夜霧の中で
「お~い、時間だぞー」
深夜、グラットに起こされたソロンは、交代で寝室を出た。見張りの時間が来たのだ。
危険は以前に停泊した島よりも大きく、見張りを欠かせない。魔物に夜襲をかけられないよう、常に注意しなければならなかった。
まずはアルヴァとミスティンを起こしにいく。
真夜中に女性の部屋――しかも最高責任者を訪ねようという兵士はいないらしく、自然それはソロンの役目になっていた。
自分から室内に入らないのは、紳士のたしなみである。
幸い、扉を叩いただけで、アルヴァは速やかに目を覚ました。案の定、ミスティンは起きなかったが、アルヴァがいつものように叩き起こした。
三人で階段を上がり、夜の甲板へ。
今や船の墓場は、深夜の闇に沈んでいるはずだ。あるとすれば、見張りの兵士達が掲げる灯りぐらいのものだろう。
――が、しかし、
「ぎゃっ!?」
ソロンは目の前の光景に、悲鳴を上げた。情けなくも、反射的にアルヴァの袖をつかむ。
夜霧の中に浮かび上がる緑の光が、ソロンの瞳へと飛び込んできた。
雲海の中に、緑の光が怪しく輝いていたのだ。あちらにもこちらにも、どの方向を見渡しても雲海は緑に光っている。
見ようによっては美しいといえなくもないが、どうしても不気味さが勝ってしまう。
「な、なんなのかなこれ……。ちょっと気味悪くない?」
「きっと、船の墓場で死んだ人達の亡霊だよ。私達を船ごと仲間にしようと企んでいるのかも……」
ミスティンが無表情を保ったまま宣った。顔に緑の光が当たって、なんとなく不気味に見えてくる。
「ちょっ、やめてよ……」
「いけませんよ、ミスティン。そんな非科学的なことを言って、脅してはなりません」
そんな空気を切り裂くように、アルヴァはピシャリと言った。
「非科学的って、魔法使いの言う言葉じゃないよね」
ミスティンは反論するが、アルヴァは力強く否定する。
「いいえ、魔法は科学です。今の人間には理解も及ばないことが、世界には少しばかりあるというだけです。魔法学が発展すれば、いずれ全ては明らかになると私は信じています」
「なるほど~、アルヴァはえらいねー」
口論に発展することなく、ミスティンはあっさり折れた。基本的に、自分の言動に執着のない娘である。
「分かればよいのです」
それから、アルヴァはソロンへと向き直って。
「――大丈夫ですよ、ソロン。こんなものは不思議でもなんでもありませんから」
と、彼女はこちらに手を重ね、優しい声をかけた。お化けに脅える子供をなだめるような調子である。
色んな意味で気恥ずかしい。
「えっと、じゃあなんなの……これ?」
「これは科学的に説明できる現象なのです。恐らくは夜光虫のように、微生物が発光しているのだと思われます」
「夜光虫っていうと……。夜の海で光るあれだよね。な、なるほど……」
それならソロンにも理解できる。下界の海でも、生物による発光は珍しい現象ではない。
科学的かどうかはともかく、既知の現象に当てはめれば、何となく安心できるというものだ。
「むしろ、夜間の照明になって便利というものでしょう」
アルヴァはいつもの通り、肝の据わった言葉を残した。
*
緑に発光する船の墓場で、三人は見張りを続けていた。
「ふわわ~……そろそろ終わりかなあ」
ミスティンがすっかり気の抜けた調子で、あくびをしていた。
深夜の見張りに立って、おおよそ三時間、眠たくもなろうというものだ。
まだ外は暗いが、もうしばらくすれば徐々に明るくなるかもしれない。
だが――
「のわっ、何だこりゃっ!」
兵士の叫びが船上に響いた。左舷側にいた彼は、手すりから身を乗り出し、船の側面を覗き込んでいる。
「こっちにもいます!」
ソロンの近くにいた兵士も叫んだ。
ソロンもそばに行って、右舷側を覗き込む。
緑に光る雲海から、何かが湧き出すように現れている。
船の側面へと赤色の何かが張りついて、のろのろと這い上がってくるのだ。
十を超える数のそれが、くねくねとうごめいていた。
軟体生物の手足にも見えたが、目鼻はおろか頭部も見当たらない。それどころか、個体ごとに形状が異なるため、つかみどころがない。
「タコ? う~ん、違うね」
まだ眠気の抜けないミスティンが、頭を悩ませている。
「いや、アメーバの一種じゃないかな?」
アメーバというのは、下界の水辺で見られる魔物だ。決まった形を持たないのが特徴であり、不定形などとも呼ばれている。まさか、雲海にもいるとは思わなかったが……。
そうしている間にも、アメーバは船の両舷を越えて、甲板へ入ってこようとしていた。
「こいつ、あっちいけ!」
側面にひっついたアメーバを、兵士が槍でつついた。追い払って、雲海へ落とそうとしたのだろう。
ところが、槍はアメーバの柔らかい体へと、吸い込まれるように突き刺さった。
「のわっ!?」
兵士の悲鳴が上がる。
アメーバは槍へとまとわりつき、そのまま槍を伝って兵士へとにじりよってきたのだ。
兵士は歯を食いしばって槍を押し、まるごと雲海へ捨てようとしたが、
