北の都にて
休憩は終わり、一同は船へと引き返すことになった。
船へと戻る途中でも、エヴァートは忙しく将校へと説明をしていた。
「グロムから南部の諸侯に、協力するよう伝令を送った。カンタニア軍と共に南北から挟み撃つ予定だ。我々の行動は変わらない。グロムのそばを迂回し、予定通りカンタニアへ入る」
「陛下――」
と、口を挟んだのはそこに混ざっていたアルヴァだった。
多くの将校は、皇帝を相手にして腰が引けているらしい。そんな中で彼女の存在は異質だった。
「――進路上で亜人の船と遭遇する可能性も考えられます。その際はどうされますか?」
エヴァートは「ああ」と頷いて。
「戦闘は回避だ。知っての通り、この船団は雲海での戦闘を想定したものではない。全くの無防備ではないが、敵が大勢で攻めてくるならば不利は避けられないだろう。あくまで目的はカンタニアへの到達だ。そのためにも皆、警戒は怠らないでくれよ」
「承知しました」
と、アルヴァは頷いて、ソロンの元に戻ってきた。
「ドーマはしかけてくるかな?」
この先の見通しをアルヴァに尋ねてみた。場合によっては、いつでも戦える覚悟をせねばならない。
「さあて、どうでしょう? 少なくとも、ドーマが雲海へ大軍を放つ可能性は低いと踏んでいます。元々、カンタニアの軍と対峙するために、グロムを占拠したのでしょうからね。そのグロムを、無防備にする事態は避けるでしょう」
*
船旅が再開されて、二日が過ぎた。
日中には、目的地のカンタニアへ到達できる予定だった。異変はあったものの、航海そのものは順調といえそうだ。
もっとも、今日はその前に留意すべきことがある。
船団はこれから、グロムの近くへと差しかかるのだ。この雲域では亜人の襲撃を受ける可能性もあるため、慎重にならざるを得なかった。
左舷の船べりに手をかけながら、ソロンも雲海を眺めていた。
警戒のため、船は陸地と距離を取っている。それでも、視力に優れた亜人ならば、陸地からこちらを発見できるかもしれない。
やがてそこに壁が見えてきた。グロムの町を囲む外壁である。
町は外壁の向こう側にあるため、ここから分かる情報は限られる。ただ、火の手が上がっているような様子はない。既に鎮火したのか、あるいは火を使わずに占拠されたのかもしれない。
壁から離れた沿岸には、大量の竜玉船が停泊している。ただし、帝国の船とは形状が異なり、船体の色も赤い。恐らくは亜人のものだろう。
沿岸から離れたグロムを落とすため、亜人は船を乗り捨てたのかもしれない。
いずれにせよ数里にも渡って離れているため、それ以上の様子は窺い知れなかった。
周辺にいる水兵ならぬ雲兵達が、双眼鏡を構えてジッと観察していた。あれならば様子は分かるだろうか。
「何か分かることは?」
末端の雲兵に声をかけたのは、皇帝エヴァートである。こんなところでも、彼は気さくな人柄を発揮しているようだ。
雲兵は恐縮していたが、それでも。
「はっ……。町の様子はここからでは何も。ただ、あちらの船のそばには見張りの亜人もいるようです」
報告を受けたエヴァートは、自らも双眼鏡を覗き込む。
「あれが敵の船だな。数は分かるか?」
「はっ、確認できるだけで五十隻はあるようです」
「そうか……。敵の人数は三千を超えると考えたほうがよさそうだな」
「陛下」
背後から皇帝に声をかけたのは、アルヴァである。
「――全てが戦闘員とは限りませんよ。こちらと違って、彼らは現地での補給が困難ですから。それなりの補給要員を用意しているはずです。過去の侵略でもそうでした」
「ふむ、亜人とはいえ、その辺りは人間と同じなのだな。しかし、この距離では戦闘員かどうかの区別もできないが……」
双眼鏡から目を離さずに、エヴァートは従妹へと答えた。
「ええ、見極めていくしかありませんね。見た目には分かりませんが、女も確実に混ざっているはずです。彼らにしても、世話をする要員は必要でしょうから」
アルヴァは自らの経験を存分に発揮し、皇帝へ助言を行っていた。
*
幸いにも、雲海上で亜人の襲撃を受けることはなかった。
合計二日半をかけた船旅の末、船団はカンタニアの港へ到達した。
北の都カンタニア。
帝国における最北の町でもある。ドーマ人の襲撃によって、ここより北の町村は放棄せざるを得なかったのだ。
カンタニアはその厳しい外壁から、城塞都市などとも呼ばれている。コンクリート製の頑強な港には、軍の施設も目立っていた。
