墓場は続く
『カブトムシ』との死闘を乗り越えて、なおも雲路は続く。
「なんだろ?」
雲海から空へと高く伸びる何十本もの触手が見えた。紫色のそれは、霧の中でうねうねと誘うように蠢いている。
「なんか、気色悪いのがいる……!?」
ミスティンは引き気味に触手を凝視していた。
「右に避けてくれ!」
兵士達が叫びながら右へと手を振る。
それに従った操舵手が、舵輪を回して進路を調整する。怪しい物には近寄らないに限るというわけだ。
騒ぎに気づいたメリューが近寄ってきて。
「あれはイソギンチャクの魔物だな。ああやって雲下から触手を伸ばし、獲物を求めているのだ。近づいた鳥を食べることもあるぞ」
この近辺の生物にはそれなりに詳しいらしく、説明してくれた。彼女も何かと、甲板を動き回って働いてくれている。
見れば確かに触手の大元、雲面下には本体らしき影がある。雲海の底の地面に根を下ろし、触手を伸ばしているのだろう。
「うう、イソギンチャク嫌い……」
と、ミスティンは頬をふくらまし、ソロンをにらみつけてくる。
「悪かったよ。もうやらないってば」
かつて、下界の森でイソギンチャクに似た植物があった。ソロンが注意しなかったため、それに顔を舐められたことをいまだに恨んでいるらしい。
「むう。……まあ、いいけど。許してあげるよ」
ミスティンは微笑んで、ソロンの頬を指で突っついた。妙に愛嬌のある仕草に困惑するしかない。
「……そなたら、どういう関係なのだ?」
呆れたようにメリューが見ていたが、ここはとりあえず話を戻すことにする。
「いや、それよりそのイソギンチャク。危険はないのかな? まあ、鳥を食べるって程度なら大丈夫だと思うけど……」
「そう思うか? 見ておれ」
メリューが指差すほうを見れば、そこには大ガラスの姿があった。
改めて近くで見れば、相当に大きな鳥である。猛禽類よりも一回り大きいかもしれない。
大ガラスは触手に興味を持ったかのように、バタバタと近づいていく。やがて、触手から少し離れた岩の上に止まった。
人間の歩幅で五歩の距離。カラスは賢い生き物であるため、警戒しているのだろうか。それ以上は近づかずじっと触手を眺めていた。
その時――
触手が何倍もの長さへ伸びて、大ガラスへと巻きついた。
「わわぁ!」
ミスティンの悲鳴が上がる。
大ガラスはガーガーと激しい鳴き声を上げながら、もがき続ける。バタバタと翼の音がここまで届く。
触手は収縮し、雲海の中へと入っていこうとする。
大ガラスは必死に抵抗するが、触手を振りほどくことはできない。
鳴き声と羽ばたきが、段々と弱々しくなっていき、やがて漆黒の体は雲海の中へと消えていった。
「……大丈夫じゃないね」
「うん、人でも捕まっちゃうかも」
ソロンとミスティンは呆然とつぶやいた。
一連の流れを、アルヴァは背後からじっと眺めていたが、
「一応、妙なものには近づかないよう指示はしていますが……。グラット」
後ろを振り向いて、グラットへ呼びかけた。
「そうだなあ、念のため回覧したほうがいいかもな。魔物の特徴を伝えとけば、それだけ対応も取りやすくなるだろう」
「でも旗信号じゃ、細かい連絡は難しいよね。停まって伝えるの?」
ここ船の墓場は、なるべく早く抜けてしまいたい雲海域である。悠長に停まるのも、それはそれで危険があった。
「絵に描いて放りこめばいいだけだよ。ソロンがんばって」
「がんばって――って僕が放るの? 届くかな?」
紙のように空気抵抗を受ける物体を、遠くまで飛ばすのは案外難しい。矢の先にくくりつけて、射つほうが現実的だろうか。
「それは私の仕事。ソロンは絵」
ミスティンが簡潔に説明してくれた。
粗末な紙を卓上に乗せて、ソロンは羽根ペンを手に取った。
