難破船
しばしの休憩によって、どうにか体も乾いてきた。
まだ完全には乾いていないが、妥協してソロンはさっさと服を着込む。今は難破船の元へ急がねばならないのだ。
そうして、四人は水の洞窟を歩き出す。
靴は向こう岸に置いてきたため、全員が裸足になっていた。
ゴツゴツした岩の感触が足元に伝わってくる。硬い岩で足を切らないようにするため、あまり速くは歩けそうにない。
角を曲がればすぐに、向こう側から光が射してきた。
波の音が、少しずつ大きくなってくる。外が近づいているのだ。グラットの報告通り、ここが洞窟の出口に間違いなさそうだった。
洞窟を出た先には、見通しのよい海岸があった。
見覚えのある風景。船上から見た光景と、同じ場所なのは確かだった。
洞窟を抜けても、なおも岩場は続いている。波が岩に押し寄せては、飛沫を上げて砕けていた。
足場の悪い岩場を歩いて十分程度。ついに難破船が目に入った。
船の左舷は、岩礁に向かって倒れ込んでいる。そしてそちら側には穴が空いており、海水が入り込んでいた。
「お祖父様……」
アルヴァが悲痛な声を上げた。
間近で船の状態を見る限り、生存者がいるという希望は薄い。それは彼女の目にも明らかだった。
それでも、ここまで来た以上は引き返す選択はない。
四人は裸足で慎重に岩場を伝っていく。
近づけば近づくほど、酷い有様が否が応にも判明してくる。木材は至るところが激しく破られており、海竜に襲われた爪痕を思わせた。
やがて、船が乗り上げた岩礁のそばに四人は立った。
「僕が行く。みんなは周りを確認してくれないかな? もしかしたら、外に避難した人がいるかもしれないし」
ソロンは自ら役目を買って出た。
傾いた船内に大人数で踏み込めば、均衡が崩れてしまいかねない。ここは身軽な自分が、一人でゆくのが最適だと思ったのだ。
「気をつけてください」
アルヴァが心配そうにこちらを見て言った。
「大丈夫、さすがに魔物との戦いよりは安全だろうしね」
安心させるようにソロンは言った。
とはいっても、慣れないことで緊張は隠せなかった。それもそのはず、難破船の内部に入る機会など普通はないのだ。
「お守りです」
アルヴァはソロンの胸元へと手を伸ばし、蛍光石のブローチをまた取りつけてくれた。
*
波打つ岩場を飛び移りながら、船の左舷側を目指していく。
幸いにも、左舷は岩礁に倒れ込んで低くなっている。ソロンは難なく、甲板へと跳び乗った。
少し不安定ではあるが、左舷の手すりを始め、つかまるところはそこら中にある。無様に滑り落ちる心配はなさそうだ。
後ろを振り向けば、アルヴァ達がこちらを心配そうに見ている。
ミスティンが手を振ってくれたので、軽く振り返しておく。
まずは、船尾側に建つ船長室らしき部屋へと向かうことにした。
傷んだ船床がきしむ。
手をつきながら、歩くというより登るようにして甲板を進む。
甲板には様々な物が置いてあった。タルが転がり落ちてこないか心配になる。
ともあれ、大した距離はないので、すぐに船長室の扉に取りつけた。
扉を開けるなり、狭い室内が目に入ってくる。一目で全てが視界に入る程度の広さだ。
「あっ!?」
と、ソロンは声を上げた。倒れ伏す船長らしき男の姿が、目に入ったのだ。
胸元の蛍光石で船長を照らす――が、すぐにソロンは無言で首を振った。
頭から血を流す船長には、生気がなかった。近づかずとも、死んでいることが伝わった。
覚悟はしていたとはいえ、幸先が悪い。
気を取り直して、船長室を出る。近くにあった階段へと目をやった。
船内に向かう道は、どうやらここの一つしかないようだ。即決して向かうことにする。
暗い船内を蛍光石で照らしながら、階段へと足を踏み出した。
元々、急な階段のようだが、船が傾いているせいでさらに歩きづらくなっている。手すりに手をやりながら、慎重に降りていく。
キシキシと木の階段が、耳障りな音を鳴らした。
船体に遮られて、波の音が小さくなってゆく。
そうして、ソロンは船内へと降り立った。
船内からは、どこか不気味な印象を受けた。静かな波の音以外には、何の気配も感じられない。
空へ向かって傾く右舷側の丸窓から、日射しが差し込んでくる。蛍光石と合わせれば、どうにか視界は確保できそうだ。
