アムイ山を登る
アムイ山に近づけば、ゆく道に積もっていた雪が途切れた。
アムイ島の黒雲下に入ったためだ。
上界の島は雨も雪も光も遮ってしまうため、その下は年間を通して乾燥した気候となるのだ。
「早くしねえとな。昼になったら、また暗くなっちまうんだろ?」
上を見上げて、グラットが言った。
黒雲下においては、太陽が真上に昇ると暗闇になってしまう。彼もかつての冒険で、それを経験していた。
「冬だし、北国だから大丈夫だとは思うけどね」
「うん? どういうことだ?」
ソロンの返答に、グラットは疑問の声を上げる。
「いや、この季節だと太陽は上がり切らないからさ。昼でも真上には来ないんだよ。それに、島自体も小さいから黒雲もそんなに大きくないし」
「ああ、なるほどな。妙な感覚だが、黒雲の下だと冬のほうがありがたいってことか」
「まあ、そのような考え方もあるな。もっとも、冬の定めで、どこであろうと日照時間は短い。悠長にしている余裕はないぞ」
メリューはそう言いながら、軽快に足を運んでいた。
アムイ山に向かって、雪の途切れた荒野を一同は進んでいく。雪原とはうって変わって、歩きやすい地形だった。
黒雲下のほうが歩きやすいというのは、ソロンの常識とはあべこべである。ともあれ、ありがたいのは確かだ。
予想した通り、昼になっても日の光は低く、昼闇に落ちることはなかった。太陽は今も南から、こちらを照らしてくれている。
だが、その明るさも長くは続かない。太陽は西へと、驚くべき速さで沈んでいくのだ。
「昼が過ぎたと思いきや、すぐに夕方……。分かってはいましたが、カンタニアよりも遥かに日沈が早いですね。暗くなるまでに、小屋は見つかるでしょうか?」
「心配ない。もう、すぐそこまで来ている」
懸念を抱くアルヴァに対して、メリューが請け負った。
事実、石垣に囲まれた小屋がすぐに目に入った。一同は既にアムイ山のふもとまで、たどり着いていたのだ。初日の遅れを挽回して、旅は予定通りに進んでいた。
*
錆びついて固くなっていた小屋の門を、グラットが力づくでこじ開けた。
内側からは簡単な閂がかけられるだけである。あくまで魔物避けであって、強固なカギは存在しないらしい。
ソロン達に続いて、カズー隊の五十人がぞろぞろと小屋へと入ってくる。
入口には広間があり、そこから四つの部屋につながっているようだった。
五十人を超える一行にとっては窮屈だが、広間に雑魚寝すればどうにか全員が宿泊できそうだ。
五人は一番小さな部屋を占拠することにした。恐らくは、一人か二人で使うための部屋であるが、カズー達にしわ寄せするわけにもいかない。これでも雪洞より広いだけマシである。
「おうやった。暖炉があるぜ! わざわざこいつを背負ってきた甲斐があったな」
グラットは喜び勇んで、暖炉に駆け寄った。そうして今まで背負っていた薪を床へと下ろし、暖房の準備を始める。
薪を持ってきたのは、メリューの指示によるものだ。ここら一帯は、樹木の生えない乾燥地であるため、あらかじめ用意する必要があったのだ。
「この小屋って、使ってる人いるの?」
ソロンが聞けば、メリューが答える。
「いることはいるが、精々が冬場の狩りに使うぐらいだな」
「冬場の狩り? こんなところで?」
イドリスにおいて、黒雲下での狩りは一般的でない。
昼間は暗いし、乾燥地であるため動物が少ない。黒雲下にしか生息しない動物や魔物を狩って、稼ぐ者も稀にいるとは聞く。もしや、そういった変わり者がいるのだろうか。
「うむ、雪が積もらないからな。冬場の狩りには便利なのだ」
「なるほど。そういう活用方法もあるのか……」
場所が変われば、黒雲下の意味も変わる。同じ下界でも、様々な生活の様式があるようだった。
*
「さて、山登りだ。夜までに山頂の塔までたどり着くぞ」
翌朝、起きて一番にメリューが声を上げた。
アムイ山の頂にある塔……。今日はその塔の下にある小屋で宿泊する予定になっていた。
「おし、登山なら任せろよ。俺は雲海の男だが、山だって余裕だぜ」
起き上がったグラットも、気合十分でそれに応える。
「確かに頼もしそうだな。お前は、雲賊というよりも山賊のほうが似合っているぞ」
「そんな褒め方されても、嬉しかねえよ……」
五十を超える一同は小屋を出発して、山登りに入った。
荒れ果てた山は遮るものも少なく、乾燥地特有の低い草木がポツポツと見られる。
見上げれば、気が遠くなりそうなほどに長い登り道。
かつては上下界の往来に使ったというだけあって、登山道が残っているようだ。とはいえ、それも古い時代の話。期待せずに、自然の道だと考えておいたほうがよさそうだ。
グラットは自分の発言通り、力強い歩みで進み続けた。亜人達に負けじと重い荷物を持ってくれるため、実に心強い。
アルヴァとミスティンは、いつも通りにしっかりした足取りで山を登っていく。こちらも心配はなさそうだ。
しかし、そこで気になるのは……。
「今更だけど、本当にメリューは大丈夫なの?」
