帆船を追え
森林を迂回しながら、海岸が見える場所まで足を運ぶ。
「ソロン、船!」
海を目にしたミスティンが叫んだ。
彼女が指差す方向を見れば――海に浮かぶ帆船の姿があった。船はソロン達を置き去りにして、海岸を発つところだった。
嫌な予感は的中。ダナムはソロン達を置き去りにして、島を離れようとしていた。
いかにマキモスを退けたところで、大海の孤島に置き去りにされては元も子もない。
「追いかけようっ!」
ソロンは足を止めずに振り返った。言われるまでもなく、二人とも付いてきてくれていた。
三人は浜辺へと足を踏み入れた。歩きやすいとはいえない地面を、砂を蹴りながら駆けていく。
そうしている間にも、ダナムの乗る帆船が岸を見る見る離れていく。入江を抜けて、海原に出ようというところだ。
随分と離れてしまったが、逃がすわけにはいかない。
「そこの舟を使ってくださいっ!」
遠く後方から船員の叫び声が聞こえた。何人かの男達が、様子を見るために付いてきていたらしい。
浜辺に置いたままの小舟が目に入った。
ソロン達が乗ってきた帆船に積まれていた上陸用の舟。船員達が島を脱出するための手段として、修繕してくれていたものだ。
「ありがとう! お借りしますっ!」
ソロンは前を向いたまま返事をした。振り返りはしない。何よりも、突き進むことこそが返事なのだ。
「おお! 頼みましたよ!」「頑張ってえー!」
船員達も精一杯の声援を送ってくれた。
彼らだって、島に取り残されるのは真っ平ごめんなのだ。ならば、その願いを無駄にはできない。
砂浜の上――波が届かない辺りに置かれている小舟。
それを走ったままの勢いで、ぶつかるように三人で押し始める。
「うんしょ、うんしょ」
と、ミスティンがかけ声を上げる。アルヴァも力仕事をいとわず、懸命に力を入れる。
小舟が砂の上を滑るように進み、やがて押し寄せる波の中へと入った。
ソロン達も波の中へと足を踏み入れる。靴と足が濡れるが気にしてはいられない。波を踏み分けて、小舟を押し続ける。
小舟が海面に浮かぶやいなや、三人はひらりとその上に飛び乗った。
押し出した勢いで、小舟は波にあらがってゆっくりと進み出す。
「先日を思い出しますね」
まさしく先日に経験した騒動の繰り返しだった。
しかし前回は雲海、今回は海である。
そして前回の相手はサラネド軍、今回の相手は単なる帆船の一つ。やってやれないはずはなかった。
だが遠ざかる船は、既に視界の中で小さくなっていた。
「遠いなあ……」
「勝負はこれからですよ!」
つぶやいたソロンを、アルヴァが叱咤してくれる。
ソロンとミスティンが櫂を握って、舟を漕ぎ出す。海水を力強く押して、舟の推進力へと変えていく。
ミスティンも表情は涼しいが、一生懸命に力を入れている。
舟は力強く加速していく。そして今や、入江を抜けようとしていた。
それでも――
「無理かも」
と、早々にミスティンが諦めるような発言をした。
二人とも必死で漕ぎ、帆船を追いかけている。しかし、帆船も十分な風に乗っているらしく、差が縮まらないのは明らかだった。
入江を抜ければ、舟は海原へと漕ぎ出てしまう。小さな舟には不釣り合いな大海原だった。
このままでは、三人とも大海原の中で遭難するだけである。ミスティンもそれを分かっていたから、冷静に発言したのだ。
努力は可能性に向かってこそ意味を成す。可能性がない努力を続けるのは、ただの無謀でしかなかった。
「ぐっ! ダメかぁ……」
ソロンは落胆して息を吐く。
そんなソロンの頭を、アルヴァが杖でコツンと叩いた。最近の彼女は、やっぱり行儀が悪かった。
「諦めるのは早いですよ! 手漕ぎが無理なら無理で結構。別の可能性を探るだけです。私に任せなさい」
紅玉の瞳は不敵な光を帯びていた。アルヴァはまだ諦めていなかったのだ。
小舟の上で踵を返した彼女は、船尾へとかがみ込んだ。
杖を後ろの海に向けて、精神を研ぎ澄ませているようだ。
杖先の魔石が水色に輝く。
それに呼応して水面に波紋が巻き起こった。
次に波紋は指向性を持ち、後ろに向かって広がっていく。後ろの海水を水の魔石で押し出して、反作用を起こそうというのだ。
水が噴出される音がして、船尾に川のような流れが生まれた。
たちまち、小舟が押し出されるように加速を始める。噴き出された水が、白い尾となって後ろに連なっていた。
「すごいすごい!」
ミスティンが目を丸くして拍手した。これにはアルヴァも得意気だ。
「初めてのことだったので、不安はありましたが……。うまくいきそうですね」
まるで急流を進むかのように、小舟は勢いを増して帆船へと追いかける。
櫂で漕いでいた時よりも、数倍の速力を出せている。これなら追いつくのもわけはない。