もちろん、港町としても申し分ない。港には既に多くの軍船の影がある。そこに船団の十二隻を追加しても、まだ余裕がありそうだった。
商魂たくましいことに、港には商船の姿も見られた。今は戦時中のはずであるが、それだけに物資の需要も多い。ここぞとばかり、軍を相手に商売をしているのだろう。
小舟に乗った水先案内人が、軍船の誘導に駆け回っていた。
「雪はまだ降っていないようですね。もう少しすれば、積もる季節になるはずですが……」
甲板から見える町を眺めながら、アルヴァがそんな感想を述べた。
「そっか、この辺は雪が降るんだ!」
ソロンはハッとして、アルヴァを見た。
「雪かあ……。私も子供の頃に見たきりだなあ。下界には雪降らないの?」
と、そんなソロンにミスティンが尋ねてくる。アルヴァも興味を持ったらしく、こちらへと視線を向けてきた。
「下界にも降るけど、イドリスには滅多に降らないよ。少なくとも僕は、生まれてから見たことない」
以前、雪が降った時は今から何十年も前だという。相当に希少な現象なのは確かだ。
「イドリスは帝都から見ても随分と南ですからね。王国内から北に向かっても、降らないのですか?」
「そもそも王都より北だと、国内にはほとんど町がないからね。知っての通り、北のラグナイとは仲良くないし、交易で北に向かう人も稀だよ。だから雪を見たって人もほとんどない」
「そっか、見れたらいいね、雪。私も久しぶりに見たいなあ……」
空を仰いでミスティンが言った。
しかし、見上げた昼空は季節の割に晴朗で、雪が降る気配は微塵もなかった。
「ミスティンには悪いけれど、それは困ります。ただでさえ糧食に不足する季節だというのに、大雪の中では行軍もままなりませんから。天候が変わらないうちに、決着がつけばよいのですけれど……」
「アルヴァが困るなら仕方ないなあ。我慢するよ、雪」
と、ミスティンはあっさりと撤回した。
「我慢するって……君が天気を決めるわけじゃないでしょ。……それにしても、ドーマの連中も迷惑な季節にやってきたもんだな。亜人だから寒さも平気なんだろうけどさ」
亜人の中には体毛で体を覆う種族が数多くある。そういった者達は、人間よりも遥かに寒さへの適性が強かった。
「爬虫類の亜人など、寒さへの耐性がない種族もいますよ。それに彼らにしても、冬場は糧食に苦労するという点は変わりないはずです」
「それじゃ、冬眠前にエサを求めてやって来たのかもね。ドーマがどこにあるか知らないけど、ここより寒いだろうし」
動物の生態に詳しいミスティンが見解を述べた。
「いやいや、動物と亜人は違うでしょ。僕の知る限り、亜人は冬眠しないよ」
動物が冬眠する理由は、冬の寒さと食糧不足に耐え抜くためである。
……が、しかし、今のイドリスでは爬虫類の亜人も服を着込んだり、火を起こしたりして寒さに耐えている。クマの亜人だって、冬でも収穫できる野菜を栽培して、食糧不足を乗り越えているのだ。
「ですが、考え方としては悪くないと思いますよ。彼らの生態には詳しくありませんが、冬の食料が目的という理由は大いにありえます。人間同士の戦争でも、普遍的な理由ですからね」
アルヴァはミスティンの見解にも一定の理解を示した。
それから、アルヴァは港へと視線をやる。話し込んでいるうちに船が停泊したのだ。
「――さて、行きましょうか。お兄様に置いていかれないように」
*
カンタニア市は、北方の帝国軍を統括する拠点でもある。
カンタニア城内に置かれた兵力は五千。周辺の砦と合わせれば勢力はおおよそ一万に達する。
かつてアルヴァが君臨していた時代と比較すれば、その軍勢は大きく増していた。
度重なる襲撃に、さしもの元老院も軍の配置を変えざるを得なかったのだ。これは罷免される以前から、アルヴァが再三要請していたことでもあった。
カンタニア港で出迎えた現地指揮官は、ゲノス将軍である。
ゲノスは、アルヴァやエヴァートから見れば父の世代に当たる年齢だ。壮年期を過ぎてなお、立派な黒ヒゲをたくわえた彼は若々しかった。
この将軍はアルヴァが北方に遠征した際にも、指揮官だった人物でもある。亜人との戦いは既に長く、帝国に轟く十将軍の中でも、指折りの武勇の持ち主だった。
「ゲノス将軍、迎えはいらないと伝えておいたはずだが――」
開口一番、やや不機嫌そうにエヴァートが言った。
ところが、ゲノス将軍はそれを遮って、
「それが陛下、大防壁が突破されました」
重々しい口調で報告をしたのだった。