雲釣り
確認した結果、数名の重傷者がいたものの、死者は一人もいないと判明した。不幸中の幸いか、接近戦にならなかったため致命傷を受けることもなかったようだ。
最も激しく敵に狙われたのは旗艦であり、そこでの負傷者がわずかだった事実も大きい。もちろん、ソロン達が奮闘したお陰である。
結果的に航行不可能となる船はなかった。ただ、無傷とはいかなかったらしく……。
「大した被害ではないが、ちょっとしたへこみがあるようでな。放っておけば、後に響くかもしれん。できれば、どこか停泊して応急処置をしたいのだが」
メリューがそんな提案をしてきた。
ちなみに通訳が必要なくなった今、ラーソンはただ秘書のようにたたずんでいる。
「う~む、そうだな。俺達の船にしたって、点検ぐらいはしたほうがいいだろうな」
これにはグラットも賛同した。
「停泊って……。この辺に町はあるの?」
ソロンが聞けば、メリューは首を横に振って。
「わが連邦の町までは、まだ相当な距離がある。確かに港の施設を使えれば、最善なのだろうが……。ご覧の通り、ここは雲海の真っ只中だ」
「まっ、しゃーないから、近くの島に停泊するぜ。修理用の機材と部品は積んでるから、応急手当ぐらいはできるさ」
「なるほど、了解しました。ですが、そうなると本来の航路から、離れたほうがよいのではありませんか?」
アルヴァの意見に、メリューも頷く。
「私もそれは考えていた。さすがにこのまま進めば、獣王軍がいつ襲ってくるかも分からんからな。ひとまずは東に逸れて島を探すとしよう」
「時間は大丈夫か? もう何時間かすれば、夜になっちまうぞ」
時刻は既に昼下がり。悠長にしていては、暗闇の中に迷ってしまう。
「ちょうど良い島が地図に載っている。ギリギリになるかもしれんが、日が沈む前には到達できるだろう」
方針は決まり、新たな島を目指して船団は出発した。
*
それから数時間が過ぎ去り、早くも夕焼けが鮮やかとなった。
「やはり、北の日は暮れるのが早いですね。ソロン、見てください」
と、アルヴァが手元の懐中時計を見せてくれた。
時計の針は四時を指している。イドリスなら、冬であろうとまだまだ明るい時間帯だ。
「ホントだ。時間の感覚がおかしくなってきそうだよ」
「それは時計なのか? 帝都の公園にも時計はあったが……あれと違って、随分と小さいのだな」
二人のやり取りに、メリューが興味を惹かれたらしい。横から懐中時計を覗き込み、しげしげと見つめる。
「ええ、帝国の技術を結集した懐中時計です。精度に多少の問題はありますが、一月程度なら調整せずとも実用に耐えうるでしょう」
「それは便利だな。幸い、今回の旅では東西の移動もごくわずかだ。時差の心配もいらぬだろう」
「時差ってなに?」
突如、ミスティンが疑問を挟んだ。……実はソロンも分からなかったので、ありがたい。
「太陽が昇り降りする時間差のことです。太陽は東から昇り、西へと沈む。……つまり、東に向かうほど日の出が早くなるわけです。東西に大きな距離を旅した場合は、時計の針と日の出の時刻にズレが生じるのです」
「へえ~、そうなんだ! そんなこと考えたこともなかったよ」
アルヴァの説明を聞いて、ミスティンが首を縦に振った。理解しているかどうかは怪しいが、とりあえず嬉しそうである。
そんな会話をしているうちに、船団は目的の島へと接岸した。
甲板から見渡せば、鳥の姿はあっても魔物の姿は見当たらない。
緑の薄い、岩だらけの武骨な島である。地盤が固く、植物の生育には不向きなのかもしれない。それが却って、魔物の少なさに貢献しているようだった。
「明日は釣りでもしようかな」
そんな島を見回して、ミスティンがそんなことを言い出した。
「釣りですか? この辺りにはどのような魚がいるのでしょうね」
アルヴァも俄然、興味を持ったようだった。二人そろって好奇心旺盛な性格なのだ。
幸い、釣り竿やエサといった釣り道具は船に積まれている。
グラットによれば『釣りは雲海の男の嗜み』だそうである。食料の補充や娯楽に使えるため、漁船でなくとも用意されているものらしい。
「魔物がいるかもしれないけど……」
ソロンが懸念を表明すれば、
「見張りの兵士がいるので大丈夫ですよ。発見次第、駆除すればよいだけですから」
事もなくアルヴァはそんなことを言った。
*
翌朝……。
釣り竿抱えたミスティンが、意気揚々と島への一歩を踏み出した。
アルヴァも余裕の表情で釣り竿を持って続く。
しかしながら、これほど釣り竿が似合わない女性も珍しい。もっとも、当人に気にする素振りはなかった。
ソロンも釣り竿と道具箱を抱えて、二人を追いかけた。
乗員達もそれぞれで、島へと上陸を果たす。
彼らの多くは海の男ならぬ雲海の男なのだが、それでも時には陸が恋しくなるものらしい。これだけ人がいれば安全だろうと、ソロンも内心でホッとする。
