経路転換
緊張した面持ちで、アルヴァが強く釣り竿を握りしめる。
「手伝おうか?」
「不要です。これは私の戦いですから」
ソロンが手を差し伸べるが、あっけなく拒絶される。
しかし、魚は手強かった。
アルヴァの細腕では苦戦を免れないようだった。釣り竿を引っ張り上げようにも、ままならないでいる。珍しく必死な表情だ。
「雑魚風情がこの私に逆らおうとは……! 抵抗しても無駄だと分からないのですか!」
艶やかな唇から不穏当な台詞が吐き出される。……すぐ近くに他人がいなくてよかった。
「――ならばっ!」
アルヴァは釣り竿を左手に持ち、右手で杖を抜き放った。
剣豪の抜刀を思わせるような一瞬の閃き。杖先から放たれた稲妻が、雲下の影を矢のように射抜く。
猛獣すら仕留める魔法である。影はあえなくその動きを止めた。
「ちょっ……魔法は反則じゃないの!?」
思わずソロンは叫んだが。
「反則ではありません。腕力、知力、魔力……持てる全てを尽くして獲物を捕らえる――それが自然の掟。漁師が銛で魚を貫くように、魔道士は稲妻で魚を貫くのですよ」
「た、確かに。そういう考え方もあるかも……」
ソロンはあっさり丸め込まれた。どことなく納得できない部分はあるが、反論する理屈は見当たらなかった。
そうしている間にも、アルヴァの死闘は決着へと向かう。
「さあ、これでどうですかっ!」
彼女は杖を腰に戻し、両手に持ち替えた竿を一気に引き上げた。
雲海から現れたのは、狼のように大きなタコの姿である。引き上げるというよりは、引きずるようにして陸地にたぐり寄せられていく。
「すごい、大物だねえ! タコだよタコ!」
自分の釣り竿を放り出して、ミスティンがはしゃぎ出す。
「う~む、ですが、よく見れば足が十本ありますよ。むしろイカではないでしょうか?」
確かにタコらしきそれは、十本の足を生やしていた。しかし、丸い頭といい、赤い体色といい、見た目はどう見てもタコである。
「それじゃあ新種だ。イカタコだね」
「いえ、むしろタコイカではないでしょうか? そもそも、タコとは古い言葉で『八本足』とも呼ばれていた生物です。つまり十本足のこれはタコではありえません」
「ん~、どっちでもいいと思うけど。イカタコのほうがかわいいよ」
どっちでもいいと言いながら、ミスティンはこだわった。
「いいえ、大事なことですよ、ミスティン。命名の後ろに来るほうが、属する種族を表すのですから。イヌワシがワシであるように、キジバトがハトであるように……。従って、イカであるはずのこれは、タコイカでなければなりません」
当の軟体生物を指差して、アルヴァは高らかに説いた。
「……ねえ、タコだかイカだかどっちでもいいけど、早く外してあげなよ」
いまだ針をくわえたままのそれを見て、ソロンは哀れをもよおした。話に夢中になっている彼女らへと注意するが――
二人はハッとしたように目を見合わせた。
十本足の生物は死んでいるはずだが、まだ体はピクピクと動いていた。
「……さわれますか?」
「ちょっと苦手かも……」
ミスティンは控えめに答えた。彼女にも意外と苦手な動物はいるのだ。
「男の子だったらさわれるかな?」
「男の子だったらさわれますよ」
自然、二人の視線はソロンへと吸い寄せられた。
*
悪戦苦闘の末、ソロンはタコだかイカだかを雲桶に格納した。
桶よりも体が大きいが、軟体生物特有の柔らかさを利用して強引に詰め込んだのだ。今も足がはみ出していて大変気持ちが悪かった。
「お姫様、こんなところにいたのか? ってか、釣りするんだったら誘ってくれよー」
そこにやって来たのはグラットだった。こちらに近づいて、「ん?」と桶を覗き込み、
「なんだそのキモいタコは!?」
と、叫び声を上げた。
「イカです。あなたの目は節穴ですか」
「え、ああ、十本足か……。どっちでもいいけどよ」
有無を言わさぬアルヴァの口調に、グラットはうろたえたが。
「――それよか、こいつが用だってよ」
グラットの背中から、ひょっこり現れたのはメリューだった。
「ほほおこれは、大タコもどきではないか! 今宵はごちそうだな」
第一声がそれだった。メリューは銀の瞳を細め、ニコリと笑う。
