雲海を翔ける雷鳥
ウツボが体をくねらせながら、グングンと加速してくる。こちらも必死で小舟を漕ぐが、距離を詰められているのは疑うべくもない。
「ぎゃあっ、死ぬう!?」
あまりの恐怖にソロンの声が裏返った。アルヴァには見せられない情けない姿である。
「お、落ち着け! ここまでは狙い通りであろう!」
あまり落ち着いていない声で、メリューが叱咤した。
そもそも狙いは陽動なので、追ってこなければ失敗なのだ。その点はメリューが認識している通りである。だからといって、あの勢いでは……。
「けどっ! 追いつかれちゃう!」
「任せろ! まだ手はある!」
メリューは振り返って、ウツボへと視線をやった。
「何する気!?」
と、ソロンも後ろへ視線をやる。
モワモワと霧のように、雲海から雲が巻き上がった。雲はウツボの頭を包み込み、その視界をふさいだ。
「これで目くらましにはなるだろう」
「すごいね、そんなこともできるんだ!」
念動魔法は雲海のような、流体ですら操作できる。その事実にソロンは驚くしかなかった。
「それより、漕ぐ手に集中しろ!」
「分かった!」
もっともな指摘にソロンも納得し、逃げることに意識を集中する。
ウツボは頭を振って、雲を振り払おうとしていた。それにつられてか、体までをジタバタさせている。その動きに呼応して、雲の飛沫が巻き上がった。
「今が好機ぞ!」
「うん、行こう! メリュー!」
ここからは一直線に旗艦へと向かうだけだ。今なら十分に距離も取れるはず。後は全てをアルヴァがやってくれるだろう。
旗艦はゆるやかな速さで、ウツボから離れていこうとしている。作戦のため速度を少し落としてくれているようだ。
それをソロン達の小舟が追いかける。少しずつ距離が縮まっていく。
作戦通りなら、このまま旗艦のすぐ脇を通り過ぎることになる。
小舟を追いかけるウツボは、旗艦へとほぼまっすぐに向かってくるだろう。そこにアルヴァの雷鳥が炸裂して決着――というわけだ。
ところが――
「ぬ……。もう来たぞ!」
メリューは顔の向きも変えずに叫んだ。人間よりも聴覚などの感覚が優れているのかもしれない。
ソロンも振り向いて確認する。
ウツボの動きが予想以上に速い。想定よりも小舟に接近されている。これでは直線上に誘導したところで、こちらまで魔法に巻き込まれてしまう。
もう一度引き返して、距離を取るべきか……。しかし、それでウツボを巻けるだろうか。巻けたところで、次が今よりうまくいく保証はない。
この機会を逃してはならない。
「まだいける! 少しだけ右に!」
まずは小舟の舳先を少しだけ右に転じる。それを見逃さず、ウツボも追跡してくる。
「どうする気だ? やり直すなら、もっと大きく右に曲がったほうが――」
「いや、左に戻して。そのままオデッセイ号の後尾を、斜めに横切るよ」
「なるほど……了解した!」
メリューも即座にこちらの意図を理解してくれた。
二人の力を合わせて、舳先を左へと戻す。角度を斜めにしながらも、アルヴァがいる旗艦の後尾へと近づいていく。
こうやって位置関係を斜めにすれば、雷鳥に巻き込まれる可能性を抑えられる。ただし、アルヴァにはうまく狙いをつけてもらう必要があった。
「ぐっ、だが追いつかれるぞ! もう一度、念動魔法をやるか!?」
そうこうしているうちにも、ウツボはグングンとこちらとの距離を詰めてくる。
それも覚悟の上ではあるが、あまりに近づかれては計画に支障が出てしまう。
「いや、待って!」
念動魔法では相手を雲に包んでしまう。それでは、アルヴァの魔法から標的を隠してしまいかねない。
「むっ、どうするのだ?」
「来るよ!」
ソロンがそう言った瞬間――
瞬速の矢がウツボの頭部に突き刺さった。風をまとった矢は鋭い衝撃で、ウツボをひるませる。
けれど、ウツボの巨体を止めるには威力が足りない。稼げたのはわずかな間でしかなかった。
もっとも、ソロンが欲しかったのはそのわずかだ。
アルヴァの隣に立つミスティンが、得意気な顔で親指を立てる。
そして、ついに小舟は旗艦の真後ろを横切ろうとしていた。ウツボは今も小舟の後ろを追跡している。
「今だ! 行けっー! アルヴァ!」
ソロンはアルヴァにも届くように、大声で叫んだ。
途端、アルヴァの杖先にあった光が一気に輝きを増した。
爆発するような光と共に、雷鳥の魔法が放たれた。
いかづちが宙を飛翔し、雲海へ向かって飛びかかる。
そこはソロン達の小舟が通り過ぎた後……。そして――今そこにウツボが通りかかろうとしていた。
光に気づいたウツボは、目がくらんだのか頭を狂ったように動かした。それに伴い、胴体が激しく蛇行する。