三人は磯を歩きながら、手頃な釣り場を見繕う。磯といっても波打ち際ならぬ雲打ち際であるが。
ミスティンはさっそく釣り糸の先にエサを突き刺した。
ちなみに、ミミズなどの類には抵抗があるらしく、エサには乾燥したエビや小魚を使っている。手慣れた動作で釣り竿を振り、エサを雲海へと放り込んだ。
ミスティンは鼻歌を歌いながら、後ろにくくった髪をゆらしている。いつも通りに機嫌がよさそうだ。
そばには雲海の『雲』を汲んだ桶が置かれていた。
今日になるまで試したことはなかったが、雲は水のように汲めるものらしい。もちろん、釣った魚を格納するのが目的である。
ソロンもミスティンの隣に腰を下ろした。海や川で釣りをした経験はあるが、もちろん雲海での経験などあろうはずもない。
「雲海で釣りって、なんか不思議だね」
「そう? 雲釣りぐらいみんなやってるよ?」
ミスティンが小首を傾げながら、ソロンの瞳を覗き込む。
帝国人にとっては、水の海よりも雲海のほうが身近なのだ。雲海での釣りは、至って普通のことらしい。
「雲釣りっていうんだ……。アルヴァって釣りやったことあるの?」
見かけほど箱入り娘ではなさそうだが、さりとて経験豊富とは思えない。
「ありますよ。海釣りも雲釣りも少しだけですが……。まあ見ていなさい」
そう言うなり、アルヴァは釣り竿を置いた。何をするかと思いきや、杖を握って土魔法で地面に穴を開けていく。
「……何してるの?」
ソロンは半ば義務的に一連の奇行の意味を問うた。
「こうします」
アルヴァはそこでようやく釣り竿を振って、エサを雲海へと放り込んだ。
さらには釣り竿を掘った穴へと差し込んで強く固定する。
「いや、固定しちゃうんだ?」
「常時、手で持つ必要はないでしょう。時間は有効活用せねばなりませんので」
と、藍色の鞄から本を取り出した。
どうやら、読書態勢に入るつもりらしい。こちらはこちらで空気の読めない女である。
いったい何の本を読んでいるのかと覗き込んでみれば――
「あれっ、その本って……?」
帝国語の文章の下に、角張った記号のような文字が書かれている。意味は分からなくとも、その本が何物なのかは推測できた。
「教科書……だよね」
「その通り。ラーソンさんの自作だそうですが、写本を頂きました。もっとも、本来はメリュー殿下が帝国語を学ぶためのものだそうです。用途は逆になりますが、支障はないでしょう」
「うわあ……」
「……その『うわあ』というのは何ですか?」
アルヴァはムッとした声を出した。
「あっ、いや……。なんというか感心しちゃって。僕も帝国語を学んだけど、イドリス語との違いは方言みたいなもんだったからね。さすがにドーマ語は無理だなあ……。正真正銘、別の言語だし」
呆れ半分、感心半分というのが正直なところだが、余計な発言はしないに限る。
「無理ということはありませんよ。それに全く別の言語だからこそ、学べるものもあるのです。その民族が何を考え、どんな環境で生きてきたのか……。言語には全てが凝縮されているのですから」
以前、アルヴァが南の異国の言語――サラネド語を話す姿を見たことがある。周辺国の言語は一通り話せるらしいが、そんな彼女にとって未知のドーマ語は興味深かったのだろう。
「一匹!」
そんな話をしているうちに、ミスティンが釣り竿を引き上げた。小さな魚を釣り糸からつかみ、雲桶の中へと放り込む。
「ほらっ、あなたも釣らないのですか?」
「そ、そうだった」
ソロンも慌てて、糸とエサを雲海へと放り込んだ。
「面白い魚が釣れたならば教えてください」
そう言って、アルヴァはまた教科書へと視線を戻した。
*
ポツンと伸びた釣り糸。
透き通った雲海の下には、薄っすらと泳ぎ回る魚の姿が見えた。
しかし、なかなか釣れる気配はない。要領は水の釣りと同じはずだし、ソロンだって故郷のイドリス川で釣りをした経験がある。
……が、今一つ幸運には恵まれなかった。
その点、ミスティンは慣れたものだった。
次から次に雲海の魚を釣り上げていく。一匹釣り上げる毎に、笑顔をまぶしく弾けさせて、実に楽しそうだ。
どうやら、山野の猟だけでなく、雲海の漁にも強いらしい。
「ふむ……。その魚は見たことありませんね。帝国には生息しない種目でしょうか?」
教科書から顔を上げたアルヴァが、ミスティンの魚をしげしげと見つめる。相変わらず何にでも興味を持つようだ。
「ネズミウオに似てるけど、ちょっと違うねえ。やっぱり帝国から離れたら、また違う魚が釣れるんだ。もっと面白い子が釣れないかな。……あっ、アルヴァ、動いてる!」
見れば、アルヴァの竿がピクピクと動いていた。
「あら、本当ですわね」
アルヴァは本を置いて、釣り竿に手をやった。
竿が大きく弓なりにしなる。雲下に映る巨大な影が、糸を強く引っ張っている。
「――これは……大物ですね」
俄然、彼女の声に緊張が宿った。