北方の事変
サラネド共和国による襲撃を退けて以降、帝国は新皇帝の統治の下で小康状態を保っていた。
しかし、そのささやかな平和も長くは続かなかった。
帝国の最北を守る大防壁を、またもドーマ国の軍勢が襲ったのである。
亜人の国――ドーマ。
ネブラシアは広域を支配する帝国である。その領土はこの帝都より百里を超える北まで続いている。そして、ドーマはその最北よりも、さらなる北からやってくるのだ。
謎多きかの国と帝国は、百五十年にも渡って戦い続けていた。
そして、そのドーマに対する防衛を担うのが北方の帝国軍である。今回の襲撃においても、それは同じだった。
迎え撃った帝国軍は態勢の整わない中で、必死の抗戦を繰り広げた。その結果、辛くも襲撃を退けはしたが、戦いは断続的に続いているという。
紅玉帝たるアルヴァが君臨していた時代から、おおよそ半年ぶりの襲撃……。しかし今、アルヴァはその座を追放されていた。
その役目を引き受けるのは、皇帝エヴァートだ。
彼は慣れない軍を率いて、北方へと馳せ参じることになった。今は帝都で軍を編成しているところだという。
そして、その知らせは直ちにアルヴァまでもたらされた。
「私もお兄様に同行しようと考えています」
迷いのない意志を、アルヴァは瞳にたぎらせていた。
事態を知らせる手紙には、皇帝直々の印が押されていた。ソロンは詳しく内容を見ていないが、同行を求める内容だったのだろう。
「君が、どうしてまた? もう君は皇帝でもなんでもないんだよ」
思いのほか、否定的な口調になってしまった。既に帝位から身を引いたアルヴァが、なぜ戦地に身を投じねばならないのだろうか。
「それでも、北方の防衛は私がやり残したことですから。形はどうあれ、お父様から引き継いだ役目を私は放り出してしまった。だから――」
「僕もお供するよ」
ソロンは最後まで聞かなかった。
アルヴァの身を案じる気持ちは強くあった。けれど彼女が決断したのなら、ソロンはそれを否定できない。できるとすれば、ただ一緒に行って支えるだけだ。
「私はあくまでお兄様の相談役です。とはいえ、危険がないとは言い切れません。それでも、よろしいですか?」
「だったらなおさら、君の護衛が必要だな」
ソロンは頷いて意思を示した。
「カンタニアは行ったことないから、楽しみだね。お姉ちゃんから話を聞いただけだったから」
ミスティンも当然のように行くつもりらしい。
北方防衛の拠点カンタニア市――以前の戦いでアルヴァが向かった町である。今回の戦いでも、そこが拠点となるようだった。
「お兄様も早急に準備を進めているようです。出発は明日の昼過ぎ。我々もそれに同行する形となります。今夜はゆっくり眠ってください」
*
翌朝、ソロンは一旦アルヴァ達と別れ、イドリス大使館へと向かった。
北方へ出発する前に、故郷の仲間達へ説明せねばならなかったのだ。
傷みの目立つ古びた木製の建物。安宿を改修しただけあって、外観もまさしくそのままの印象だ。立派に新調された看板だけが、妙に目立っていた。
きしむ扉を開いて、ソロンは中へと足を踏み入れる。
こじんまりとした入口の広間が目に入った。広間の椅子には三人の人物が座っており、家族水入らずの談笑をしているようだった。
「朝帰りということは、贈り物はうまくいったようですね」
顔を合わせるなり、口にしたのは灰茶の髪の青年。
ソロンの旧友ナイゼルだった。
いつものように眼鏡を通して、ソロンの顔を見つめてくる。
「……その言い方は誤解を招くけど、まあ機嫌は直してもらえたよ」
「それはよかった。……ですが、坊っちゃんがここまで抜けているとは、さすがの私も思いませんでしたよ。アルヴァさんの誕生日にはいくらなんでも戻るはずだと、私も甘く見ていたのです。ところが、帰ってくるなり『忘れてた』などと宣う始末。ああ、なんと嘆かわしい……!」
ナイゼルは大袈裟な仕草で眼鏡を押さえた。
「……そこまで言うほどのことじゃないよね?」
「そこまで言うことだよ」
口を挟んだのは、ウサギの耳を生やした亜人の娘だった。
ナイゼルの姉にして、ガノンドと人兎の娘――カリーナである。
「おはよう、カリーナ。そろそろ、仕事にも慣れた?」
数ヶ月前、カリーナは実の父との奇跡の出会いを果たした。それ以来、彼女はナイゼルの発案もあって、大使館の仕事を手伝うことになったのだ。
それ以前には女給のような仕事から、冒険者家業まで幅広く働いていたらしい。その経験を活かして、掃除・洗濯から荷物の運搬まで仕事をこなしているようだ。