「何がだ?」
「その体で、この山は辛くない?」
これまでの旅では、メリューも元気に歩く姿を見せていた。だが、これだけ大きな山となれば話は別だろう。
「私はお前の倍近く生きている。馬鹿にするでない」
「そう言われてもなあ……。どう見たって僕より小さいし」
言うまでもなく、運動能力において重要なのは年齢よりも体格である。か弱い少女に登り切れる山だとはとても思えなかった。
曲がりくねった険しい山道を、一行は登ってゆく。
ソロンの心配をよそに、メリューは先頭を歩き続けた。大きな段差があっても小さな体で跳ねるように、どこか必死なほどに。
後ろを振り向けば、大勢の亜人達によって長く伸びた隊列が確認できた。太守が選んだ精鋭というだけあって、息を切らした様子の者はいまだいない。
「けっこう登ってきたね」
「まだ四分の一といったところだろう。苦しくなるのはこれからだ。高く登るほど空気は薄くなるし、気温は下がる。呼吸をしっかりと意識していけ。体調には気をつけるのだぞ」
「それぐらいは僕でも知ってるよ。まあ、気をつけるさ」
と、ソロンは答えておいた。
師匠シグトラによる訓練の一環として、一度や二度の登山の経験はあった。
例によって、ナイゼルが死にそうになっていたのを記憶している。もっとも、イドリスにはこれほど大きな山はなかったが。
……と、ソロンはふと気になって。
「あれ? でもそれなら、上界のほうが高いよね。そっちはどうして大丈夫なのかな?」
ソロンの感覚では上界でも下界でも、空気の濃さはさして変わらない。少なくとも、それで体調を崩した経験はなかった。気温にしても、日当たりのよい上界のほうが暖かいくらいだ。
「そうだよな~。今更だけど俺も気になってたぞ」
と、グラットも同調する。
アルヴァもやはり興味を持ったようで。
「そうですね。そんなことは両世界を行き来して、初めて思いつくことですから。私も考えてみたのですが……。雲海自体が機能を果たしているのではないでしょうか」
「機能?」
上空を覆う雲を見上げながら、ソロンは復唱した。
「雲海が空気や熱を保っているということです。それによって、上界は生活に適した環境を維持しているのではないかと」
「ほほう、父様と同じ見解だな」メリューは頷き感心した。「付け加えるなら、父様によれば、あの雲の柱こそがその一端なのだそうだ」
「どういう意味でしょう?」
アルヴァはメリューの言葉に、強く興味を引かれたようだった。
「雲の柱こそが下界の大気を持ち上げ、上界へと循環させているのだ。それがなければ、上界はとても人や動物が暮らしていける場所ではなかったであろう」
「なるほど、飾りじゃなかったってわけだね」
と、ソロンが納得する。
「ですが、誰がそんなものを……? 神の御業とでもいうのでしょうか?」
「さてな。我ら銀竜の祖先を含む古代の者達が創ったといわれているが……。現代の技術ではとても創れんのは確かだ。自然にあったものを活用したともいわれるが、いずれにせよ神に等しい偉業であろうな」
「……途方もない話ですわね」
アルヴァは溜息をついた。
「しかし、上帝はさすがだな。色々と考えて、若いのに偉いのう」
「それほどでもありませんよ。まだまだ分からぬことばかりです」
アルヴァは誇るでもなく歩き続けた。
乏しい草木を喰い荒らす狼、岩のような鱗に覆われた大蛇……。時折、獣や魔物にも遭遇したが、襲いかかってくることはまずなかった。やはり、五十人という行列の力は偉大である。
「ふう……。風が騒がしいですね」
アルヴァのフードに隠れた前髪が、気流の中でたなびいている。高度が上がるにつれて、風が強くなっているのだ。彼女は乱れる髪を手で押さえていたが、諦めるかのように離した。
キョロキョロとソロンは辺りを見回した。
周囲には殺風景な景色が広がっているのみ。
既に草木の気配もなくなってきた。視界の邪魔となるのは岩だけで、草木の陰から魔物に襲われる心配もなさそうだ。
「さっきから魔物を見なくなったね」
「それはそうだ」と、メリューが答える。「この高さまで来れば、森林限界も越えてしまう。魔物だって、草一本もない環境に住むのは容易ではない」
高所という以前に、ここはそもそも黒雲下の乾燥地帯でもある。生物の生息環境としては、極めて質が悪かった。
「そっか、そんなところまで僕達は来ちゃったわけだ。そう考えたら、ちょっと怖いけど」
「心配はいらん。この程度の高さで、健康な者が死ぬことはない。ドーマ国内にはここよりも高い山があってな。そこは上界まで直接つながっているそうだぞ」
「そいつは凄えな。やっぱり世界は広いんだな」
この話題には、グラットも冒険者魂をくすぐられたようだった。
「うむうむ、そうであろう。もっとも、上界から山を見ても単なる島としか見えんがな。平時であれば、観光にお前達を連れてやってもよいのだがなあ」
自国の自慢ができたせいか、メリューはどことなく機嫌がよさげだった。