伯爵危機一発
「横に倒すんじゃないぞ。頼んだからな」
ゆらゆら動くタルの上で、ニバムは不安気だった。
「へいへい、分かってますよ。爺さん」
グラットはそれに軽く答える。
タルを押しながら泳ぎ続けるのは、もちろん彼の仕事だった。
「伯爵危機一発」
ラッコ状態のミスティンが、得意気な顔で親指を立てる。完全に面白がっている顔だ。
ちなみに『危機一発』という名称は、帝国で流行りの玩具にちなんでいるらしい。ソロンはよく知らないが、タルに収まった雲賊の人形が飛び出す玩具なのだそうだ。
「いや、面白いのは分かるけど……。伯爵に聞こえたら怒られるよ」
そう注意してみるが、ソロンにしても笑いをこらえねばならなかった。先日、怒鳴りつけられた印象があるだけに、今の姿との落差が激しい。
「ううむ……。しかしこれも、慣れれば意外と快適だな」
最後のほうには、なぜか伯爵もまんざらではない様子になっていた。
この伯爵――気難しいようで、意外と調子の良いところもあるようだ。孫娘のことが関わらなければ、案外気の良い老人なのかもしれない。
*
洞窟の対岸に渡って、荷物を無事に回収する。
そうして、水浸しの洞窟を抜ければ、既に空は夕闇へと沈もうとしていた。
夕凪の中で静かに波がさざめいている。海鳥も今は鳴りを潜めていた。
「今日はもう、この辺りで休むしかないかな」
続く岩の海岸線を眺めながら、ソロンが提案した。
あと数時間ほど歩けば、船に戻れるはずだ。だが、暗闇の中で不安定な足場を伝っていくのは無理があった。ニバムの体力を考えれば、これ以上無理をすべきではない。
「ああ、すまぬな……」
「どっちにしても、この暗さじゃ帰るのも一苦労っすからね。それじゃあ、下ろしますよ」
グラットが背中のニバムを気遣いながら、そっと下ろした。
「でも、この辺じゃあテントも張りづらいね」
周囲の岩場を見て、ミスティンが憂慮する。どこを見ても、平坦な箇所が見当たらないゴツゴツした岩場である。
「あの辺かなあ……。アルヴァの魔法でどうにかできない?」
崖際にある比較的に形の滑らかな岩場を、ソロンは指差した。それでも、とてもテントを張れるような地形ではなかったが……。
「やってみましょう」
アルヴァは杖を抜き放って、それに応えた。土魔法ならば、岩を砕いてならすこともできるらしかった。
*
アルヴァの尽力で土台が作られ、うまくテントを張り終えた。
そして、夜が来た。
順番が回ってきたので、ソロンは見張りへ出ることにした。
形の良い岩に腰を落ち着ける。少し欠けた月を照明にして、魔物の気配がないかを探ってみる。
もっとも、それほど警戒する必要はなさそうだ。さきほどから観察している限り、周囲には魔物の気配がない。
ゴツゴツした岩場は、大型の魔物にとっても動きにくい地形なのだろう。テントは崖側にあるため、背後を警戒する必要もなかった。
隣には、同じようにして岩に座るアルヴァの姿。頬杖をつきながらも、油断なく夜の海を眺めている。
彼女はソロンが見張りに出るよりも前――日が暮れる少し前から、数時間もそうやっていた。伯爵を除く全員が、交替で見張りへ出ることになっていたのだ。
見張りは二人体制としている。警戒のため慎重を期した――という事情もあるが、眠気覚ましのため話し相手を用意した意味もあった。
ともあれ、島の探索もこれで終わると考えれば、大した負担にはならないだろう。
二人の間に会話はない。けれど、気まずい雰囲気でもなかった。
長年の家族が成せるような、信頼し合える者同士の沈黙である。お互いに疲労もある中で、夜を騒がしくする必要もなかったのだ。
海へと向かって吹く風が、二人の髪を撫でる。真夏の夜にはちょうどよい、涼やかな風。
岩礁の海は、夜になっても激しく波打っている。とはいえ、規則的に繰り返す波音はどこか心地よく響いた。
「そろそろ、上がっていいんじゃない? 今日はたくさん泳いで疲れたでしょ」
沈黙を破ったソロンは、アルヴァへと交替を勧めた。
彼女は早い内から見張りをしていたので、休んでもよい頃合だった。早くに見張りを引き受けておけば、夜はずっと休める。そういった配慮も含んだ順番である。
「私は大丈夫。あなたこそ、今日はよく働いたでしょう。疲れてはいませんか?」
「疲れはしたけどね。まあでも、苦労が報われたわけだし、心地良い疲れってやつかな」
ソロンはテントのほうへ視線をやった。
中では伯爵が、他の二人と共に眠っているはずだ。彼の衰弱は激しいようだったが、これで少しは持ち直すだろうか。
「その……お祖父様のことを助けていただいて、ありがとうございます。うまくいったからよかったものの、危険な役目でしたから」
「別に感謝されることでもないけどなあ」
「ですが、あなたはあのような仕打ちを受けたのです。お祖父様のことを嫌うのも当然でしょう」
「そりゃ、ちょっとは苦手に思ったけどね。怒鳴られたりするのは好きじゃないし……。でも、アルヴァを大切にしてるのは分かったから」
それを聞いたアルヴァは「くすくす」と上品に笑って。
「やはり苦手だったのですね」
「う~ん、ちょっとだけ。……失言だったかなあ」
と、ソロンは頭をかく。
