上帝陛下の威光
やがて竜玉船は大防壁の右横――つまりは東側を通り過ぎた。大防壁は見る角度によって、また違う姿を見せてくれる。
横から見た大防壁は、まさしく雲海と陸地を分かつ境界線となっていた。やはり壁はどこまでも……それこそ雲平線の彼方まで西に続いている。
「ここから先が北の大雲海だよ。ワクワクするよね」
と、ミスティンが教えてくれる。
ここを通り過ぎれば、帝都がある本島ともお別れだ。灯台もなくなるため、航海の安全も確保されなくなる。
ここより北は遥かなる大雲海。
いくつかの小島がある以外には、ひたすら雲海が続いているという。
「帝国人もほとんど行ったことがないんだよね」
「そうそ、冒険者と……後は漁師さんぐらいかな。それにしたって亜人が怖いから、灯台の光が見えるところが限度らしいけど」
振り向いたミスティンは、大防壁のすぐ南にある灯台を指差した。今は真昼なので光も何も見えないが、あれが帝国最北の灯台に当たるらしい。
「やっぱり灯台が大事なんだね」
「うん、だからここから先、夜は航海しない。適当な島に船を停めるんだって」
「島はあるんだよね」
「数は少ないけど、まあこの辺は帝国の地図にも載ってるからね。見落とすことはないと思う」
ミスティンと話をしているうちにも、船は大防壁を通り過ぎてしまった。
進路に目を向ければ、そこは島一つ見当たらない大雲海。後ろを見れば、唯一の陸地は遠ざかるばかりである。
心細いような――それでいて胸が踊るような光景だった。
*
一時間、二時間と船団は大雲海を進み続けた。
既に帝国本島は、南の雲平線の彼方である。四方八方どこを見渡しても、陸地は視界に入らなかった。
「ほらほら、あっちいけ!」
兵士達の声が聞こえた。
見れば、竜玉船の側面に魚の魔物が迫ってきていたのだ。
硬い骨のような物で頭を覆った大型の魚で、かろうじてサメよりは小さい程度だろうか。
兵士は通常の槍の何倍もある長槍で、魔物を追い払おうとしている。船の船体が高いため、それだけ長い槍でようやく雲海に届くらしい。
けれど、魔物は船に興味を持ったらしく、それを無視してしつこく併走してくる。
「大丈夫ですか?」
と、ソロンも近づいて声をかける。同時に刀を抜いて、魔法の準備をしておく。
兵士はどこか緊張した面持ちでこちらを見返した。
「ああ、あなたは……。ええ、大した相手ではないのですが……」
そう言いながらも、彼は魔物の頭を長槍でつついた。ガチ、ガチといかにも硬そうな音が鳴る。あまり効果がないようだ。
魔物は鬱陶しそうにしていたが、体をくるりと反転させて船から距離を取った。逃げるのかと思いきや――
「ぐっ、こいつ!」
勢いよく加速して、船体へと頭をぶつけてきた。ゴツンと鈍い音が響くと同時に、水飛沫が弾ける。
大した衝撃ではない。何度ぶつけられたところで、船が沈むことはないはずだ。
とはいえ、放置しているわけにもいかない。船が傷だらけになっては、グラットが泣くだろう。
「僕に任せて」
ソロンは刀を魔物に向けて、小さな火球を放った。
火球を受けた魔物は驚いたようにのけぞり、そのまま頭を転じて逃げ去っていった。
「どうもありがとうございます」
兵士は遥か歳下のソロンに対しても、律儀に礼をしてくれた。もしや、イドリス王弟としての威光が、こんなところでも通じているのだろうか。
そんな、礼儀正しい兵士に対して質問してみることにする。
「やっぱり、この辺りは魔物が出るんですね」
「そうですね。帝国本島からは随分と離れていますから。この辺りからはもう、魔物の世界と思ったほうがいいかもしれません」
人里から離れるほどに魔物の数は増える。兵士はそのことを言っているのだろう。
兵士は位置を変えて、引き続き見張りに戻っていった。
「おう、ご苦労さんだったな」
騒ぎを聞きつけて、グラットが寄ってきた。
「大した魔物じゃなかったけど、先が思いやられそうだね」
「そりゃしゃーない。冒険に魔物は付き物だし、傷がつくのは諦めてるぜ。万一、船が壊れても、お姫様とお国が補償してくれるそうだしな」
「なるほど、さすが抜け目ないな」
「任せとけ。まっ、船に傷がつかないに越したことはないから、その調子で頼むわ」
「ところで……」
と、ソロンは気になったことを聞いてみる。
「――なんか今の人、緊張してなかった? 意外とイドリス王家の威光が通じてるのかな」
イドリスの場合、住民と王族の距離は近い。少なくとも帝国の皇族よりは遥かに身近だろう。そう考えて見れば、あまりない経験である。
「んなわけねえだろ、そりゃイドリス王家じゃなくて、上帝陛下の威光だ。お前はお姫様のお気に入りだからな。機嫌損ねたら首飛ぶって思われてんだよ」
身もフタもなくグラットに指摘されてしまった。
*
「船長、島が見えました!」
見張り台で双眼鏡を構える兵士が叫んだ。
「おお、ご苦労さん!」
報告通りの方角に、段々と島影が見えてきた。人の手が入っていないらしく、緑豊かな島のようだ。
