過ぎ去りし誕生祭
海都イシュティールを騒がした事件から、数ヶ月が過ぎた。
アルヴァはひとまずイシュティールに落ち着いた。負傷して療養中の祖父に代わって、仕事を見事に取り仕切ってみせたのだ。
また一方では帝都に向かい、皇帝エヴァートの相談を受けていた。エヴァートも大いに彼女を頼りにしているそうだ。
そうしてアルヴァは、帝国での存在感を徐々に取り戻しつつあった。
ミスティンはアルヴァのそばを離れなかった。
友人兼護衛として、四六時中そばにいるらしい。相変わらず姉妹のように仲良くやっているようだ。もちろん歳上のミスティンのほうが妹である。
グラットは仲間達と離れて北に向かった。
アルヴァらの援助を受けた彼は、ついに自らの竜玉船を手に入れたのだ。今は交易の仕事を行いながら、新たな冒険の準備をしているという。
帝国の歴史に名を残す冒険家になる――そう宣言した彼の目は不敵に輝いていた。
そして――ソロンはといえば、祖国イドリスのために働いていた。
名目上は全権大使ではあるが、不慣れなのは否めない。事実上はナイゼルやガノンドの手伝いである。
ともあれ、上界と下界を行ったり来たりしながら、二つの国を結ぶ仕事をしていたのだ。
その一方で、帝国の元老院の議員の中にも、下界との交流を図る者もいた。
二つの世界の友好のため――というよりは単純に金銭的な利得を見出したからである。魔導金属を始めとしたイドリスの資源は、帝国人にとっても一定の魅力があったのだ。
元老院の議員はそれぞれが資産を持つ各地の有力者でもあった。得体の知れぬ下界の国を警戒する一方で、目ざとく投資の可能性を探り始めていた。
そういった互いの努力と損得勘定もあって、ネブラシアとイドリスは徐々に交流を深めていった。
上界と下界をつなぐ転送装置――界門までの道も急激に整備されていった。道は舗装され、道中の魔物の退治も進められていた。
王都イドリスを中心として、イドリス王国はかつてない繁栄の兆しを見せていた。
* * *
ソロンは皇帝エヴァートの別荘を訪れていた。
もっとも訪問の相手は別荘の持ち主ではない。普段のエヴァートは皇城に詰めているため、別荘に宿泊することは稀だったのだ。
ソロンの訪問の目的――それはこの館に滞在する彼女らに会うためである。
門番の兵士に名乗れば、館の中へあっさりと通してもらえた。
そして、迎えに現れたのは――
「わあっ、ソロン!」
走り寄って来たのはミスティンである。
後ろにくくった金髪がゆらゆらと揺れる。鮮やかな緑のドレスのせいで、少しだけ走りにくそうだ。以前に見た時よりもずっと着飾っていて、立派な貴族の令嬢といった出で立ちであった。
冒険者暮らしの長かったミスティンが、こういった格好をするのは奇異に思えた。とはいえ、今は彼女も皇帝の別荘に滞在する賓客なのだ。それ相応の品格が求められるのも当然だろう。
もっとも、変わったのは見た目だけで、行動に変わりはないらしい。
抱きつくように、ひっつくミスティンを軽く押しのけて、
「元気そうだね、ミスティン」
と、ソロンは声をかけた。
「元気だよ。でも、ソロンは来るのが遅い」
ミスティンは空色の瞳でソロンをジッと見据えた。
「そ、そうかな?」
「アルヴァも私もずっと待ってたのに……。先週が何の日だったか知ってる? ナイゼルに聞いたら、下界から戻って来てないって言うし」
「知ってるというか、それも用事の一つなんだけど……。その、ごめん……。僕なんかが気安く訪れてもいいのかなって……。ここって皇帝陛下の別荘だし……」
ソロンは歯切れ悪く答える。
ミスティンは、怪訝そうに瞳を細めて、
「イドリスの王子様がなに言ってるの? 謙虚も程々にしなよ」
と、呆れるように言った。
どことなく旗色が悪く、少しばかり気が重い。もっと、こまめに顔を出せばよかったと今更ながらに後悔する。
ミスティンに引っ張られるように、ソロンは館の奥へと進んだ。
皇帝の別荘とはいっても、館はさほど豪奢な造りではない。密会などへの使用も想定して、あえて目立たない建物を選んだそうだ。
もっとも、警備の兵士は十分にそろっていた。そこはさすがに権力者の別荘といったところだろう。
「ここだよ」
ミスティンは勝手知ったる躊躇のなさで扉を開いた。
緊張しながら、ソロンは部屋へと足を踏み入れる。
そこに彼女が立っていた。
艶やかな黒髪に、銀細工を散りばめた黒のドレス。
華美な服装を嫌う彼女の性格もあって、帝国の貴族としては質素な衣装である。それでも抜きん出た素材のよさもあって、他の誰にも見劣りしなかった。
「えっと……久しぶり」
ソロンは恐る恐る相手に声をかけた。
「ご無沙汰ですね。もう少し早く会いに来ていただけると、嬉しかったのですけれど」
出会い頭に、アルヴァはどこかトゲのある口調で言った。宝石のような紅の瞳を、射すくめるように向けてくる。
「いや、きっと君は忙しいんだろうな……って」
「そうでもありません。私の仕事はあくまで補佐ですから。お祖父様の補佐に、お兄様の補佐――私にとっては、大した負担ではありませんよ」