大ガラス、頭のとがったサメ、雲海に突き出た触手……。遭遇した魔物の姿を描いていくのだ。
別に芸術作品でもなんでもないため、難しく描く必要はない。
特徴をとらえ、手軽にさっさと線を描き込んでいく。幸い、竜玉船の揺れは帆船よりもずっと小さいため、描くには支障がなかった。
アルヴァがその隣に座り込み、作業を覗き込んでいる。紅い瞳が興味深げに光っていた。
「手慣れたものですね」
「そうかな? 適当に描いてるだけだけど」
「十分ですよ。注釈は私に任せてもらえますか」
「あ、うん。お願いします」
アルヴァは羽根ペンを取り、体をぐっとソロンに近づけた。肩が触れ合う程に近くなる。
思わぬ近さに驚くが、ソロンは羽根ペンを動かし続けた。
その間、描き上がった魔物の隣に、アルヴァがすらすらと説明文を追加していく。魔物の特徴をとらえ、その注意点を簡潔に記していた。
「悪くないんじゃないかな」
でき上がった紙を持って、ソロンは立ち上がった。
「やっぱり、ソロンはうまいよね~。きっと、そうだと思ったよ」
ソロンが描いた魔物の絵を見て、ミスティンが感想を漏らす。
「そんなに上手そうに見えた?」
少なくとも、絵が得意などとミスティンに言った記憶はなかった。なぜ、彼女はソロンを指名したのだろうか?
「うん、男らしくないから、お絵かきとか似合いそう」
大変適当な答えが返ってきた。あまり否定できないのが悲しい。
「確かに子供の頃は、刀の修行より絵を描くほうが好きだったな。昔は体も小さくて、刀はてんでダメだったし」
「そう? 今も小さくてかわいいけど?」
「男にしてはね。君よりは大きいよ」
ソロンは負けん気を燃やし、ミスティンの頭を軽く平手で叩いた。
ソロンの背丈は言われるほど低いわけではない。軍人や船乗り、冒険者など屈強な男達と比較すれば、体格に劣るだけ……のはず。
「ほえっ? 私と変わらなかったはずだけど……」
と、ミスティンはソロンへにじり寄った。まっすぐに目を合わせて「むー」と覗き込む。
ミスティンは女性にしては長身であり、アルヴァよりも少し背が高い。目の高さはソロンとほとんど変わらないようだった。
それから、ミスティンは頭の上に平手を乗せて、背を比べだした。
それを見たアルヴァは「おや」と声を上げて。
「ソロン、背が伸びましたね」
「わぁ、本当だ!? 指一本だけ私より高い!」
これにはミスティンも目を見張った。
ちなみに指一本とは、指の太さである。指の長さではないので注意していただきたい。……ようするに、ほんのわずかな差ということだ。
「ふふふ、ようやく気づいたようだね。いつまでも、背丈が伸びないと思ったら大間違いさ」
ソロンは意味もなく勝ち誇った。
「負けたかあ……。そっか、ソロンも男の子なんだねえ」
などと、ミスティンは当たり前のことを口にする。悔しいのか、嬉しいのか、なんだかよく分からない表情だった。
「俺らが会って半年以上経ってるもんなあ……。そりゃ背ぐらい伸びるわな」
既に長身で男らしいグラットは余裕の感想である。
「出会ったのは英雄の月でしたから八ヶ月前でしょう」
アルヴァが几帳面な性格で訂正した。
「ん、でも、八ヶ月でそれぐらいじゃ、その辺で打ち止めかもな。さすがにもう大きく伸びる歳じゃねえし」
グラットが残酷なことを口にした。
「……それは薄々気づいてたけど、言わなくていいよ」
「そっか、でも私はそれぐらいがいいなあ……。カッコよさ二割、かわいさ八割って感じで。グラットみたく大きくマッチョに育ったら幻滅だよ」
「げ、幻滅……!?」
一人グラットは衝撃を受ける。
「いや、君に決められてもね」
「そうかなあ? ねえ、アルヴァ」
ソロンが反論したら、ミスティンはアルヴァへと意見を求めた。
「そうですね。私も、今ぐらいで留めたほうがソロンらしいと思います。変に男らしさを誇示されても、似合いませんので」