「んぐぐぐ……。こいつ! なんて力だ……!」
船体に吸いつくアメーバを、引きはがすことができなかった。
槍とアメーバ、アメーバと船体が三位一体の如くひっついている。
「大丈夫!?」
ソロンは紅蓮の刀に炎を宿し、槍にまとわりついたアメーバへと放出した。
熱されたアメーバが、もがくように踊り出す。あまりの気持ち悪さにやめたくなったが、我慢して炎を放出し続ける。
「うおっ!」
兵士が槍もろともに、勢いよく後ろへ倒れた。どうやら、アメーバを引きはがすことに成功したらしい。
炎を浴びたアメーバから赤い煙が上がり、どんどんと小さくなっていく。
やがて、干からびたアメーバの残骸だけが、船の側面に残った。
気持ち悪い光景だったが、とにかく撃退はできたようだ。
「た、助かりました……」
見れば、槍がボロボロになって変色している。アメーバの体液には、金属を錆びさせる効果があるようだった。
「炎が効果的なようですね。他の皆もお願いします! 万が一に備え、水樽の用意も!」
それを見ていたアルヴァが指示を出す。自らも杖を手に取り、アメーバの一体を焼き焦がした。
「アルヴァ、船を動かしたらどうかな?」
ソロンがそばに寄って提案するが、彼女は首を振って答えた。
「いえ、この視界では船同士が衝突する危険もあります。今はとにかく魔物を追い払いましょう」
「分かった!」
ソロンは納得し、すぐに刀を構えた。上がってくるアメーバに狙いを定める。
兵士達はそれぞれに武器を手に取った。魔法を使える者は杖を取り、そうでない者も松明を手に取る。あるいは、消火用の水樽を運ぶ者もいた。
「ぬおっ、なんじゃこの魔物はっ!」
騒ぎに起こされたらしいメリューが、寝巻き姿で現れた。
「メリュー殿下っ! 炎に弱い魔物です! ドーマの船へ連絡を!」
とっさにアルヴァが声をかける。
「う、うむ。私に任せておけ」
メリューはいまだ困惑を隠せないようだった。
それでも、彼女はドーマの亜人兵を連れて、船を駆け下りる。足場の悪い岩だらけの島をつたい、他の船へ渡るつもりのようだ。
夜霧の中に、炎が浮かんでは消えていく。同時に赤色の煙が船団中から上がり始めた。
*
まだ暗さの残る未明。雲海が放つ緑の光も、徐々に消えていこうとしていた。
「うへぇ、どうにか片がついたな」
顔をしかめながら、グラットが息を吐いた。騒ぎに目を覚ました彼も、松明を手にアメーバを焼いていた一人である。
「あは~、気持ち悪かったねえ」
ミスティンはどこか楽しげだった。なんだかんだで、奇妙な生き物を見るのが好きらしい。
「……他の船からも報告を受けましたが、被害は軽微だったようです。メリュー殿下もお疲れ様でした」
アルヴァはさすがに疲れを隠せなかった。アメーバとの戦いの最中、彼女は他の船と連絡を取るべく動き回っていたのだ。
「なんの。ドーマの船を守るのは私の仕事だからな。上帝こそご苦労だった」
「もう湧いてこないだろうな。……ったく、俺様の船が汚れちまったじゃねえか」
グラットは船の端から注意深く雲海を見つめた。それから、船の側面についた赤い汚れへと目をやり、顔をしかめる。
「災難だったな。まあ、スエズアに着けば、いくらでも掃除できるさ」
メリューはグラットを慰めるよう口にした。
「スエズアってのが次の町だったな。まだ続くのか、この墓場は?」
「ううむ、まだ半分も行っていないはずだ。明日の日が暮れるまでには、余裕を持って抜けられると思うのだが……」
「そんなところか。んじゃ、まだ暗いがそろそろ行くとしようぜ。どうも停まってるよか、動いてたほうがマシな気がするしな。……って、俺が決めていいか分かんねえけど」
そう言いながら、グラットはアルヴァを見た。
動きの遅いアメーバは、停止している船しか狙えない。だから出発しようという判断だろう。
「いえ、船長の判断は尊重しますよ。皆には負担をかけてしまい申し訳ありませんが、墓場を抜けた後で休憩を約束します。出発といたしましょう」
アルヴァも同意して、出発が決まった。
船の墓場を脱出すべく、八隻の船団は錨を上げた。
再び一列へと隊列を組み直した船団は、狭い雲路を進んでいった。
避けたほうがよい魔物、追い払ったほうがよい魔物……。それぞれの特徴をとらえながら、適切に乗り越えていく。厄介な雲海域ではあるが、皆も慣れてきていたのだ。
そうして、また一日が過ぎてゆく。
船の墓場に三日目の朝が訪れたのだ。
進むにつれて、また船の残骸が目立つようになっていった。
見る限り、この辺りの船は全てがドーマ船の特徴を持っていた。その事実は、ここがドーマに近づいていることを思わせた。
やがて、雲路が広がっていく。
霧が晴れ、日射しが強まっていく。カラスの鳴き声が途絶え、寒くとも静かで穏やかな冬の雲海が戻ってこようとしていた。
船員達の表情も、心なしか晴れ晴れとしてきた。
昼下がり、ゆく手には見渡すかぎりの雲海が広がっていた。岩礁もなければ、島もない。ただただ果てしない一面の白。
船団は船の墓場を乗り越えて、ドーマの大雲海へと到達したのだった。