雲海の追走劇
「善処するよ。ああ……でも、僕一人じゃ動かせないか」
アルヴァの了承は得た。けれど、一つ問題があった。
小舟は二人で漕ぐ構造になっている。ソロン一人で漕げないことはないが、ウツボを引きつけるには絶対的な速力が不足するはずだ。
となれば、誰と組んでいくべきか。
「グラットは……船長だしなあ」
さすがに船を離れるわけにはいかないだろう。彼は今も必死に、船員達を叱咤している。彼らの奮闘のお陰で、ウツボの接近を押し留めているようだった。
ならば、ミスティンだろうか。
あまり、危険にさらしたいとは思えないが……。それに雲海において、彼女は貴重な戦力でもある。船上から弓を射てもらったほうがよいのではなかろうか。
ちらりと目が合ったミスティンは微笑んで、
「私も行くよ。ソロンだけじゃ心配だから」
迷わずに請け負おうとした。
ところが――
「いや、私がやろう」
メリューが立候補した。
「でも、君は……」
メリューはドーマの大君の孫である。
万が一、命を落とした場合は、旅の目的に支障をきたすだろう。何より子供のような見た目の彼女を、危険へ晒すのは気が引けた。
「気にするな。そもそも無理を言ったのは、私のほうだからな。お前達だけに任せてはおれん。私だって獣王との戦いに、命を賭しているのだ」
既にウツボの攻撃を受けて、彼女は亜人の部下を失っている。泰然としてはいても、責任を感じていたのだろう。
「じゃあ、メリューに頼む。ミスティンは援護をお願い!」
「了解した!」「任せて!」
「竜玉帯を付けてください。それで助かるかどうか分かりませんが、無いよりは良いでしょう」
「分かった」
ソロンはアルヴァの忠告に従って、備品の竜玉帯を身につけた。竜玉を内部に秘めた帯であり、万が一雲海に落ちた時でも、これがあれば浮かぶことができる。
もっともウツボの攻撃が直撃すれば、雲海に落ちる程度で済むとはとても思えない。彼女の言う通り、気休めと考えたほうがよいだろう。
「それでよいのか? なら行くぞ」
メリューがソロンを急かしてくる。だが――
「いや、君も竜玉帯つけなよ。危ないって」
なぜだか、メリューは竜玉帯を付ける気配もなかったのだ。
「もしかして合う帯がなかったのか? だったら、お子様用の物もあるぞ」
忙しく動き回っていたグラットも口を出してくる。
「私を何だと思っている。銀竜の血を引く私にそんなものは不要だ」
「……ひょっとして、あなたも雲海に浮かぶのですか?」
アルヴァが信じられないとばかりに、メリューを見た。
体内に竜玉を持つ竜族は雲海に浮かぶ。だが、その法則がメリューにも適用できるとは驚きだった。
「無論だ。我らは竜だと最初から言っているであろう」
心外とばかりにメリューが答えた。
「マジかよ……」
「銀竜はウソをつかん。分かったら、お前はとっとと船長の仕事に戻れ」
「分かった、分かった! お前も気をつけろよ!」
グラットは手荒く、メリューの頭を叩いた。
メリューはそれに怒る余裕もなく、すぐにソロンへと歩み寄る。
「ソロン、行くぞ」
「了解、メリュー」
返事をする前にソロンは足を踏み出していた。話し合っている間にも戦いは続いているのだ。これ以上、時間を無駄にはできない。
「私は精神集中に入ります。雷鳥に巻き込まれないよう、敵との間隔を保ってください」
アルヴァは杖を掲げ、ソロンに声をかけた。
ソロンは頷き、メリューと二人で小舟へと向かった。
*
帝国兵と亜人兵が協力して、右舷側へと小舟を下ろした。旗艦の影に隠れるため、ウツボからは見えないはずである。
「大丈夫? 降りられる?」
「馬鹿にするでない」
メリューはひらりと小舟に飛び乗った。ソロンも続いて小舟に降り立つ。
広大な雲海の中へ浮かべるには、あまりにも矮小な舟。しかし、心細さに震えている暇もない。
ソロンは櫂を手に取って、雲海へと突き刺した。櫂の先端に格納された竜玉が雲海との反発を引き起こす。
「同じようにやってみて」
悠長にしている暇はない。メリューへの説明も最低限の時間で済まさねばならなかった。
「説明はいらんぞ。ドーマの櫂船も同じような仕組みだ」
そう言うなり、メリューも雲海へと櫂を突き刺した。
彼女が持った櫂の先端から赤い光が放たれる。
竜玉に魔力が込められたことによって、雲海との反発が強化されたのだ。推進力を得た舟がたちまち前進を始めた。
「ちょ、ちょっと待って!」
ソロンも慌てて櫂へと魔力を込める。二人の魔力を合わせなければ、小舟を安定して進めることもできないのだ。
メリューとは、アルヴァやミスティンほど付き合いが長いわけではない。それでも今は息を合わせるしかなかった。
船団の隙間を縫いながら、二人は遮るもののない雲海へと漕ぎ出した。
ウツボの姿は既に、随分と遠くになっている。
ドーマの船を襲っていたウツボは、その牙を止めていた。
既に船の大部分が沈んでおり、これ以上の攻撃をする必要がなかったのだ。他の七隻がウツボを引き離せたのは、その犠牲のお陰だろう。