「別に構いませんよ。皆が皆を好きになれるわけではありません。特にあれは、どうみてもお祖父様に非がありますから。ソロンはあのような大人になってはなりませんよ」
「手厳しいなあ……。それ聞いたら、お祖父さん泣くんじゃない?」
「事実なので仕方ありません。孫娘として情けをかければ、普段はああも気難しくはないのです。人望だってそれなりにあるのですよ」
「やっぱり、僕のせい?」
「あなたのせいといえば、あなたのせいです。けれど、何の非もありませんよ。第一、男性と仲良くする度にヘソを曲げられては、私は誰とも仲良くなれませんので」
おどけるようにアルヴァは片目をつむった。
思わぬ仕草に、ソロンは軽くうろたえながら。
「それは、僕が下界人のせいかもしれないけど……。まあ、そっちはいいや。アルヴァはお祖父さんを労ってあげて。やっぱり、亡くなったみんなを気にしてたから……」
ソロンの脳裏に、難破船の中で見た遺体の数々が蘇ってくる。
自分にとっては赤の他人とはいえ、思い出せば心が痛む。ましてやニバムにとっては、長年の行動を共にした部下達なのだ。
「そうですね。まだしも、怒鳴る元気があればよいのですけれど……」
「だね。……っと、そろそろ女の子は寝る時間だよ」
子供をあやすような口振りで、ソロンは言った。
「生意気です」
アルヴァはソロンをにらんだが、すぐに表情をゆるめて、
「――……お休みなさい。あなたも無理しないように」
そう言って彼女はテントの中へと入っていった。
*
翌朝……。
「ソロン、起きてください」
テントの中で、ソロンはゆすられていた。
声の主はもちろんアルヴァである。
最も早くに見張りを交替した彼女は、最も早くに起きたらしい。そうでなくとも、普段から彼女は早起きだった。
「ふあぁ、おはよ~。アルヴァ」
ともあれ、冒険の中では幾度も繰り返した光景である。ソロンも慣れた口調で返事をした。
「んじゃ、俺は交替だな。あとちょっとだけ寝るから、片付ける時は言ってくれい」
ソロンが目覚めたのを確認するなり、グラットは岩場に倒れ込んだ。最後の見張り番をしていたため、眠気が蓄積していたのだろう。
ニバムは足をかばうような体勢で、上半身を起こしていた。今はゆったりと食事中である。昨日の夕方から睡眠を取っていたお陰か、顔色はよさそうだ。
「ミスティンも起きてください」
ぐっすりと眠っていたミスティンを、抱き起こすようにしてアルヴァが声をかけた。
「にぇむいよ~」
ミスティンはアルヴァに抱きつきながら、不明瞭な言葉でぼやいた。寝起きの悪いミスティンを、アルヴァが起こす姿は既に恒例行事となっている。
「船に戻れば、いくらでも眠れますから。頑張ってください」
「うい~」
よろよろとミスティンが起き上がった。
だらしなく見えるが、昨晩は彼女が最も半端な時間に起きていたのだ。今朝に関しては同情の余地があった。
ともあれ、目が冴えてきたソロンは、食事を取ろうと鞄に手を伸ばした。……が、そこですぐに気づいた。こんがりした匂いが、ソロンの鼻孔をくすぐってきたのだ。
「パンを焼いておきましたから、どうぞ」
と、アルヴァは程よく焼かれたパンを、二人へと差し出してきた。至れり尽くせりの手際のよさだ。
「わぁ、ありがとう」
「アルヴァはいいお嫁さんになりそうだね」
ソロンはミスティンと共に、パンにかぶりつきながら喜んだ。
「この程度で大袈裟ですね。ほら、水も汲んでおきましたよ」
アルヴァは続けて水筒を差し出してきた。
「いやいや、大袈裟じゃないよ。当たり前のようにやってもらえることが、どれだけありがたいか」
さっそく、ソロンは寝起きの乾いた喉をうるおす。
真夏であっても、早朝のよく冷えた新鮮な水。中身はすぐそこの海で汲み上げたものらしい。
海水とはいっても、もちろん塩水ではない。ソロンとしては妙な感覚だが、海水は淡水というのが帝国での常識だ。
そうやって水を味わうソロンを、アルヴァは穏やかな眼差しで見守っていた。
心安らぐ日常の風景である。
昨日、難破船で見た凄惨な光景が幻のように思えてくる。何気ない日常がどれだけ貴いかを実感させられた。
「ぷはぁ……。おいしいね。海水を飲むってのは妙な感じだけど――」
そこに凍りつくような視線を感じて、ソロンは口をつぐんだ。
「…………」
二人が気安く言葉を交わす様子を、ニバムが怖い顔でにらみつけていたのだ。ソロンは内心で冷や汗をかきながら、努めて気づかない振りをする。
それに気づかないミスティンは、パンと水筒を両手にして、
「うんうん。私が男だったら、絶対求婚してたね」
モゴモゴと口を動かしながら、どこかずれた内容でアルヴァを賞賛した。
ニバムは何かを言いたそうな顔で、「こほん」と咳払いした。それから、重々しく口を開いて、
「当然だ。アルヴァはイルファの娘だからな。あの子には、どこへ嫁入りしようとも恥じないだけの教育を施した。その血と教育を、アルヴァも受け継いでいるのだ」
誇らしげに口を挟んだ。……どうやら、孫娘が褒められること自体は、彼にとっても喜ばしいらしい。
「そ、そうですね……。本当ですね」
引きつった笑みを浮かべながら、ソロンもどうにか応じた。