「そ、そうなんだ……。じゃあ、今の背丈で我慢しようかな?」
「現金な奴よな……」
遠巻きに見ていたメリューが呆れるようにつぶやいた。それから、絵が描かれた紙を指差して。
「――それより、それを後ろの船に回すのではないのか?」
「ええ、その前に複製する必要もありますけれど。時間短縮のため、皆で手分けして書くとしましょう」
船には印刷機なんてものはないため、もちろん手作業である。もっとも、大した数ではないため、問題ないだろう。
それから、アルヴァはメリューに向かって付け加えた。
「メリュー殿下もお手伝いいただけますか? あなたにしかできませんので」
「ん、私が? ……ああ。そういうことか。任せておけ」
メリューもすぐに意図を察して頷いた。
全八隻のうち五隻はドーマの船である。当然、ドーマ語の注釈がなくては、全船団の乗員が理解できない。ラーソンが離れたため、翻訳できるのはメリューだけである。
皆の手を借りて、絵と魔物の注釈を別の紙へと手作業で複製した。
さて、いよいよ投擲だ。
まずは旗信号で指示を出し、後ろの船との間隔を狭めておく。
ミスティンが弓を構え、矢をつがえる。
矢にはもちろん紙を結びつけてある。十枚もの紙がくくられているため、見るからに矢は不安定だ。それでも、彼女ならば絶対に外さないだろう。
そして、ミスティンが矢を、後ろの船へと撃ち込んだ。
矢は問題なく、後ろの船の乗員が回収した。後は同じ要領で、全船団へ通達が回されていくはずである。
ミスティン以外の射手に任せるのは、若干の不安があるが。そこは、信じるとしよう。
*
イソギンチャクの触手を避けたり、サメを追い払ったりしながら、船団は霧の隘路を進んでいった。
船団全体で魔物の情報を共有した甲斐もあってか、被害は最小限で済んでいる。
雲路の脇には帆船が、比較的に原形を保ったまま廃棄されていた。ただし、陸地の草木から長年の侵食を受けたらしく、苔と蔦に抱かれるように覆われていた。
とはいえ、もはやこの辺りには船の残骸も多くないようだ。入口で多くの船が脱落するため、半端な船や船乗りでは到達できないためだろう。
ただでさえ視界が悪いのに、時間と共に周囲が暗くなっていく。
鬱蒼と茂る森が、なおも両岸に続いている。それがまた西日を遮って周囲を暗くする。
ひときわ大きな大ガラスの鳴き声が、暗い雲海に反響した。人を襲わないとは聞いても、不気味な声であることに変わりない。
「今日はこの辺りで限界のようですね。まだそれほど遅い時間ではありませんが、停泊しましょう」
周囲を見渡しながら、アルヴァは決定を下した。
魔物が多いこの場所を進むには、視界の悪さが致命的だったのだ。灯りで照らしていようとも、さすがに限度があった。
「こんな気味の悪い所で、夜を明かさにゃならんとはなあ……」
グラットがいつもの通り不平を漏らす。船長になっても、この性格に進歩はないらしい。
「仕方ないであろう。元よりその予定だったはずだ」
メリューが言えば、グラットもしぶしぶ頷く。
「まあな。こんな岩礁だらけ、魔物だらけのところで、夜航するなんざ正気じゃねえもんな。んで、どの島にする?」
「あれにしましょう」
と、アルヴァは岩だらけの無骨な島を指差した。上陸して過ごすには全くの不向きだが、停める分には問題ないという判断らしい。
「――緑豊かな島は、それだけ魔物の危険がありますからね。それにあの大きさならば、どうにか八隻が停まれるのではないでしょうか」
「了解」
グラットは操舵手のほうを向いて。
「――つーわけで、あの島に停めてくれ」
「承知しました、船長」
船長の指示に従って船が動く。
岩だらけの島に錨が打ち込まれ、船が固定されていった。