「しばらくは直進させますよ。もし方向が誤っていたら指示をください」
背中を向けたままアルヴァが言った。魔法に集中している間、彼女は舟の前方を確認できないのだ。
「了解。こっちは任せて! 敵が攻撃してきても、こっちで弾くから」
ソロンもその意を理解する。自分が彼女の目となり盾となるのだ。
* * *
「ダナム様、後ろから船が追いかけて来ております!」
兵士の報告を聞いて、ダナムは肝を冷やした。
「船だと……? バカを言え!」
今、自らが乗る船が島で使える唯一のものだ。他の船はマキモスに破壊させたはずである。何も追いかけて来れるはずなどなかった。
「いえ、それが……。双眼鏡で確認したところ、アルヴァネッサ様も船に乗ってらっしゃるようで……」
兵士はいまだにアルヴァへと敬意を払っていた。
あんな小娘は呼び捨てでよいというのに、生真面目なことだ。後で教育してやらねばならない。
「ふむ……?」
ともかくは冗談ではないらしい。ダナムは自分の目で確認することにした。
……が、船の後尾から目をやっても、何も見えない。
「――うん? 船などないではないか。貴様、何を見て――」
一瞬そう思ったが、よく目を凝らせば小さな何かがこちらを目指している。あまりにも小さくて目に入らなかったのだ。
「――はははっ! なんだ、何かと思えば、あんな小舟か!」
滑稽な光景に笑いが止まらない。
「――ははっはははっ! あっはっはははーあ! まさかあんなオモチャで俺に追いつくつもりかあ? あの小娘! 下界の空気に触れて、ついに頭がおかしくなったんじゃないのか!?」
兵士はまだ何か言いたそうにして。
「そ、それが……。着実に距離が縮まってきています。魔法か何かで加速しているのではないかと……」
「んぐあっ!?」
ダナムは驚きのあまり、開いた顎が落ちるかと思った。
* * *
ソロンは小舟の船首に立って、前方の帆船を注視していた。
風にゆれる赤髪と、振りかかる飛沫がわずらわしい。
彼我の距離はみるみる縮まってきている。いずれ追いつけるのは時間の問題だ。
……となると、問題は追いついてからの立ち回りだ。
帆船に多少の損傷を与えてでも、今は動きを止めることを優先すべきだろうか。
しかし、炎の魔法でその加減を行うのは難しい。炎は術者の意図を越えて、船体を大きく焼いてしまう可能性があった。
「帆を狙ってもいいかな?」
そう考えていたところに、ミスティンが提案をしてきた。
「帆か……。確かに船を止められるけど、それだと後で使えなくなるんじゃ?」
風力を推進力へと変換する帆は、帆船にとって最も重要な部品である。それを壊してしまえば、船は使えなくなるに等しい。
「構いません。帆は重要かつ軽量な部品です。予備が積んであるに違いありません。ただし帆柱まで破壊しないように」
ソロンの懸念に、後ろを向いたままのアルヴァが答えてくれた。
しかし、その彼女にしても船乗りでも何でもない。絶対の確信があるとは思えなかった。
「分かった。ソロン!」
それでもミスティンに迷いはなかった。アルヴァへの信頼がそこには窺われた。
ソロンが頷き、位置を交代する。
ミスティンが船首に立つと同時に、矢をつがえた。
不安定な足場に、しかと足を開いて屹立している。ソロンもその後ろに立って体を支えた。
弓柄を構成する風伯銀が緑の輝きを放ち出す。そこに魔力が集まっているのだ。あふれ出した魔力が風となって、金色の髪をそよがせている。
空色の瞳が鋭く目標をにらんで――
ビュンという風を切る音と共に矢が放たれた。ミスティンの背中を支えるソロンにも、強い反動が伝わってくる。
矢は芸術的な軌跡を描きながら、空へと駆け出す。
互いの船と舟が移動している上に、足場も不安定だ。それでもミスティンなら、帆のような大きな的を外しはしない。ソロンも、そしてきっとアルヴァも確信していた。
見事、帆に風穴が穿たれた。
まさしく風穴と呼ぶにふさわしいもので、矢に宿った風の力が帆をズタズタに斬り裂いた。
それでも船の帆は大きく、複数の帆布から構成されている。いまだ、多くの部分が残っていた。
それを確認するなりミスティンは、二の矢、三の矢を放った。
残った帆布にも同じように風穴が空けられていく。たったの三矢で、帆は甚大な被害を受けたのだった。
「うまいよ、ミスティン!」
ソロンは彼女と手を合わせ、音を鳴らした。
「――じゃあ、次は僕の番だな。向こうに乗り移るよ」
ソロンはそう言って、ミスティンと位置を交代した。再び、ソロンが船首に立った。
帆船は減速し、小舟との間隔がさらに縮まっていく。
その間、手短に作戦を打ち合わせて、三人は覚悟を固めた。