大雲海の戦い
「やめっ!」
アルヴァが天へと杖を向けて、雷光を放った。攻撃を制止する合図である。
合図は波のように全船団へと伝わり、静寂が訪れる。
「進路はそのまま! 反撃に備えて距離を取ってください!」
アルヴァは油断せずに、指示を続けた。
巻き起こる煙を背後にして、船団は進む。
ウツボを覆っていた煙が次第に晴れていく。皆、固唾を飲んでその様子を見守っていた。
「まだ生きてやがるか! しぶてえ野郎だぜ」
グラットが悔しそうに吐き捨てた。
のろのろと雲海の上を動き回る長大な生物が、煙の向こうに見えてきたのだ。
ウツボの首は黒く焦げてはいたが、それも一部に留まる。致命傷になっていないのは明白だった。
「それよりも、あれって!?」
ソロンの目を引いたのはそれだけではない。
ウツボの周囲には、赤黒い霧がまとわりついていたのだ。
いや、霧というより瘴気と断定してよいかもしれない。恐らくはウツボの傷口からあふれ出したのだ。
「かの邪教の魔物ですね。まさか、こんなところで遭遇するとは、夢にも思いませんでしたが……」
アルヴァが目を見開いて、渦巻く瘴気を凝視する。
ミスティンとソロンが抱いていた嫌悪感――その正体はザウラスト教団の魔物に共通するものだった。このウツボも元をたどれば、呪海の力にたどり着くのだろう。
もっとも、その疑問を追求している余裕はない。今は目の前の戦いに集中するしかなかった。
ただちにウツボが反撃してくる兆候はない。あれだけの衝撃を受けては、さすがの怪物も動きが止まるらしい。
「さあ、どう出るかの? また追ってくるだろうか?」
メリューは努めて余裕の声を作っていた。もっとも、強張った表情を隠しきれていなかったが。
「来ないなら、このまま逃げるぜ。それでいいよな、お姫様も」
「ええ、そのつもりでお願いします」
グラットとアルヴァは意見の一致を得たようだった。
船団の目的は魔物の撃破ではなく、目的地であるスエズアへの到達なのだ。魔物がこれで退くならば、それで問題はない。
それにそこまで行けば、スエズアの軍隊から協力を得られるかもしれなかった。
*
ウツボの影が船団から離れていく。このまま置き去りにできるだろうか……。
「動いたよっ!」
ミスティンが持ち前の動体視力でいち早く察知する。
ウツボはビクッと体を動かし、雲海へと頭を突っ込んだ。長大な胴体が見る見るうちに、雲海の下へと潜り込んでいく。しかも、潜る方角が船団を向いているのは明らかだった。
「ぐっ、下から狙ってくる気か!?」
得体の知れない敵の行動に、メリューは叫んだ。
「だろうな。くっそ、これがあるから雲海の魔物は厄介なんだよ!」
グラットが悪態をついた。皇帝イカを相手にした時も、敵は雲海の下に隠れたのだった。
「でも、下に逃げるってことは効いてるんだよ」
ソロンが指摘する。
もしウツボがこちらの攻撃をものともしないならば、正面から迫ればよいのだ。効果があったからこそ、敵は動きを変えたのだろう。
「少なくとも、神獣ではなさそうですね。そうであったら、万事休すでしたが」
赤黒い瘴気をまとい、あらゆる攻撃を無効化する神獣……。この場にはその弱点となる神鏡もないのだ。アルヴァの言う通り、神獣が相手でないのは幸いだった。
「だが、どっちにしろ、これじゃあいつまで経ってもトドメを刺せんぜ」
「来るぞ!」
メリューが叫べば、
「影を狙って、可能な限りの攻撃をしかけてください!」
アルヴァは攻撃の続行を宣言する。
幸い、雲海の透明度は高い。目を凝らせば、その下に埋もれた巨大な影を見分けられる。
アルヴァは再び杖を構え、ウツボの影へと紫電を放った。
他の一同も、同じ場所をめがけて攻撃を再開する。
殺到する魔法の雨を受けて、またも大きな煙が立ち昇った。
「ちっ、これじゃあ、当たってんのかどうか分かんねえぞ!」
グラットが顔をしかめて指摘する。
相手は雲海の下に映る影である。攻撃が当たっているのかどうか、手応えがつかめない。加えて、先程より距離が遠く、頭部を狙うのも難しい状態だった。
「けど、他にやりようがないよ」
それでもソロンは必死に攻撃を続ける。次々と炎の玉を影に向かって、撃ち出していく。
ところが――
「あっち行った!」
ミスティンが叫んだ時には、事態は進んでいた。
煙が立ち昇る一帯を抜けて、巨大な影は船団の後ろへと回り込んでいた。ウツボは攻撃の嵐をくぐり抜けていたのだ。
迎え撃つために、ソロンは甲板を走り出した。仲間達もその後ろに続いて船尾を目指す。
「まずい!」
ソロンが船尾へとたどり着いた時には、もはや手遅れだった。
ソロン達が乗る旗艦の後ろには、ドーマの竜玉船が続いていた。