それを聞いたアルヴァは鋭い目を向けて、
「大タコもどき……。タコに似て非なるもの。つまりイカ。メリュー殿下、間違いありませんね」
メリューを問いただした。
「え? お、おお……。大タコもどきはもちろんイカの仲間だ。十本足だからな」
思わぬアルヴァの鋭さに、メリューは気圧されながらも答えた。
「さすがはメリュー殿下です。どうですかミスティン。ドーマの見解も私と一致しました。これがイカであることは明らかです」
アルヴァは勝ち誇った笑みをミスティンに向けたが――
「ねえ、食べれるの?」
ミスティンは目を輝かせてメリューを見た。
「毒はないし、もちろん食べられるぞ。イカの甘味とタコの歯応えを併せ持った上質な食材――それが大タコもどきだ。調理次第でその味をさらに引き出すこともできる。せっかくだから、わが大君家秘伝のタレを貸してやろう」
「やったー!」
両手を突き上げるミスティンを、アルヴァは苦渋を噛み潰したような顔で見ていた。
「あっ、それでメリュー。何か用事があったんだよね?」
話が進まないので、ソロンが仕切り直した。いつもならアルヴァの役目だが仕方あるまい。
「うむ、これからの計画を見直そうと思ってな。このままでは少し苦しいかもしれん。この男も含め、一度話し合いたい」
この男――というのはグラットのことだ。メリューも一応、彼を船長として立てるつもりはあるらしい。
「苦しいというのは、獣王軍のことですね。先日のような手合が、この先にも待ち構えてるかもしれないと?」
アルヴァは気を取り直したらしく、話をつなげる。
「ああ。獣王軍が我らを本気で妨害するつもりなら、あれしきの攻勢で鉾を収めはせんだろうよ」
「私も同意見です。あっさりとした引き際といい、威力偵察だったと考えたほうがよさそうですね。……それで、メリュー殿下の意向は?」
「経路を変えよう。あの程度の敵、二度や三度退けるのはわけもないが……。次は何倍もの大軍で来ると想定すべきだろう。私には、お前達を安全に大都まで案内する義務があるのだ」
「構わねえけど、どこに向かう気だ?」
「船の墓場を通る」
メリューはあっさりと答えた。
「この前、説明してたあれか? あんなこと言っといて、その道を通る気かよ。俺は気が進まねえぞ」
と、グラットは不満の声を上げる。
「心配いらん。現代の竜玉船ならば、船の墓場とはいっても問題にはならんだろう。帆船とは違って、風に頼らずとも推進力を生み出せるからな。危険はずっと少ない……はず。獣王軍が待ち構えている可能性も大きく下がる……と思う」
心配いらんと言いながら、メリューの言葉はいかにも自信なさげである。これにはグラットが不審を呈するのも無理はない。
「おいおい、頼んだぜ殿下。さっきまでの自信はどうしたよ?」
「仕方ないであろう。私にとっても、あそこは未知の領域なのだ。だが帆船の時代であっても、無事に通過できた船は何隻とある。最新式の竜玉船ならば、無事に通過できるという見立てに偽りはない」
口元をとがらせて、メリューはまくし立てた。
当人も絶対の自信はないようで、自らを鼓舞しているようにも受け取れた。
「僕としては、メリューに任せていいと思ってるよ」
ソロンは助け船を出した。
そんなメリューの様子がどことなく人間的に見えて、信用していいのではないかと思えてきたからだ。
「結局のところ、私もこちらの事情には疎いのです。殿下の判断に委ねるしかありません」
アルヴァもいつもの通り、肝が据わっているところを見せてくれる。
ミスティンも無言で頷き、アルヴァの判断には従う姿勢を見せた。
「へえへえ……。結局、東も北もどっちにしたって危ないってことだろ。分かったよ。それじゃあしっかり頼むぜ」
「すまぬ……。お前達の身命、私に預けさせてもらうぞ。船の墓場を抜けた先は、我らの勢力圏となる。大きな町もあるから、そこの太守に協力を要請しよう」
船の点検と応急処置が終わる頃には、すっかり日が沈んでいた。ともあれ、一日で仕事を終えた事実は迅速といってもよいだろう。
もっとも、本格的な修繕を行おうにも、設備がなかったという事情もあったようだが。
そして翌朝、夜が明けてから出発することになった。