彼方より迫るもの
船の墓場を乗り越えて、船団に弛緩した空気が広がっていた。難所を終えて、緊張が解けたということもあるが、アメーバ騒動のために睡眠不足の者も多かった。
グラットに至っては、早々と船長室で眠り込んでしまった。
しかし、船長という重職を考えれば、その疲労も仕方のないことである。
そしてもう一人の重職はと言えば……。
「アルヴァ」
「…………」
呼びかけても返事がない。見れば完全に目が据わっている。
ソロンは肩を叩いて、返事をうながすことにした。
「ひゃいっ!? 何ですか……?」
思いのほか、可愛らしい声で悲鳴が上がった。
「眠ったほうがいいよ」
ソロンは穏やかに声をかけた。
昨日、彼女は皆が眠った後も、事後処理のために起きていた。他の者より、疲労は深いはずである。
「いえ……まだ油断はできませんので。敵が墓場の出口に網を張っている可能性は、大いにあります。こちらが東西の経路を避けたことは、あちらも察知するでしょうからね」
「そんな状態じゃ、油断も何もないと思うけど」
「そうだぞ、上帝。そなたの推測は一理あるが、ここは既にスエズアの勢力圏でもある。獣王もそう簡単には軍を送れまい。警戒は我々に任せて、そなたは寝ておれ」
助け船を出してくれたのは、メリューだった。
彼女にしても昨夜は忙しくしていたはずだが、至って平気そうだ。見た目よりもずっと頑丈らしい。
「……そうですね。殿下がそうおっしゃるなら。すみませんが、少し眠ります。何かあれば起こしてください」
と、アルヴァは座り込んで仮眠を取り始めた。
何だかんだ言って、彼女は合理的な人間である。休息の重要性は誰よりも分かっているのだ。
しかし、場所は操舵室のど真ん中。
いつでも対応できるように待機しているつもりらしい。できれば、寝室に行って欲しいが、起きていられるよりはマシだろうか。後で毛布を持ってくるとしよう。
事が起こったのは、そのしばらく後だった。
「なんだあれは!?」
見張り台の上で、双眼鏡を構えていた兵士が叫んだ。驚いた様子で、遥か前方を指差している。
「どうした!?」
船長室を出て、駆け寄ってきたのはグラットだ。
「いえ、何か大きく細長い物が見えるのですが……」
「それだけじゃ、よく分からんぞ。はっきり伝えてくれ」
「私にも何がなんだか……。色は茶のように見えますが……」
兵士は双眼鏡を覗き込みながら、正確な報告を試みる。
「小島じゃないのか? 必要なら進路を変えるぞ」
腕組みしたグラットが怪訝そうにつぶやく。
「島にしては質感が――」
そうつぶやいた瞬間、兵士の形相が一変した。
「――あ、あ……あ……! 蛇です! 巨大な蛇です!!」
「何事ですか!?」
異変を感知したらしく、アルヴァが起き上がった。跳ねのけられた毛布が、はらりと甲板に落ちる。
「バケモノだ。回避するように指示を出しておいたが……」
アルヴァの目覚めを待つことなく、グラットは指示を出していた。
全船団に向けて信号旗が掲げられていたのだ。船団は大蛇を回避するように舳先を右へと転じた。
しかし、信号旗が伝わる頃には、大蛇の姿が肉眼でも確認できるようになっていた。
その姿はあまりにも長大で、最初は生物だとはとても思えなかった。全長はこちらの竜玉船の何倍かはあるだろう。見張りの兵士の困惑も察せられる。
けれど、それは明らかに生物として動いていた。まさしく体をくねらせる蛇のような動きである。
八隻の船団は大きく右に旋回していた。にも関わらず、大蛇との距離が縮まる様子はない。
「げえっ、こっち来るぞ!」「マジかよ!?」
乗員達も口々に恐怖で悲鳴を上げる。
もはや間違いない。船の左舷側に向かって、大蛇の頭が向かってきているのだ。
ギョロリとした大蛇の目玉が、こちらを凝視している。獲物を見つけたとでもいうかのように。
「あれは……」
ソロンの視界に、長い胴が目に入った。胴体には茶と白の縞模様が描かれている。
頭から背中にかけて、上部が魚の背ビレのように突き出ていた。どうも蛇にしては違和感があるが、ひょっとすると……。