そして、そのさらに後ろからウツボは姿を現したのだ。茶と白の縞模様が、雲海の上で露わになる。
「ぐっ……! あの船にはラーソンが!」
メリューが表情を歪めて叫んだ。
巨体がうねり、ドーマの竜玉船めがけて加速する。
ウツボは頭をもたげるや否や、船の後尾へと鎌首を振るった。
激しい衝突音が鳴り響き、船がこちらへ向かって弾かれる。
弾き飛ばされた船が、旗艦にぶつかるのではないか――乗員達に恐怖が走った。
「くそっ、どうにもできねえのか……!?」
グラットが焦りに汗を浮かべる。この位置関係では、攻撃しても仲間の船に当たるだけだ。ウツボだけを狙うのは容易ではなかった。
ウツボの勢いは留まらず、容赦ない追い打ちがなされる。衝突は二度三度と繰り返された。
やがてドーマの船に大きな亀裂が走る。これ以上の航行が不可能なのは、目にも明らかだった。
船から飛び出す亜人達の姿がソロンの目に入った。
小舟へと慌てて乗り込む者、竜玉帯をまとい雲海へ浮かんだ者、何もつけずに雲海へと沈んでいく者……。
いずれにせよ、絶体絶命の状況に違いはなかった。
「おのれえっ!」
普段は冷静なメリューが怒りを露わにする。今にも船から飛び出さんばかりの剣幕だ。
その間も、他の七隻は速度を維持していた。犠牲となった船とウツボを置き去りにして、どんどんと間隔が離れていく。
「借りるぞ!」
メリューがそう叫びや、備えつけの小舟へと走り出した。部下を助けるために、自ら雲海へ漕ぎ出そうというのだ。
「ダメだ、危ないよ!」
ソロンはメリューの腕を強くつかみ、それを制した。
「だが……!」
「今、行ったところで命を散らすだけです。冷静になさい。雲海に浮かんでさえいれば、救助は後でもできます。それよりも、我々にしかできないことをしましょう」
アルヴァはしかとメリューを見据え、冷然と言い切った。
それから右手に持った杖の先を、ウツボへと向ける。救助よりも戦いを優先する――それが彼女の決意だった。
「むう……」
メリューは気勢を削がれたようで、足を止めた。
実際、最大の戦力を持つのは、アルヴァがいるこの旗艦なのだ。ウツボと戦うのは、この船を置いて他にない。ウツボを止めねば、全船団が崩壊してしまうかもしれなかった。
そうこうしている間にも、オデッセイ号は混乱の渦中にあった。グラットは甲板を走り回り、必死で船員に指示を出していた。
「このままじゃどうしようもないけど。どうする?」
ミスティンは無表情を保ったまま淡々と言った。それでも内心の焦りは隠せないらしく、ソロンの袖をギュッとつかんでいる。
ウツボは機関の停止したドーマ船に向かって、執拗に攻撃をしかけていた。菓子でも噛み砕くかのように、船の形が崩れていく。
崩れ行く船の上から、ウツボへと攻撃を続ける者達の姿があった。避難もせずに、決死の覚悟で戦いに挑んでいるのだ。
その中にはなんと、杖を持ったラーソンの姿があった。
「あやつ、大して強くもなかろうに……」
メリューが消え入りそうな声でつぶやいた。
至近距離からの猛攻撃に、ウツボもわずかにひるんだ。
彼らの覚悟を無駄にはできない。この時間を活用して、戦いの方針を決めねばならない。
「雷鳥の魔法を当てられないかな?」
ソロンはアルヴァへと提案した。
四隻による総攻撃をものともしない敵の鱗。それを貫けるとすれば、彼女の魔法に他ならないだろう。
アルヴァはゆっくりと息を吐いて。
「私も、それしかないとは思います。けれど、容易ではありません。体が細長い上に、見た目通りの蛇行ですから。先程のように一定の角度から狙えれば、それが最善なのですが……。先の好機に惜しんだのは、私の失敗でした」
「仕方ないさ。できる方法を考えよう」
雷鳥は集中に時間を要する上に、精神の消耗が激しい魔法である。敵の動きも見極めないうちから、放てはしなかったのだろう。撃っておけばよかったというのは、結果論に過ぎない。
「誰かが引きつけるしかないか……」
ソロンはつぶやいた。
誰かといったら、もちろん自分しかない。大事な役目を人に任せるつもりはなかった。自分が小舟に乗り移って、ウツボに接近するのだ。
このところ、小舟にはやたらと縁がある。今回も活用させてもらうとしよう。
「あなたがやるつもりなのですか?」
「うん、他の人には任せられないしね」
アルヴァは胸を押さえながら、うつむいていたが、
「了解しましたが……。無茶はしないでください」
ソロンを見据えてそう言った。
紅い瞳はどこか不安げに揺れていた。心配してくれているようだが、それでもソロンの意志は尊重してくれるらしい。
もっとも、作戦自体が無茶極まりない以上、彼女の言葉には反するのだが……。