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雲海のオデッセイ  作者: 砂川赳
第六章 果てしなき大雲海
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大防壁の向こうへ

 八隻となった船団は遥か北に向かって、カンタニアの港を出発した。

 いよいよ、ここからは通常の航路を外れることになる。今までの安全な旅とは違って、気を引き締めねばならない。


 そうやって気を張っていたソロンだったが、メリューに肩を叩かれた。

 同時にドーマ語で何か声をかけられる。小さな見た目のわりに、相変わらず余裕に満ちた顔つきである。


「なんて言ってるんですか?」


 隣にいたラーソンに聞いてみる。


「航路は我々が把握しているので、しばらくはそんなに気を張らなくても大丈夫だ。……と、まあそんな感じです」

「お気遣いありがとう。……でも、『しばらくは』ってことは?」

「はい。もっと北に行けば獣王軍の妨害も考えられます。気を張るのはそこからですね」

「そういうことですか……。薄々分かってましたが、やっぱり安全な航海とは行かないんですね」

「ええ、すみませんね」


 さほど申し訳なさそうではなかったが、ラーソンは謝ってみせた。


「まあ、敵が出てきた時は任せてよ。精一杯戦うから」


 と、メリューを安心させるように言ってみせた。すぐにラーソンが通訳してくれる。

 もっとも、メリューの面持ちに不安の陰は見られなかった。


 *


 左手の陸地を眺めていれば、大きなコンクリート造りの壁が見えてきた。

 北の雲海から迫る亜人の襲来を、防ぐべく造られた長大な防壁。

 これが帝国に名高い大防壁だった。

 先日はカンタニアまでしか行かなかったため、ソロンが実際に見るのは初めてである。


 本来なら大防壁のすぐ北側には、雲岸線が続いているはずだった。しかしながら、壁に(さえぎ)られて雲海は見えない。

 ソロンが左側へと目をやっても、壁はどこまでも西へと続くばかり。見渡しのよい平原地帯であるはずなのに、その終わりが見えないのだ。


「とてつもない壁だなあ……。こんな巨大な物を人が造ったなんて信じられないよ」


 ソロンはもう、ただただ圧倒されるばかり。先日の運河を見た時と同じような感想を漏らす。

 自然の驚異に圧倒されることは数あれど、帝国ではそれだけに留まらない。人工の建造物にも圧倒されるばかりである。


「ふむ。あなたにもこの雄大さが分かりますか。この大防壁こそが、帝国市民の血と汗と涙の結晶なのです。そもそもこの大防壁の建造が開始されたのは、今から(さかのぼ)ること十六年前……。サウザード歴では八二一年のことになります」


 ソロンの感想を耳にしたアルヴァは、話したくて仕方がないというように語り出した。


「そ……そうなんだ」


 長くなりそうだな――と思いながらも、とても(さえぎ)れる雰囲気ではない。

 ……というか、遮ったら確実に機嫌を悪くする。

 大防壁についての基本的な知識は持っているが、ここは大人しく相槌を打つことにした。


「帝国本島に亜人の姿が見えるようになったのは、今からおおよそ一三〇年前……。サウザード歴では六八〇年の頃だといわれています。三国に分かれていた帝国が統一を果たしてから、まださほどの年月が経っていない頃です」


 ……これはいけない。話がさらに百年以上も(さかのぼ)った。

 ふと顔色を(うかが)ってみれば、アルヴァは優しい微笑を浮かべていた。

 教え子にこれから指導しようとする教師のような微笑――生徒が従順に授業を受けてくれることを微塵(みじん)も疑っていない顔だ。


「へえ、そんな昔から来てたんだ」


 これはいよいよ長くなるかもしれない――と、覚悟を決める。


「その当時――この一帯は帝国領ではありませんでした。カンタニア公国として独自に栄えていたのです」

「この島全部が帝国ってわけじゃなかったんだね」

「そう、当時はそうでした。カンタニア公国は帝国の友好国として、長年の関係を維持していました。長い三国時代の間も中立を保ち、敵を作らなかったのは公国の外交努力が成せるものでしょう」

「…………」


 無言で相槌を打って、先をうながす。


「カンタニアにとって、北の雲海は今以上に未知の領域でした。当時の技術からすれば、あまりに陸地が離れていたため、航海することも考えられませんでした。それこそ、世界の果てだと思われていた――そう言っても過言ではありません」

「世界の果てかあ……」


 いつか下界で交わした会話を思い出した。

 ソロンは下界を(むしば)む呪海こそが、世界の果てだと思っている。

 しかし、当時の上界人からすれば、終わりも知れない北の雲海こそが世界の果てだったのだろう。

 いや……今の帝国人から見ても、北は得体の知れない果てなのだ。


「そんな公国へ突如、北の雲海から流れ着いた者がいました。獣に近い姿を持ってはいるが、言葉らしきものを発する者達。つまり亜人です。それが史上における帝国人とドーマ人との邂逅(かいこう)だったのです」

「ということは、こっちには元々、亜人がいなかったってことかな?」

「いいえ、少数ではあったものの存在していたようです。その多くは奴隷などの低い身分でしたし、話す言語も帝国語でした。恐らくは古い時代に、下界から訪れた者達でしょう」