自信家らしい口調で、アルヴァは言い切ってみせた。
「……そっか、じゃあもっと早く会いに来ればよかったな」
「全くだよ。ソロンのアホ。薄情者」
と、ミスティンに頭を叩かれた。
一ヶ月会わなかっただけで、随分な言われようである。
もっとも、その前回会った時も彼女達からイドリス大使館まで会いに来てくれたわけで……。自分から行動していないのは、言い訳しようもなかったが。
予想していた通りであるが、やはり旗色が悪い。ここは流れを変えよう。
「えっと、これを渡したいんだけど……」
ソロンは包装された箱をアルヴァに向かって差し出した。
「何でしょうか?」
「誕生日の贈り物なんだけど……。あの、遅くなってごめん……」
今日は既に十一月の下旬、帝国では始皇の月と呼ばれている。
既にアルヴァの誕生日から一週間が過ぎていた。それがミスティンの口にしていた『先週』の意味である。
かつて当人から直接誕生日を聞いていたはずが、ソロンはすっかり忘れていたのだ。
気づいたのはつい先日――故郷イドリスへ里帰りし、帝国へ帰還する前のこと。
二つの国を行き交うには、二つの国に精通していなければならない。ソロンはそう考え、両国の暦表を常に携帯していた。
そこで帰還先の暦を確認しようと考えたソロンは、帝国の暦表へと目をやった。
そして、暦表に記されたとある祝日に気づいたのである。
――皇帝誕生祭。
ただし、現皇帝エヴァートの誕生日ではない。
通常、暦表とは年が始まる前に作られるものであり、その時点での皇帝は彼ではなかったからだ。
つまり、暦表に記されていたのは、前皇帝アルヴァネッサの誕生日であった。
気づいた時にはもはや手遅れ。その日は既に過ぎ去っていた。
さすがのソロンもまずいと気づき、慌ててイドリスで贈り物を選定してきたのである。
「開けてよいでしょうか?」
アルヴァは慎重な手つきで箱を受け取り、ソロンの目を見て尋ねた。
「もちろん」
ソロンが促せば、アルヴァが丁寧に包装を解く。中から現れたのは鞄だった。
「まあ……!」
アルヴァは控えめに声を上げ、目を見開いた。
「この前、濡れちゃったからさ。新しいのをと思って」
数ヶ月前、アルヴァの祖父ニバムを捜索するため、ソロン達はイシュテア海の孤島を訪れた。その際、鞄を浮き代わりにして、海の中を泳いで渡ったのだ。
「わあ、いいなあ……! でも、もうちょっとかわいいほうがよくない?」
ミスティンは羨ましげに声を上げながらも、空気を読まない発言をした。
鞄は藍色に染められており、柄などはない簡素なものだった。装飾性よりも機能性を重視するアルヴァの性格を、考慮したのである。
「そんなことはありません。私は気に入りましたよ」
アルヴァは大事そうに鞄を抱えた。
「君のことだから、あんまり派手なのは好きじゃないと思ってさ。かと言って、黒ばかりなのもあれだから、これぐらいが落としどころかなと」
「あなたなりに考えてくださったわけですか。……それにしても、作りがしっかりしているわりに、さほど重くありませんね。何の革でしょう?」
「あー、それが実は海ワニなんだ。色々考えたけど、これが一番いい革だったからさ」
「海ワニって、この前、倒したヤツ?」
ミスティンが驚くように、鞄へと目をやった。
数ヶ月前の探検で討伐した巨大な魔物は、海ワニの姿をしていたのだ。そしてそれは、アルヴァの母方の故郷イシュティールに被害を与えた魔物でもあった。
「種類としては似たようなものだけど、もちろん下界のヤツだよ。タンダ村の漁師が時々、海ワニを捕獲するんだって。……もしかして、嫌だった?」
「まさか。ありがとうございます」
アルヴァは強く首を横に振り、それからソロンに向かって微笑した。
どうやら機嫌は持ち直したらしい。それなりに痛い出費だったが、甲斐があったというものである。
「ふう……。悪かったよ。本当は、会いにいける機会は何度もあったんだ。だけど、気軽に行っていいか迷いがあって……。やっぱり君は、住む世界が違う人だからね」
住む世界が違うとは、上界と下界のことだけではない。
身分ある女性に用もなく会いに行く行為――それが世間からどう見られるか分からぬほど、ソロンも子供ではなかった。
「そんなのは取るに足らないことです。いつだって来てください。第一、私だって不安だったのですよ。一連の出来事が終わってみれば、あなたと私の縁も薄れてしまうわけですから。もしかしたら、もう会いに来てくれないのではないかと……」
鞄を胸に抱いたまま、アルヴァはしみじみと語った。
「下界に好きな子ができたのかも――とかね。二人で心配してたんだよ」
すかさずミスティンが口を挟む。
「ミスティン……!」
アルヴァは困った顔になるが、視線はソロンを見据えていた。こちらの反応を待っている目である。
「そ、そういうのは絶対ないから」
ソロンは慌てて否定し、それから続けた。
「――これからは、また用事を作って来るよ」
「用事がなくとも来てください」
「はい」
ぴしゃりと言われたので、思わず即答してしまった。