「まずいっ……!?」
これでは頭部への直撃は叶わないかもしれない。
ソロンがそう思った瞬間には、雷鳥は激突していた。
まばゆい光と轟音が後に残る。
衝撃の余波で、ソロン達の小舟も煽りを受ける。ソロンはメリューの小さな体を抱きしめて、体勢を低くした。
小舟が宙に浮き、奇妙な浮遊感が二人を襲う。
「ぬおっ!?」
メリューの悲鳴が上がる。
余波は止まらず、小舟はついに転覆した。
ソロンはメリューを抱えたまま、雲海へと落ちていく。
底知れない落下への恐怖。
支えてくれるのは、腰の竜玉帯に仕込まれた竜玉のみ。人生二度目の経験ではあるが、簡単に慣れるものではない。
下から強風を受けるような独特の抵抗と共に、ソロンは雲海へと浮き上がった。
「し、死ぬかと思ったぞ……」
竜玉帯を付けていないメリューも、一緒になって浮かんでくる。竜玉を体内に持つという話に、偽りなかったようだ。
ソロンは逸れないようにメリューの手を握りしめて。
「どうにか助かったみたいだね……。それより――」
問題なのはウツボだ。
雷鳥はうまく標的に当たったのだろうか。これほどの衝撃が起きたからには、命中したのだと考えたいが……。
もし、敵が健在だったなら、雲海に取り残された二人は絶体絶命である。たちまちウツボの胃袋に収まることだろう。
ソロンは見極めようと、必死で目を凝らすが、敵の姿は巨大な霧に包まれていた。蒸発した雲海が膨大な霧を作っていたのだ。
耳をつんざく音は収まり、霧が次第に晴れ始めた。
*
「おお……!」「やった……!」
雲海に浮かびながら、メリューとソロンはそれぞれの歓声を上げた。
ウツボの頭と胴体は切り離され、二つのかたまりとなって雲海に浮かんでいたのだ。
「それにしても、今のは父様の……。いや、純然たる人間がこれほどの魔法を使うとはな……」
さしものメリューも、アルヴァの魔法には恐れをなしていた。
ウツボが頭を振り動かしたせいで、雷鳥の魔法は頭部に命中しなかった。
それでも雷鳥は、ウツボの首を斜めに切り裂いたのだ。いや、切り裂くというよりは、エグるといったほうが正しいだろうか。
残った巨大な頭は、これまた巨大な眼で虚空をにらんでいる。いまだ生きているかのように、不気味な形相である。
「きゃっ……!」
思わずソロンは悲鳴を上げてしまった。
「どうした」
手を握ったまま、間近からメリューがこちらを覗く。
「いや……今一瞬、頭がピクッと動いたような……」
「ふむ……」
と、メリューはウツボの頭をジッと見て。
「――大丈夫だ、死んでおる。まだ死体には熱と電気が残っているはずだからな。それで死体が動いただけであろう」
「そ、そうだよね……はあ」
力が抜けて溜息が出た。ソロンはようやく人心地つくことができそうだった。
「くくっ、そなた、怖がりだな。あれだけの大立ち回りを演じておいて……」
「悪かったね。自覚はしてるよ」
「いやいや、馬鹿にはせんさ。そなたは愛いやつよのう」
と、メリューは片手でソロンの頭を撫でる。子供のような少女に子供扱いされるのは、奇妙な気分だった。
「は、はあ……。船に戻ろうか」
人心地ついたら、アルヴァのことが心配になってきた。あの雷鳥の魔法は、消耗が非常に大きいのだ。か細い体にまた無理をさせてしまった。
ソロンは転覆した小舟へと目をやった。あれを起こして旗艦に戻るとしよう。
……が、小舟は思いのほか遠くに浮かんでいた。雷鳥の衝撃の凄まじさを思えば、仕方ないことではあったが……。
試しに手足をバタつかせて見るが、あいにく雲海には水のような抵抗がない。ゆえにほとんど推進力が得られなかった。
「なんだ、そなた泳げんのか?」
メリューが不思議そうにソロンを見つめていた。
「……普通の人間は泳げないと思うよ。水の中ならともかくさ」
「ふはは、人間は仕方ないな。どれ、私が引っ張ってやろう」
銀竜族の少女は、得意満面の笑みでソロンに手を伸ばした。
人間には真似できない動きで、メリューは雲海を泳いでいく。ソロンも彼女に手を引かれながら、小舟を目指した。
「ソローン!」
名前を呼ぶ娘の声が聞こえて、ソロンは振り返った。
旗艦の左舷から、顔を出していたのはミスティンだ。左手を元気いっぱいに振っている。
そして、その右手にはアルヴァが支えられていた。彼女は手すりにもたれかかるようにして、こちらをジッと見ていた。
遠目に見ても、その憔悴が見て取れる。それでも、ソロンを心配して顔を出してくれたのだろう。
「うまくいったよ!」
雲海に浮かんだままソロンは手を振って、二人に健在を伝えた。
アルヴァは手を振り返す余裕もないようだったが、それでも柔らかい笑みで応えてくれた。