恐怖の皇帝イカ
「元気?」
空色の瞳を向けて、金髪の娘は心配そうに尋ねてきた。
「ここ……入ってきても大丈夫なの?」
思わぬ訪問者にとまどいながら、ソロンは尋ね返した。
「頼んだら通してくれたよ。おじさん達だって、別に鬼じゃないみたい」
答えながら、娘はソロンのそばに座り込んだ。
「そうなんだ……」
重罪人になった気分でいたソロンだったが、実のところは単なるケチな密航者に過ぎない。そう考えれば、厳重に監禁する必要もないのだろう。
ぼんやりしていたソロンだったが、ふと思い出して、
「――あっ! さっきは助けてくれてありがとう」
目の前の娘に向かって、礼を述べた。
「別にいいよ。あんまり助けにならなかったみたいだし。……名前は?」
娘は恩に着せるでもなく淡々と言った。
それから、ソロンは一拍遅れて名前を尋ねられたことに気づく。
「僕はソロン。帝都を目指して旅してるところ。……まあ、ご覧の有様だけどね」
「私はミスティン。レスレダの生まれ」
「そっか、よろしく」
帝国の地名はさっぱり分からないが、適当に頷いておく。
「ほら、差し入れ」
ミスティンは、皿に乗せた肉をソロンへと差し出した。ソロンもありがたくそれを受け取った。
「助かったよ。このところ、あんまりまともなもの食べてないんだ」
故郷を出発する際は、最低限の食料しか持参しなかった。お金があれば、後で買えると考えていたからだ。もっとも、その考えは通貨の問題によって打ち砕かれたわけだが……。
仕方なく獣を狩ったり、野草を摘んだりして、飢えを凌ぐしかなかった。
さっそく、ソロンは肉にかじりついた。
少し冷めてはいるものの、塩みが利いていて歯ごたえも悪くない。感触は鶏肉に近いが、少し風味が違う気もする。
「これ、何の肉?」
「ウサギ。昨日、狩ってきたんだ」
「狩ったんだ……!?」
意外な返答にソロンは驚く。
彼女の背中をよく見れば、弓と矢筒が背負われていた。先程は必死で気づかなかったが、女には扱いの難しそうな立派な弓である。
「――あっ、狩人なんだ」
「そうそう。獣狩ったり、魔物狩ったり、まあ色々だよ」
狩人兼冒険者といったところだろうか。見た目より、相当にたくましい性格なのかもしれない。
「――それより、痛くない?」
と、ミスティンはソロンの頬へと手を差し伸べた。そこは先程、船員に殴られた箇所だった。
「大したことない。たかが無賃乗船で、そこまで強く殴らないよ」
心配させまいと、ソロンはあえて強がって見せたが、
「たかが――って、無賃乗船は犯罪だよ」
反対に叱られてしまった。
「そ、それは、ごめん……」
「でも、そのぐらいで済んでよかったね。時代が時代だったら、ソロンは雲海にポイ捨てされてたよ」
ミスティンは気軽な口調で、恐ろしいことを口にした。
「ポイ捨てって……。雲海から落ちたら、沈んでいくんだよね?」
「沈むんじゃなくて、落ちるんだよ。軽いものなら浮くけど、人間のような重い物は無理。雲海を突き抜けて下界まで真っ逆さま」
ミスティンは下を指差す仕草で質問に答えた。
考えただけでゾッとするような光景……。
雲海を突き抜けたソロンは、長い自由落下を経て下界の大地へと大激突……。家族や友人達にも見分けのつかぬ、変わり果てた姿となるに違いない。
そんな想像を断ち切ったのは、激しい揺れだった。
「わわっ!?」
と、座り込んでいたミスティンが倒れそうになる。
「うわっ!?」
ソロンもそれを慌てて支えようとするが、あえなく互いの頭をぶつけ合うはめになった。
「いたた……ソロン、大丈夫?」
ミスティンはソロンを助け起こし、頭を撫でた。子供扱いされているようで、少し恥ずかしい。
「平気だけど。竜玉船でもこんなに揺れることがあるんだね」
「う~ん。あんまりないと思うけどなあ……」
ミスティンは首をかしげて、不思議がっていたが。
突如、扉が強烈な勢いで開いた。壁に叩きつけられた扉が、騒がしく音を鳴らす。
鬼気迫る形相で駆け込んできたのは、船員の男だった。確か、ソロンをこの部屋に放り込んだ船員だ。
「おい、ここから出るぞ!」
「え、いいのかな? 僕は謹慎の身ですけど……」
意味が分からず、ソロンは当惑していたが、
「んなことはいいんだよ。魔物だよ。魔物! この船が襲われてんだ! 死にたくなかったらとっとと出な!」
船員は怒鳴りながら、返答した。
「雲海って、魔物が出るんだ……!?」
ソロンは驚きながらも、とりあえず立ち上がった。
雲海を泳ぐ生物がいることは、道中に観察していたため気づいてはいた。
もっとも、生物がいるなら、魔物もまた存在するのが自然の摂理。とはいえ、あの美しい雲海と魔物の存在が何となく結びつかなかったのだ。
「当たり前だろ! ほら、これ返してやるから、さっさとしろ!」
と、船員は鞘に収まったソロンの刀を返してくれた。
それから船員は、扉を開けて二人を手招きする。
「今、どうなってるの?」
船員の後ろに続きながら、ミスティンが尋ねた。
「振り切れないか船長が試してるが、期待はするな。危なくなったら、小舟で逃げてもらう」