「――さて、どうするよお姫様? もう少し先の島まで行けないこともないが……」
さっそくグラットは、アルヴァに伺いを立てる。
「まだ少し明るいとはいえ、焦っても仕方ありません。次の島の発見に手間取った場合、夜間の航海を強いられる危険もあります。全船団、あの島で停泊としましょう。ただし、亜人の拠点になっている可能性も考えられますので、接近は慎重に」
アルヴァはあくまで慎重に船団を進めるつもりだった。
地図に島の位置が記載されているとはいえ、その精度は疑わしい。何より、実際に航海した経験がある帝国人はここにいないのだ。
亜人の気配がないことを確認したのち、船団は島に停泊することになった。
帝国から離れて、初めての夜が訪れた。
八隻の竜玉船は、島の沿岸に錨を降ろして停泊していたのだった。
既に帝国本島から遠く離れているため、灯台の光は存在しない。
船に明かりをつける方法もあったのだが、魔物の標的となるのを警戒して、点灯しなかった。
それでも、辺りは意外なほど明るかった。月は欠けていても、夜空に輝く星々の明かりが照らしていたからである。
「何も君まで見張りをする必要はないと思うけど……」
ソロンは甲板で見張りを続けるアルヴァに声をかけた。
髪も服装も黒いため、夜の闇に溶け込まんばかりである。ただ白い肌と紅の瞳だけが、浮き上がるように鮮明だった。
「そうはいきませんよ。皆、夜間は見張りに立っているのですから。私だけ例外では示しがつきません」
基本的に見張りは交代制である。船に積まれた時計に沿って、正確に交代時刻が決められていた。
「分かったよ。でも、寒さに気をつけて、あんまり無理しないでね」
冬に旅する北の雲海は、夜になってますます寒さを厳しくしていた。
「全く、心配症ですね。仮眠は日中にでも取りますよ」
アルヴァはそう答えた後で、ミスティンに視線を向けた。ミスティンは島の方角を、ジッと観察していたのだった。
「ミスティン、何か怪しいものでもありましたか?」
「う~ん、色々いるけど、暗くてよく分かんないな。でも、色々いるよ。ほらほら」
ミスティンが指差した先をよく見れば、確かに動くものの影があった。
恐らくは夜行性の獣や魔物だろう。遠く離れていても、星の光を遮る影が浜辺をうろつき回っているのだ。
生物が船に近づいてくる気配はないものの、警戒が必要なのは明らかだった。
「確かに色々だなあ。意外とにぎやかだしね」
島は夜であっても、動物の鳴き声で忙しい。静寂は決して訪れそうになかった。
「上陸しないのは正解でしたね。人が立ち入らない島というのは、恐ろしいものです。今後もこういった島ばかりでしょうから、気をつけねばなりませんね」
*
大雲海に漕ぎ出してから三度の夜が過ぎた。
日中に航海し、夜間は島に停泊する。今のところ、大きな問題もなく航海は順調に進んでいた。
「順風満帆だな」
これにはグラット船長も満足そうだった。
「グラット。これ帆船じゃないよ?」
と、ミスティンが首を傾げる。
「……例えに決まってるだろ。だから、揚げ足取りはよせって」
ともあれ、航海は日中だけの上、未知の雲域を船団で移動しているという事情もある。帝国内での航海と比較すれば、ゆったりしたものだった。
もっとも、それでも既に航海した距離は相当なものになっていた。なんせ、竜玉船というものは馬車の倍以上も速いのだから。
その日、船長室に主要な乗員が集められた。
ドーマ側からの提案で、これからの方針について話し合うらしい。『主要な乗員』かは微妙なところだが、ソロンもアルヴァと共に参加することになった。
「そろそろガンドラ雲海域に入ります。つきましては、この辺りで一度、説明をしたいと考えています」
メリューの意を受けてか、ラーソンが話を切り出した。
同時にメリューがサッと地図を広げる。帝国の地図にも載っていない北方の大雲海の地図だ。
地図の南側には帝国本島らしき地形がある。島の北にある細長い横線は大防壁を意味しているのだろう。こうして地図で見せられると、改めてその巨大さを思い知らされる。
そして、大防壁の遠く北に灰色の障害物らしきものが書き込まれていた。メリューが指差しているので、どうやらこれがガンドラ雲海域らしい。
「あれ?」
そこでソロンはおかしなことに気づいた。
ガンドラ雲海域からさらに北西に行けば、ポツリポツリと浮かぶ島の数々がある。
しかし、帝国本島のように大きな島は、一つも見当たらなかったのだ。
ドーマの本土はどこにあるのだろうか?
まさかこの地図にも収まらない程、遠方に存在するのだろうか。だとすれば、想像以上に大変な旅になる。
手がかりを求めて目をやるが、地図には見知らぬ文字が細々と書き込まれているばかり。
帝国やイドリスの文字とはかけ離れた未知の文字であり、ソロンにとっては意味不明な記号でしかなかった。
ソロンがそう考えていたら、
「ん」
と、メリューが地図の一点を指差した。