「なるほど……」


 下界のイドリスに行けば、亜人は辺り前のように存在する。上界へ渡ったのは、それと同じ系譜を持つ者達だろう。もっとも、あまり良い待遇は得られなかったらしいが。


「最初、ドーマの亜人は少数だったので、住人と争いになることもありませんでした。姿形(すがたかたち)こそ奇異でしたが、それでも公国の住民から見れば、彼らは難民としか映らなかったのです。保護しようとする者はいても、脅威だとみなす者はいませんでした」


 長い話を退屈だと感じる思いも確かにある。

 それでも、綺麗な声で淀みなく話してくれるお陰か、聞いていて心地よいものがあった。


「――ところが、流れ着く亜人の数は日増しに増えていきました。多くの亜人を積んだ帆船が、住民に目撃されるようになり、やがて彼らは自らの町を築くようになったのです。住民との(いさか)いが頻発し、人間と亜人との仲は急速に悪化しました。ついには戦争といってもよい規模に発展したのです」

「今のカンタニアの北にも、昔は町があったんだよね」

「その通り、よく勉強していますね。当時はカンタニアの北にも、公国の治める町が点在していました。亜人の襲撃によって、そういった町が失われていったのです。そして――」


 と、アルヴァは一拍を置いた。


「――カンタニア公国は、ついに亜人の襲撃に耐え切れなくなりました。国家元首であった大公は死に、その息子はあまりにも幼かった。今や公国の命運は風前の(ともしび)も同然……。残った者達は決断を下したのです。ネブラシア帝国の傘下に下ることを引き換えに、防衛も(ゆだ)ねようと」

「国家の滅亡か……。それで、この辺りも帝国の領土になったんだね」


 他人事(ひとごと)ではない。イドリスにしても、ラグナイ王国との戦いに敗れれば、そうなっていた可能性もあったのだ。

 そして、その戦いは今も終わったわけではない。


「はい。帝国にしても、不要に領土の拡張を望んでいたわけではありません。けれど、北方の情勢を無視していれば、亜人の脅威が帝国に迫ることは明白でした。帝国は公国の要請を受けざるを得ず、そこにカンタニア州が誕生したのです」



 話をしているうちに、大防壁が間近に見える距離まで近づいてきた。

 大防壁の上には、一定の間隔を空けて兵士達が立っていた。

 彼らが北から迫るドーマの軍勢を見張っているのだ。そして、時には命を懸けて、ドーマ軍と戦うのも兵士達の役目だった。

 高い防壁の上からは、こちらの船団もよく見えたのだろう。兵士達の中にはこちらに向かって敬礼してくれる者もいた。姿勢の良いその姿は離れた船上からもよく見えた。


 アルヴァも話を中断し、甲板の目立つ位置から優雅に手を振って応えた。

 ドーマの亜人と果敢に戦った彼女は、北方では生ける英雄なのだ。彼らも今回の遠征に、期待をしてくれているのかもしれない。



「話を戻しますが……」

 と、アルヴァはやはり話を終える気はなかったらしい。

「――カンタニアを併合した帝国と、亜人との戦いは延々と続きました。苦戦することはあっても、敵は数千人といった小勢力……。カンタニアより北で敵を押し留めることに、歴代の皇帝も成功してきました。しかし、一度は撃破しても、また次が来る。戦いに終わりは見えなかったのです」

「それで、大防壁ってわけだね」


 ようやく話を開始地点に戻せそうだ。ここまで来ればあと一息に違いない。


「そうです。十六年前の時の皇帝――私の父オライバル帝が、大防壁の建造を決意したのです。国家的大事業の末、十年の歳月をかけて大防壁は完成しました」


 その話を口にするアルヴァは、いかにも誇らしげだった。父の偉業を心から尊敬しているのだろう。


「だけど、たくさん人とお金がかかったんだろうね。イドリスだと、それこそ全市民を動員しても無理かもなあ」


 ソロンの感想に、アルヴァは眉をひそめた。

 しまった――と思ったが、時すでに遅し。大防壁を浪費と呼ばわるのは、ミスティンに禁句と忠告された通りである。


「ふむ……。確かに、議員の中には『帝国三大浪費』などと揶揄(やゆ)する者もいました。ですが、大防壁が完成して六年――今や効果は歴然としています。壁ができる以前は、市民に被害が出てから後追いで軍が出動することが多かったのですが……。今では大防壁という水際で察知できるようになりました。費やした資金にしても、(つゆ)と消えたわけではありません。十年の公共事業によって、北方の経済は大いに(うるお)い、結果的にそれがまた防衛力を高めたのです」


 やはり『お金がかかった』と言われたことが、気に障ったらしい。けれど、ムキになって父の擁護をまくし立てる姿にこそ、ソロンは共感を覚えた。


「お父さんのこと、尊敬してるんだね。僕の父さんも苦労してたから、何となく分かるよ」


 父が、ラグナイとの対立に神経を()り減らしていたことを思い出す。イドリスという小国を統治し、大国と渡り合う――それがどれだけ大変なことだったろうか。

 そんな気持ちが通じたのか、アルヴァは幾分表情を和らげて。


「……そうですね。親子として接する機会は、一般的な家庭よりも乏しかったと思いますが……。けれど、お父様は皇帝としての背中を私に見せてくださいました。数年の間ですが、皇帝秘書官として共に働けたことは私の財産です」


 彼女が父から受け継いだもの――皇帝の地位は追われても、それは彼女から失われていないようだった。

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