予想していたことではあったが、左舷側には大きく海水が入り込んでいた。イシュテア海へとつながる海水は、この場でも濁りなく澄み切っている。
左に傾いた船内を、裸足で踏みしめながら歩く。滑らないように、体を右側へと傾けて均衡を取る。
大型の船とはいっても、城のように広いわけではない。端から端へ行くにも、十分あれば余裕のはずだ。
一刻を争うよりは、生存者がいないかを確認しながらゆっくり進むべきだろう。
「誰かいませんか!」
ソロンは声を上げて、人の気配のない船内へ呼びかけた。
……が、反応はなかった。
わずかに海水を通って、小さなカニや魚が入り込んでいる様子が見て取れた。
そして――次に見つかったのは、船員と兵士の遺体だった。
それも一つや二つではない。
海水に浸った遺体もあれば、積荷に潰されたらしい遺体もある。目立った外傷がないものは餓死だろうか……。
進めば進むほどに、ここは死の船ではないかという絶望的な気持ちになってくる。
いや――ともかく、ニバムはいなかったのだ。
まだ助けられる望みは残っている。
仮に助けられなかったとしても、ニバムの遺体を確認するのは自分の義務だ。嫌な仕事だからこそ、自分がやらなくてはならない。
船室がある区画に入ったため、通路が狭くなった。
木箱やタルといった積荷が、酷く散乱している。時にはそれらを押しのけて、通路を進んでいく。
時折、声を上げながら反応が戻ってくるのを待った。
その時――
「うぐ……ん……」
うめき声が聞こえた。
「誰かいるんですか!?」
ソロンは叫んだ。
「こ、ここだ……」
と、弱々しい男の声が聞こえてくる。
声のしたほうへと目をやれば、崩れた積荷が大量に重なっている光景が目に入った。
「今、助けます!」
ソロンは元気づけるように、男へと声をかけた。
それから、邪魔な積荷を一つずつのけていく。しかし、衝撃を与えて崩してはならないため、慎重な手つきで作業をする。
タルも木箱も重たいものばかり。水や食料も箱いっぱいに納めてしまえば、馬鹿にならない重量になるのだ。
ついには、男の上半身が見えた。
茶髪の年老いた男。いかめしい顔は苦痛に歪んでいる。蛍光石に照らされて、男の瞳が紅く輝いた。
「伯爵!」
知っている人物――イシュティール伯爵ニバムその人だ。
積荷の隙間を縫ってわずかに生まれた空間――そこでニバムは生存していたようだ。
このような惨状を呈した船内において、奇跡的な邂逅だった。
ニバムへの嫌な感情も今は忘れ、ソロンは彼へと顔を近づけた。
「う、おお……。お前は……」
ニバムもこちらに気づいたようだ。ぼんやりした目でこちらを見上げている。
しかし、彼の下半身はいまだ積荷によって、押しつぶされていた。身動きが取れない状況らしい。
「すぐにどけます!」
ソロンはさらに積荷を押しのけて、ニバムの下半身を圧力から開放した。
……が、ニバムはそれでも動けないようだった。どうやら足が折れているらしい。
それに彼は何日かに渡って、食事もできていないはずだ。相当に衰弱しているに違いなかった。
ミスティンを呼んで手当をするか、先にニバムを連れ出すことを優先するか……。
わずかに逡巡したが、すぐに答えを決めた。
ミスティンの回復魔法でも、さすがに骨折は直せない。彼女を危険にさらしてまでやる必要性は薄いだろう。
ならば一刻も早く、ニバムを船外へと連れ出すべきだ。
「つかまってください。アルヴァも待っていますから」
そう言いながら、ソロンはニバムへと背中を向けた。低くしゃがみこんで、足の折れたニバムがつかまれるように配慮する。
「う、ううむ……」
と、ニバムは渋る素振りを見せたが、それでもソロンの肩へとつかまった。どの道、それ以外の選択肢はなかったのだ。
「――ぐぬ……」
ソロンの首へと手を回したニバムだったが、その手を止めてうめき声を上げた。
「難しいでしょうか……?」
おずおずと、ソロンはニバムに尋ねた。背負われることも困難なほどに、体力を消耗しないかを危惧したのだ。
「……剣が邪魔なのだが」
「……ごめんなさい」
昔どこかでそんなやり取りをしたな――と、ソロンは思い出した。
