アブクロガニの恐怖
アブクロガニとの戦いが、何事もなく終わったと思われたその時――
「うげっ……!」
グラットが奇妙な叫び声を上げた。
見れば、左の前腕に紫の泡が付着している。とどめを刺した際に、反撃の泡をもらったようだ。
グラットは無意識のうちに袖で泡を拭った。だが、毒の泡が肌へと触れてしまったのはごまかし切れなかった。
「ああ、だから忠告したのに……」
アルヴァは長い黒髪を振るって表情を歪める。そして、哀れな子羊を見るような目をグラットに向けた。
「い、いや……。でも、大丈夫なんだろ。致死性じゃない。大した危険はないって……」
グラットはそう強がったが、その顔は見る見る青ざめていく。内心で不安に思っているのは明らかだった。
「致死性ではありませんが、患部のかゆみが止まらなくなるそうです。放っておけば一週間は夜も寝られないのだとか……」
「うわあ……それは辛いね」
思わずソロンは、同情の視線をグラットに投げかけた。
「グラット、不眠症か……かわいそう」
ミスティンも同様である。三人の哀れむ視線がグラットに集まった。
「や、やめろよ……。そんな目で見るなよ。なあ、冗談だろ……。いくらなんでもそんな大袈裟な――」
そこでグラットは言葉を切った。
表情が一変。
それから泡がかかった左の前腕へと、右手を動かす。見れば既に、患部は紫色に腫れ上がろうとしている。
グラットはゆっくりと爪で患部をかき出して。
「や、やべえ……。かゆくなってきたかもしれん――いや、かゆいぞ。かゆいぜ、これは!」
遅れてかゆみがやって来たらしい。グラットの額から汗が流れ出す。男らしい大きな体が震え出す。
ついにグラットは地面に倒れ込んだ。強く目をつぶったまま、
「かゆいかゆい! かゆいかゆいかゆかゆ!」
奇怪な呪文のような叫びを上げながら、子供のように手足をジタバタさせる。それから左腕の患部をがむしゃらに掻きむしり出す。
「うわあ……」
「哀れだね……」
「人間必死になると、ここまで恥を捨てられるのですね……」
あまりの醜態を目にして、三人が顔をそむけた。
「い……いや……見てないで助けてくれ! これまじでヤバいんだって! どれぐらいかゆいかというと、足の裏を蚊に刺された百倍ぐらいかゆい……!」
グラットは必死に自らのかゆさを主張し出した。
大袈裟で傍目にも滑稽だが、口調は迫真を通り越して悲愴すら感じさせる。
「かゆそうだね……」
ソロンはおよそ意味のない感想をつぶやいた。そこへグラットは懇願するように手を伸ばして、
「ソ、ソロン頼む! ここを焼いてくれ! 焼けばマシになるかもしれん……!」
藁にもすがるような調子で、患部を指しながら、半ばヤケクソ気味に叫んでいる。
「えっ、あっ、どうしよっか?」
いくらなんでも即決する勇気はソロンにない。
アルヴァに視線をやって、意見を伺う。最近は無意識のうちに、彼女を上司扱いするクセがついていた。
「お待ちなさい。――ミスティン、魔石を」
アルヴァは慌てる様子もなく、ミスティンに声をかけた。
「ほい」
阿吽の呼吸でミスティンが、聖神石を懐から取り出す。ミスティンが実家の神官家から持ち出した回復の魔石だ。
「あっ、もしかしてその毒……魔法で治るんだ?」
「ええ、幸いにも、この毒は皮膚に留まる種類ですからね。体の奥にまで浸透しないため、治療は容易となります。そもそも、アブクロガニの泡毒は紀元前から知られており、古くから研究されていました。そのため、治療についても十分な実績があります。また、それだけでなく戦場においても――」
「おいこら! 解説はいいから、早くしやがれ!」
いつもの調子で語り出すアルヴァを、グラットが怒鳴りつけた。
グラットの顔は真っ赤になっており、額からは滂沱の汗が流れていた。
彼は普段、アルヴァに対しては乱暴な態度を取らない。しかし今は、それだけ切羽詰っているのだろう。
「ふむ……」
アルヴァは据わった目で、グラットをまじまじと見つめていた。