「ラーソン……」
メリューは消え入りそうな声でつぶやいた。やはり、部下のことが心配なのだ。
「メリュー、大丈夫? 悪いけどやるからには――」
「いや、気遣いは無用だ」
メリューは気丈にも、ソロンの心配をピシャリと跳ね除けた。
ウツボは鎌首をもたげ、船団のある方角を見ていた。次なる獲物を見定めようとしているのだ。
ウツボはゆったりとした動作で、雲海を泳ぎ出した。その動作からは予想もできない程の勢いで、ぐんぐんと加速していく。
向かう方角はアルヴァが乗る旗艦だ。偶然か、それともウツボは最も手強い相手を、本能的に察したのかもしれない。
だが、そうさせないために、ソロン達がいるのだ。
「行くよ、メリュー! 少し右にそらして進むよ」
「おうとも!」
二人は小舟を漕ぎながら、ウツボに向かって進んだ。正面からは進まない。弧を描くようにして、斜め横から近づいていく。
馬のような速さで、小舟は風を切ってゆく。メリューの銀髪がせわしく揺れ動いていた。
敵も接近してくるため、必死で漕がずとも距離は縮まっていく。だが、これ以上は旗艦に近づかせたくはなかった。
ウツボはこちらの小舟に、まだ気づいていない。
「頭を狙う! メリュー、舟は任せたよ!」
「うむ!」
ソロンは櫂から手を放し、背中の刀を抜き放った。
漕手が一人になったため、小舟の速度が落ちていく。
ソロンは刀へと入念に魔力を込めていく。紅蓮の刀が魔力を受けて、赤光を放つ。
あの巨体に生半可な攻撃をしても、蚊が刺すようなものだろう。ならば、それ相応の一撃をしかけねばならない。
そうしている間にも、ウツボの巨体が接近してくる。既に向こうも相当な速度まで、加速しているようだ。
大きさだけなら、以前に見た神獣すらも上回る。果たしてこれは、人が抗し得る相手なのだろうか。心中に疑念が走るが、今更引き返すわけにはいかない。
雲海を震わす息遣いが、また聞こえてくる。
近づけば近づくほどに、怖気がソロンを襲う。
「む……。このまま近づいてもよいのか?」
メリューはそこで躊躇を見せた。怖がっているというよりも、戦術方針を問うているのだろう。
「もう少しだけ頼む! 僕が魔法を撃ったら、全力で逃げるよ!」
「……承知した!」
恐怖を振り払うようにして、メリューは櫂を強く握った。
小舟は一気に、ウツボへと近づいていく。正面を避けたまま、斜めの角度で頭部へと接近する。
「いっけえっ!!」
ソロンは刀を振り下ろし、全力の炎を放出した。
狙いは黄色く光る目玉である。いかに巨大な生物といえども、急所は変わらないはずだ。
その瞬間――ウツボがこちらへと頭を振り向けた。放たれた炎の熱を察したのかもしれない。
ウツボはこちらに向かってくる気配を見せたが、ソロンはひるまず炎を送り続ける。
炎はウツボの眉間へと直撃し、その動きを止めた。爆散した炎は頭部を覆い隠すように広がっていく。
眼には当たらなかったが、それでも頭部には命中した。あの巨体からすれば、こちらは虫ケラに過ぎないかもしれない。けれど、虫は虫でも蜂の一刺しとなれば無視はできまい。
ウツボの勢いが削がれた。爆炎に紛れて姿は見えないが、減速したのは間違いない。
「逃げるよっ!」
「分かっておる! よくやったぞ、ソロン!」
油断する気はない。あれで倒せるなどとは、ソロンは欠片も思っていないのだ。
刀を置いて、再び櫂を手に取る。
炎を放った反動を利用して、小舟の向きをくるりと転回させた。目指す方角は船団が見える側だ。
ウツボが立て直す前に、小舟を加速させる。勢いに乗った小舟が、船団へと近づいていく。
旗艦以外の船は既に、先へと進んでいた。雷鳥で狙いやすくするために、グラットが隊列を変更してくれたのだ。
そして、旗艦の後尾には黒衣をまとったアルヴァの姿があった。
杖を弓のように構え、ウツボへと向けている。杖先に輝く雷光のせいで、遠くからでもはっきりと視認できる。
その隣、こちらに向けて旗を振っているのはミスティンだろう。準備が整ったという合図である。
ならば、こちらも仕事を果たさねばならない。ウツボを最適な位置へと誘導し、アルヴァの標的にするのだ。
とはいえ簡単なことではない。
このまままっすぐに旗艦へ向かえば、アルヴァの正面にウツボを誘導できる。
単にウツボを倒したいだけならば、最適な位置だとはいえる。……が、その場合はこちらの小舟も巻き込まれてしまう。
そんな状況では、アルヴァも決して魔法を放ちはしないだろう。
となれば、なるべく相手を引き離して巻き込まれないようにせねばならない。
「ぐっ、追ってくるぞ!?」
メリューが後ろを振り返って、声を上げた。
「うそっ、もう!?」
ソロンも驚愕して振り返った。そこには煙と炎を突き破り、頭を覗かせるウツボの姿があった。
感情の読み取れない魚類特有の目玉……。それでもそこにある感情が怒りであることは、容易に察せられた。