「こっちにはあんなバケモノがいるのか? 帝国でも、精々が皇帝イカぐらいのもんだぞ!」
グラットがメリューへと怒鳴るように声をかけた。
「いや、野生の魔物ではなかろう」
「じゃあ、なんだってんだよ?」
「最近、獣王が怪しげな魔物を使うようになってな。あやつもその一端かもしれん。このところ、我らも苦戦を強いられているのだ。まさか、こんなところまでけしかけてくるとは思わなんだが……」
思わぬ襲撃にメリューも呆然としていた。
「しかし、非常識に巨大な蛇ですね。雲竜の一種でしょうか……?」
「蛇でも竜でもなくて、たぶんウツボだよ」
アルヴァの推定を、ソロンは否定した。
「ウツボとは?」
アルヴァは怪訝な視線を向けてくる。もしかすると、いつかの海ワニと同じく、上界には存在しないのかもしれない。
「下界の海にいる蛇みたいな魚さ。ウナギとかに近いんじゃないかな?」
ウナギ料理については、上界でも見た記憶がある。奇妙な話だが、雲海にも生息しているらしい。
「なるほど、蛇というより魚ですか」
「けどなんか、嫌な感じかも……」
と、ミスティンが嫌悪感を訴える。
「ミスティンもなの? ひょっとしてこれって――」
ソロンも同意する。
向かってくる魔物に対して、ソロンも得も言われぬ嫌悪感を抱いていたのだ。ひょっとすると、この魔物は……。
「いや、それよりどうすんだよ、お姫様? ……っつても、答えはあってないようなもんだろうけどな」
焦りの色を浮かべたグラットが遮った。そうこうしているうちに、ウツボとの距離が縮まってきていたのだ。
「決まっています。逃げきれないなら迎撃するしかありません。総員、戦闘準備を! 船は今の進路を維持してください!」
アルヴァは既に杖を取り出していた。それからソロンのほうを見て。
「ソロン、合図を!」
「了解!」
ソロンは刀を上方に掲げ、天に向かって炎を打ち上げた。これが戦闘開始の狼煙となるのだ。
「敵を引きつけてから、一斉に撃ちます! 総員、攻撃の構えを!」
アルヴァが勇ましく司令を下す。それを兵士達が伝令し、さらには旗信号で他の船へと連絡する。
兵士達が続々と左舷に集まってくる。帝国の人間にドーマの亜人。危機的状況において、国籍の差は関係ないのだ。
弓や杖、投げ槍、あるいは投石器――彼らはそれぞれの武器を構えていた。
ソロンは刀、ミスティンは弓、グラットは投げ槍――仲間達も得物を持って構えた。
その間にも、巨大なウツボが猛烈な勢いで向かってくる。
茶色のウロコが、雲海の中をかき回すように動き回る。黄金の瞳が陽光を照り返して、不気味に光っていた。
「アルヴァ! この船、狙ってるよ!」
ソロンは額に汗を浮かべながら叫んだ。
「好都合です。この船の戦力が最も手厚いのですから。返り討ちにしましょう」
それでも、アルヴァはこの期に及んで至極冷静だった。左舷に身を乗り出すようにして、杖先をウツボへと向けた。
船団は二列になって、四隻ずつに分かれて併走している。
位置関係の都合上、左列の四隻だけが攻撃に参加できる状態だ。
そこへウツボがさらに迫り来る。雲海を震わせる不気味な息遣いが、こちらの船まで聞こえてくる。
「攻撃はまだです! 引きつけてください! 頭を優先的に狙うように!」
アルヴァは左手を横に伸ばして、兵士達を押しとどめる。
兵士達もみな黙り込んで、攻撃の時を待つ。
ソロンも最大限の魔力を刀に込めて、いつでも放出できるように身構えた。
船団とウツボの位置関係は、ちょうどTの字を描くようになっている。ウツボの頭めがけて、存分に狙える位置取りだ。
「今です!」
アルヴァは号令すると共に、自ら杖先から紫電を放った。
ソロンもほぼ同時に刀から炎を放出する。炎が舞うようにウツボへと襲いかかっていく。クネクネ動く相手だろうが、確実に命中できる巨大な炎だ。
その時には人間と亜人――双方の兵士が一斉に攻撃を放っていた。四隻の竜玉船と何十人もの兵士による総攻撃だ。
矢、投石、投げ槍、炎、冷気、風……。各々の攻撃が怪物の巨体に向かって炸裂する。
雲海が激しい攻撃に覆われていく。熱波と轟音が、船上にいるソロンの元まで伝わってきた。