「話をごまかすんじゃないよ、坊っちゃん。お姫様がかわいそうじゃないか」
カリーナは長耳をピンと立て、赤目で鋭くにらんでくる。
彼女は元来、ざっくばらんな性格だったらしい。イドリス王国の王弟たるソロンにも遠慮がなかった。
……というか、ナイゼルの影響か、こちらからも坊っちゃん呼ばわりされている。
「いや、別に僕一人が来なくても――」
「甘い! あたしらも誕生日には挨拶へ行ったんだ。そしたら、お姫様ったらどこか落ち着きがなくてさ」
「ほほう、姉さん。よく見ていますね」
カリーナの洞察に、ナイゼルが感心する。
「もちろん、表向きは平静だったけどね。でもどこか元気なかったし、注意してたら分かるよ。きっと、あんたが来るのを待ってたんだ」
「そ、そうかな……」
ソロンは鵜呑みにしてよいものかと口ごもる。
「そうだよ、坊っちゃん。女心は繊細なんだ」
「カリーナや、その辺にしておいてやれ。こやつもまだ若い。女心を知るにはまだ早かろう」
助けに入ったのは、二人の父――ガノンド・オムダリア元公爵だった。
年齢は既に還暦を過ぎているが、まだまだ若々しい。
それでも、二人の子供とは歳が離れているのも事実。特に亜人のカリーナは実年齢よりも若く見えるため、祖父と言われたほうがしっくりきそうだった。
「さすが女遊びの経験豊富な人は違いますね」
ナイゼルが辛辣に言い放った。
「ぐぬっ……。父を敬え、ナイゼルよ」
「い、いや、それより今はそれどころじゃないんですよ。今日の昼には――」
ソロンはそこでようやく本題を口にした。
*
「ドーマの亜人か。まったく……。いつになっても、襲撃はやまぬのだな」
話を聞いたガノンドは、うんざりした口調だった。帝国北方への亜人の襲撃は、百五十年も前から断続的に行われているという。
「親父さんも若い頃に戦ったんだっけね?」
と、カリーナが話を振れば、ガノンドは嬉しそうに頷いた。
「うむ。あれは姫様の祖父――ベオカーク帝の御世じゃった。わしは公爵家の家督を継いだ者として、帝国のために戦いへ身を投じたのじゃ。群れる亜人達を前にして、わしは家宝の魔剣を振るった。その凄まじい戦い振りに敵は一人、また一人と倒れていく。人呼んで炎獄の公爵と――」
「ごめんなさい、先生。あまり時間がないんです。長くなりそうなので、また今度聞きますから」
「ぬう……絶対じゃぞ」
ガノンドは悲しそうに眉を歪めた。
「昔話なら後であたし達が聞いてあげるよ」
「カリーナはええ子じゃのう」
ガノンドは涙をぬぐう仕草をした。
「あたし達って――私は結構ですよ、姉さん」
「ナイゼルは憎たらしいのう」
ガノンドはにらんだが、ナイゼルはどこ吹く風でソロンを見る。
「それより、坊っちゃん。心配ではありますが、仕方ありませんね。いってらっしゃいませ」
「まっ、お姫様のためにがんばるってなら、あたしも応援するよ。誕生日を忘れてた分、しっかり守ってやんな」
ナイゼルとカリーナがそれぞれ声援を送ってくれる。
「はは……。ありがとう」
「けどドーマか……。母さんの故郷なんだよね」
カリーナが感慨深そうに口にする。
彼女の母は戦争の結果、捕虜として帝国に連行されてきたのだ。それがガノンドと出会った経緯でもあるという。
「そういうことになるね。どんな国なのかな? カリーナは何か聞いてない?」
ドーマという国は、多くの謎に包まれている。ソロンは興味本位で尋ねてみた。
「そうだねえ。人間がいない代わりに、色んな亜人がいるんだって」
「……まあ、そうだろうね」
「ごめん、あんまり役に立たないかも。母さんもあんまり話してくれなかったしさ。きっと故郷のことを話すのが、辛かったんじゃないかなあ」
「ふ~む、わしもオリドナの話をもっと聞いておけばよかったのう……」
ガノンドが亡き人兎の愛人を偲んでいた。
「う~ん、そっか……」
「ああでも、凄く北にあって、凄く寒いとは言ってたね。雪もたくさん降るんだってさ」
「雪!」
「ほう、雪ですか……!」
これにはソロンとナイゼルが食いついた。
なんせ、イドリスには滅多に雪が降らないのだ。
少なくとも、生まれてこの方ソロンの記憶にはない。数十年に一度は降るらしいが、積もるような大雪にはならない。市民にとって、雪は伝説も同然なのだ。
「雪ならドーマに行かずとも、北方に行けばいくらでも降っておる。今の季節なら、うまくいけば見られるかもしれんぞ」
「へえ、そうなんですか。あっ、でも、戦うには都合悪いかなあ」
ガノンドの言葉を受けて、ソロンは期待と心配で胸をふくらませるのだった。