つまり、彼らは船が破壊される可能性まで想定しているのだ。そして、ソロンが閉じ込められた部屋は、船底に近く逃げ場がない。それで、部屋を出ろという命令になったわけだ。
船員は階段のそばまで二人を連れていった。
階段を登れば、すぐそこが甲板である。今は魔物の対応に大忙しのはずだ。
「そこで大人しくしてろよ。いざという時が来たら、船長が指示を出す」
そう言うなり、船員は甲板へと登っていった。
周囲には大勢の乗客も集まっていた。船長はここなら安全で、かつ避難にも最適だと判断したのだろう。老若男女の乗客が、不安そうにざわめき合っている。
「どうする?」
ミスティンが視線をこちらに向けた。こんな状況にあっても、その表情は意外なほど落ち着き払っていた。
「その魔物っていうのが気になるんだけど……」
ソロンが甲板のほうを見上げながら答えれば、
「じゃ、行ってみよう」
ミスティンは悩みもせずに、階段へ足をかけた。
「いいのかな?」
「いいよ」
とまどうソロンを尻目に、ミスティンは軽やかに階段を駆け上がる。
ソロンも慌てて、彼女に続いた。
*
まばゆい日差しに照らされた甲板へと二人は上がった。
慣れないまぶしさに、ソロンの目がくらむ。
「魔物は……?」
目を慣らしながら、ソロンは魔物を探し求めた。
甲板には大勢の船員達が、緊張をあらわに集まっていた。皆それぞれの手に銛を握りしめている。海でも雲海でも、船乗りが頼りにする武器は同じらしい。
そして、彼らの視線は右舷後部の雲海へとそそがれている。
ソロンも追随して視線を向けたが、そこには白い雲海があるのみ。魔物の姿はとらえられなかった。
「あれ」
何かに気づいたミスティンが雲海を指差す。
注視すれば、そこには白い何かの姿があった。めまぐるしく流れる雲海にまぎれてはいるが、間違いなく何者かの姿がある。
三角形に尖った頭、何本にも分かれた足……。
「イカだ!」
ソロンはその正体に気づいた。
雲海の中に潜み、竜玉船に並走する巨大なイカ。全貌は窺い知れないが、下手をすればクジラよりも大きそうだ。
イカは頭を凧のように広げ、雲海の流れに乗っているかのようだ。
先程の揺れは、この魔物が船に体当たりをしたためだろう。その後も、逃げる船を執拗に追いかけているようだった。
「ありゃ、皇帝イカだな」
声をかけてきたのは茶髪の男だった。先程、ミスティンに続いてソロンをかばってくれた男である。
彼は船員でもないのに、なぜか甲板に立っていた。
その他にも、船員ではない男達の姿が何人かある。いずれもたくましい見た目で、腕に自信がある者達のようだ。もしかしたら、元から護衛として乗り込んでいたのかもしれない。
そんな中で、ソロンとミスティンだけが明らかに浮いていた。
「皇帝イカ? そんな名前なんだ」
帝国の国家元首は、王ではなく皇帝の称号で呼ばれるらしい。大きな魔物を表現するのにも、その称号を使うということなのだろう。
「で、何しに来たんだ、密航少年。死にたくなけりゃ、下に引っ込んだほうがいいぞ」
茶髪の男はソロンの背中を叩き、階下を指差した。
「ソロンって名前があるんだけど」
密航少年はないだろう――と、ソロンは口を尖らせる。
「そうかそうか、立派な名前だな。俺の名はグラット、雲海を駆ける大冒険者だ。覚えておいて損はないぜ」
茶髪の男はいかにも適当に相槌を打ったあと、自らも得意気に名乗り返した。真偽はともかく自称大冒険者――と、ソロンは頭の片隅に刻んでおいた。
「――つーわけで、ソロン。お前は引っ込んでな。嬢ちゃんもだ」
茶髪の男――改めグラットはしつこく階下を指差した。さらにはミスティンも同じように追い払おうとする。
「うるさいなあ。今、忙しいから黙ってて」
ミスティンは取り合わず、皇帝イカへと視線を集中させていた。
「おいおい……近頃の女は気が強くて敵わん」
困ったように、グラットは頭をかいていたが――
そうしている間にも、皇帝イカは竜玉船に追いつこうとしていた。
「振りきれないかっ!」
船橋に立っていた船長が、そばの操舵手に向かって叫ぶが、
「いえ、既に全速力を出しています! これ以上は――」
返事は望ましくなかった。
ソロンが見るに、竜玉船の速さは相当なものだ。海をゆく帆船と比較しても、数倍の速度はある。そんな竜玉船ですら振り切れないほどに、イカの動きは速かった。
「近くに島はないか!?」
地図を見ていた船員に、船長が呼びかけるが。
「いえ、どこも半時間はかかります!」
「くそっ、逃げられんか! こうなったら戦うぞ!」
そうして、ついには船長が命令を下した。
船員達も「おう!」と応じて銛を掲げる。
「あんたらも頼んだぞ! あれは、俺達だけじゃ手に負えねえ」
忙しく甲板を走りながら、船長は甲板にいた男達へと呼びかけた。
「任せてくれよ! その代わり報酬は弾んでくれよな!」
グラットが背中の槍を引き抜いて、それに応えた。
その他の男達も、意気揚々と各自の武器を手に取る。みな護衛として、報酬を稼ぐ狙いのようだ。
ならば――と、ソロンは船長に向かっておずおずと手を挙げた。
「あれ退治したら、船賃の代わりにしてもらっていいですか?」