけど、影の長さを測ったんだったかな。黒雲の真下から見て、どこまで上界の影が伸びているかを確かめて……。その影を長さの明確な棒の影と比較して――」
うろ覚えながら、必死でソロンは答えたが、
「ということは、三平方の定理ですか。確かに妥当な計測方法ですね。上界から測るのは困難なので、なかなか貴重な情報ですよ。今度、ナイゼルさんに尋ねてみましょう」
どうやら、今ので通じたらしい。アルヴァは一人満足気に合点していた。
ナイゼルにしても、測定にはガノンドが持ち込んだ帝国由来の数学を使ったらしい。となると、もちろん彼女にも自明な方法だったのだろう。
「もっとも、この塔自体はそこまで高くないがな。元々、高い山の上に建てられておるから、塔の高さは限られている。精々が地上から雲海に至るまでの四分の一といったところだろう」
「四分の一ですか……。それでも、建造物の高さとしては、桁外れですよ。よくぞまあ、こんなものを建てたものです。土台の確保は大変だったでしょうね」
「上界ができて間もない頃に建てられたそうだが、詳しくは我々も知らん。界門があればこんなものは不要だから、その技術が確立される前の産物であろうな」
そうして、踊り場を過ぎてさらに三十分は登り続けただろうか。
「風?」
ミスティンが静かにつぶやいた。
注意をこらせば、確かに肌へと触れる風がある。どうやら真上から吹いてくるらしい。
「そう言われてみれば……。なんか、あったかい風だね」
「うむ、そろそろ上界だな」
メリューの口調は確信に満ちていた。
「なるほど、気圧に差があるため風が起こるのですね」
アルヴァがまたも合点していたが、ソロンには何のことだか分からない。
「上界の空気が漏れてきているのだ。あちらのほうが気温が高いからそうなる」
そうしたら、メリューが説明をしてくれた。
「アルヴァが言ってたアレのことかな。雲海が空気と熱を溜めてるってヤツ」
「そう、その通りです。この塔は雲海の上までつながっているため、空気の入れ替わりが起こるわけです。そろそろ、頂上が見えるのではないでしょうか」
そう言ったアルヴァは、またも蛍光石を手に持ち、上へ向かって光を飛ばした。
そして、ついに光が天井をとらえた。
「おお、ようやくだな」
グラットが歓声を上げた。
伸び続けていた階段が、岩の天井へと入り込んでいる。あの岩天井こそが上界の底に当たる部分なのだ。
「これって、雲海!?」
ミスティンが外を見て、声を上げた。
ソロンもガラス窓から外を見れば、白い霧のようなものに塔が包まれている。こちらの照明を反射して、キラキラと光を散乱させていた。
「うむ、我らはこれより雲海を抜けて、上界へと至るのだ。だが、見とれている暇はないぞ」
メリューはそう言って、階段を登る足を速めた。
どこまでも続くかと思われた螺旋階段も、ようやく終わりを迎えたのだ。
見下ろせば、気が遠くなりそうな螺旋階段の連なりが見える。あれを登ってきたのだと思えば、ソロンの感慨もひとしおだった。