ソロンは刀を背負ったまま、船内を探索していたのだ。武器と魔法がいつ必要になるか分からない以上、仕方のないことではあった。
「いや、わがままを言った。我慢してやろう」
……が、尊大ながらもニバムは承諾してくれた。刀を動かす必要はなさそうだ。
「ありがとうございます。じゃあ、行きます」
老境に入ってはいても、ニバムは武人のような体格だ。当然ながらソロンよりも重い。アルヴァの五割増しぐらいの重量はありそうだ。
「んぐっ……!」
と、足腰に力を入れて、その重量をこらえる。ニバムを背負った状態では、裸足の足元になおさらの重圧が加わる。
それでも、ソロンはしっかりと足を踏ん張った。ニバムの足を持って、体勢を安定させる。
「ぐおっ……!」
その時、ニバムがにぶい悲鳴を上げた。
「大丈夫ですか……?」
「いや、久々に足を動かしたのでな……。だが仕方あるまい。このまま行ってくれ」
「分かりました。外の仲間が治療の魔法を使えます。折れた足はすぐには治らないでしょうけれど、痛みはやわらぐと思います。それまでは頑張ってください」
「貴様に……言われるまでもない」
この期に及んでも憎まれ口を叩いてくる。……が、必要以上に気を使うな――という配慮なのだと考えておこう。
傾いた船内を、しかも人を背負って歩かねばならない。
それでも重みを利用し、強く床を踏みしめて安定を取る。足を踏み外して海水の中に落ちないように、慎重に足を運ぶ。
ニバムに対しては、いまだに苦手意識がある。その気まずい思いを抑えながら、黙々と甲板への階段を目指す。
背中は重いが大した距離ではない。これぐらいなら我慢できるはずだ。
「すまぬ、貴様などに助けられるとはな……」
背中から、以前よりは穏やかな声がかけられた。
もっとも、感謝はしても貴様呼ばわりはやめないらしい。ここまでくれば、強情も相当なものだ。
少し進んだところで、先程確認した船員達の遺体が目に入った。
「ぐっ……」
背中から苦渋を噛みしめるようなうめき声が聞こえる。部下の遺体を目にして、ニバムが苦悩しているのだ。
「他に生き残った方は……?」
ソロンは恐る恐る、背中に向かって尋ねてみた。
「分からん……。あの化物にやられた時に、海へ放り出された者も多くいた。それからこの船を、どうにか立て直そうとしたのだがな……。全ては徒労に終わったようだ。私が生き延びたのは、崩れた積荷の中で食料を見つけたからだ」
ニバムは弱々しい息遣いながらも、はっきりと聞き取れる声で答えた。それから、
「――お前は?」
と、ソロンへ短く問うた。お前は生存者を見なかったか――と聞いているのだろう。
「いえ」
ソロンはかすかに首を振りながら答えた。
「そうか。……他の者は厳しいかもしれんな」
ニバムも期待はしていなかったらしい。それ以上の落胆は見せなかった。
「はい。伯爵がご無事だっただけでも奇跡ですよ。アルヴァを悲しませたくはありませんので……」
大勢の犠牲がいる中では、利己的な発言なのも分かっている。それでも、今はニバムを助けられたことを喜びたかった。
「ああ、そうだ…。私も、アルヴァを泣かせたくはないな……」
それから、ニバムはまた遺体へと目をやって、
「――亡くなった者を葬りたいが……」そう口に出すや、すぐに首を横に振った。「いや、やはりこのままでいい。海の男にとって船はそう悪い墓場ではないだろう」
彼は諦めをにじませた口調で、寂しそうに語ったのだった。
埋葬するには、傾いた船の中へ何度も侵入する必要がある。ソロンをこれ以上、危険にはさらせないと慮ったのかもしれない。
光が大きく射し込んでくる。階段だ。
大した距離ではないはずだが、随分と長く感じられた。
不気味な船内から脱出できることに、ソロンは安堵する。
「おおっ……」
それはニバムにしても同じだったらしく、初めて活力に満ちた声を上げた。
ここから先は特に足場が悪い地点が続く。大きく傾いた階段を、慎重に登る。そして、二人は甲板へとたどり着いた。
「お祖父様!」
ソロンに背負われたニバムを見て、アルヴァが声を張り上げた。彼女は近くの岩場に立って、紅い瞳を心配そうにゆらしていた。
「アルヴァ……」
背中の老伯爵が、か細い声で孫娘を呼んだ。心の底から安堵するような声だった。