怒鳴りつけられたのが、気に喰わなかったのだ。いかにも彼女は気高い女なのである。面倒なことに……。
「ぬわああぁ、かゆい、かゆいよ~! いや……早くしてください! お願いだからぁ!」
患部を押さえながら、グラットが情けなく泣き叫ぶ。
掻きむしられた患部から、赤い血が流れていた。その様子は見るにも痛々しい。これ以上、一刻足りとも放置するのは酷に思えた。
「アルヴァ、さすがに可哀想だよ」
基本はアルヴァびいきのソロンすら、これには注意せざるを得なかった。
「し、仕方ありませんね。ミスティン」
さすがのアルヴァもミスティンを促す。
「ほい」
ミスティンは素直に、グラットの前腕へと回復の魔石をかざした。
魔石が淡い光を放ち、患部の腫れをみるみる抑えていく。グラットの表情もそれに合わせて急速にやわらいでいく。
「うおぉぉ、ありがてえ、ありがてえ……。女神様、ミスティン様……。帝国広しといえど、お前ほどのいい女は他にいないってのは俺が保証するぜ」
グラットは涙を浮かべて、ミスティンへ手を合わせた。それから感謝の言葉を大層に並べ立てる。
「えへん」
と、ミスティンも胸を張って応えた。
「けどよお、お姫様って……。結構エグいよな……。俺、あまりのかゆさに死ぬと思ったぜ」
ミスティンへの態度とは対照的に、グラットは恨みがましい視線をアルヴァに向けた。
「そ、そんな大袈裟な。古今東西、かゆみで死んだ者などいません」
「いやでも、さすがに君が悪いよ。グラット、本気で辛そうな顔してたもん」
ソロンはグラットに味方しておいた。
「わ、私は悪くないでしょう。元はといえば、私の忠告を無視するグラットが悪いのですよ」
アルヴァは早口で反論したが、どこか分が悪かった。すがるようにミスティンへと視線をやる。
「そうだね、アルヴァは女王様だから逆らう奴には容赦しないんだよ。グラットも今度から気をつけないとダメだよ」
ミスティンはにこやかにアルヴァを擁護した。……少なくとも当人は擁護したつもりだろう。
「……私の不徳の致すところです。申し訳ありませんでした」
やむなくアルヴァは頭を垂れた。ミスティンの擁護が、却って反省を引き出したらしい。
「まあ、別にいいけどよお。……よっ!」
と、グラットは立ち上がった。
ここで矛を収められるグラットは、何だかんだで心の広い男だと思う。
「次が来ないうちに浜辺を離れよう」
消沈したアルヴァが黙っているので、ソロンが提案した。またぞろぞろとカニがやって来ては、たまったものではない。
砂浜に散らばったカニの死骸の数々を尻目に、四人は歩き出した。
グラットの足取りにも問題はなさそうだ。幸い、カニの毒はかゆいだけで、体力を奪うものではないらしい。
「アブクロガニって、食べられる?」
ミスティンが出し抜けにそんなことを口に出した。視線の先はカニの死骸に向けられている。
「正気かよ。つうか、昼飯ならさっき食べただろ」
言葉通りの正気を疑う目で、グラットはミスティンを見る。船から降りる前、既に昼食は済ませていたのだ。
「無理でしょ。だって毒があるんだよ」
ソロンも続いてミスティンをたしなめる。それからアルヴァへと視線をやった。
彼女なら何かしら見解を述べてくれるだろう。ついでに、口を開かせれば元気を出すかもしれない。
アルヴァは頷いて。
「内臓を省けば可能でしょうが、素人には難しいため推奨できません。アブクロガニの毒は、それこそ戦場で用いられた程の強力なものです。かつては、鏃につける毒として猛威を振るったそうですから」
「……そうなんだ。死なない毒ってわりには意外だね」
ソロンは相槌を打っておく。どうやら、先程グラットに遮られた話の続きらしい。よほど、話したかったようだ。
「致死性はありませんが、それも戦場ではある意味有益になります。毒に冒された者がいれば、救助のために人員が必要ですから。ゆえに、敵の戦力を減らすという目的において、即死させる以上の効果が見込めるのです」
いつものごとく得意気に彼女は語った。