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雲海のオデッセイ  作者: 砂川赳
第五章 蒼海をゆく
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アブクロガニの恐怖

 アブクロガニとの戦いが、何事もなく終わったと思われたその時――


「うげっ……!」


 グラットが奇妙な叫び声を上げた。

 見れば、左の前腕(ぜんわん)に紫の泡が付着している。とどめを刺した際に、反撃の泡をもらったようだ。

 グラットは無意識のうちに(そで)で泡を(ぬぐ)った。だが、毒の泡が肌へと触れてしまったのはごまかし切れなかった。


「ああ、だから忠告したのに……」


 アルヴァは長い黒髪を振るって表情を歪める。そして、哀れな子羊を見るような目をグラットに向けた。


「い、いや……。でも、大丈夫なんだろ。致死性じゃない。大した危険はないって……」


 グラットはそう強がったが、その顔は見る見る青ざめていく。内心で不安に思っているのは明らかだった。


「致死性ではありませんが、患部のかゆみが止まらなくなるそうです。放っておけば一週間は夜も寝られないのだとか……」

「うわあ……それは辛いね」


 思わずソロンは、同情の視線をグラットに投げかけた。


「グラット、不眠症か……かわいそう」


 ミスティンも同様である。三人の哀れむ視線がグラットに集まった。


「や、やめろよ……。そんな目で見るなよ。なあ、冗談だろ……。いくらなんでもそんな大袈裟な――」


 そこでグラットは言葉を切った。

 表情が一変。

 それから泡がかかった左の前腕へと、右手を動かす。見れば既に、患部は紫色に腫れ上がろうとしている。

 グラットはゆっくりと爪で患部をかき出して。


「や、やべえ……。かゆくなってきたかもしれん――いや、かゆいぞ。かゆいぜ、これは!」


 遅れてかゆみがやって来たらしい。グラットの額から汗が流れ出す。男らしい大きな体が震え出す。

 ついにグラットは地面に倒れ込んだ。強く目をつぶったまま、


「かゆいかゆい! かゆいかゆいかゆかゆ!」


 奇怪な呪文のような叫びを上げながら、子供のように手足をジタバタさせる。それから左腕の患部をがむしゃらに()きむしり出す。


「うわあ……」

「哀れだね……」

「人間必死になると、ここまで恥を捨てられるのですね……」


 あまりの醜態(しゅうたい)を目にして、三人が顔をそむけた。


「い……いや……見てないで助けてくれ! これまじでヤバいんだって! どれぐらいかゆいかというと、足の裏を蚊に刺された百倍ぐらいかゆい……!」


 グラットは必死に自らのかゆさを主張し出した。

 大袈裟で傍目(はため)にも滑稽だが、口調は迫真を通り越して悲愴(ひそう)すら感じさせる。


「かゆそうだね……」


 ソロンはおよそ意味のない感想をつぶやいた。そこへグラットは懇願(こんがん)するように手を伸ばして、


「ソ、ソロン頼む! ここを焼いてくれ! 焼けばマシになるかもしれん……!」


 (わら)にもすがるような調子で、患部を指しながら、半ばヤケクソ気味に叫んでいる。


「えっ、あっ、どうしよっか?」


 いくらなんでも即決する勇気はソロンにない。

 アルヴァに視線をやって、意見を伺う。最近は無意識のうちに、彼女を上司扱いするクセがついていた。


「お待ちなさい。――ミスティン、魔石を」


 アルヴァは慌てる様子もなく、ミスティンに声をかけた。


「ほい」


 阿吽(あうん)の呼吸でミスティンが、聖神石を(ふところ)から取り出す。ミスティンが実家の神官家から持ち出した回復の魔石だ。


「あっ、もしかしてその毒……魔法で治るんだ?」

「ええ、幸いにも、この毒は皮膚に留まる種類ですからね。体の奥にまで浸透しないため、治療は容易となります。そもそも、アブクロガニの泡毒(ほうどく)は紀元前から知られており、古くから研究されていました。そのため、治療についても十分な実績があります。また、それだけでなく戦場においても――」

「おいこら! 解説はいいから、早くしやがれ!」


 いつもの調子で語り出すアルヴァを、グラットが怒鳴りつけた。

 グラットの顔は真っ赤になっており、額からは滂沱(ぼうだ)の汗が流れていた。

 彼は普段、アルヴァに対しては乱暴な態度を取らない。しかし今は、それだけ切羽詰っているのだろう。


「ふむ……」


 アルヴァは()わった目で、グラットをまじまじと見つめていた。

 怒鳴りつけられたのが、気に喰わなかったのだ。いかにも彼女は気高(けだか)い女なのである。面倒なことに……。


「ぬわああぁ、かゆい、かゆいよ~! いや……早くしてください! お願いだからぁ!」


 患部を押さえながら、グラットが情けなく泣き叫ぶ。

 ()きむしられた患部から、赤い血が流れていた。その様子は見るにも痛々しい。これ以上、一刻足りとも放置するのは酷に思えた。


「アルヴァ、さすがに可哀想だよ」


 基本はアルヴァびいきのソロンすら、これには注意せざるを得なかった。


「し、仕方ありませんね。ミスティン」


 さすがのアルヴァもミスティンを(うなが)す。


「ほい」


 ミスティンは素直に、グラットの前腕へと回復の魔石をかざした。

 魔石が淡い光を放ち、患部の()れをみるみる抑えていく。グラットの表情もそれに合わせて急速にやわらいでいく。


「うおぉぉ、ありがてえ、ありがてえ……。女神様、ミスティン様……。帝国広しといえど、お前ほどのいい女は他にいないってのは俺が保証するぜ」


 グラットは涙を浮かべて、ミスティンへ手を合わせた。それから感謝の言葉を大層に並べ立てる。


「えへん」


 と、ミスティンも胸を張って応えた。


「けどよお、お姫様って……。結構エグいよな……。俺、あまりのかゆさに死ぬと思ったぜ」


 ミスティンへの態度とは対照的に、グラットは恨みがましい視線をアルヴァに向けた。


「そ、そんな大袈裟な。古今東西、かゆみで死んだ者などいません」

「いやでも、さすがに君が悪いよ。グラット、本気で辛そうな顔してたもん」


 ソロンはグラットに味方しておいた。


「わ、私は悪くないでしょう。元はといえば、私の忠告を無視するグラットが悪いのですよ」


 アルヴァは早口で反論したが、どこか分が悪かった。すがるようにミスティンへと視線をやる。


「そうだね、アルヴァは女王様だから逆らう奴には容赦しないんだよ。グラットも今度から気をつけないとダメだよ」


 ミスティンはにこやかにアルヴァを擁護(ようご)した。……少なくとも当人は擁護したつもりだろう。


「……私の不徳の致すところです。申し訳ありませんでした」


 やむなくアルヴァは(こうべ)を垂れた。ミスティンの擁護が、(かえ)って反省を引き出したらしい。


「まあ、別にいいけどよお。……よっ!」


 と、グラットは立ち上がった。

 ここで矛を収められるグラットは、何だかんだで心の広い男だと思う。


「次が来ないうちに浜辺を離れよう」


 消沈したアルヴァが黙っているので、ソロンが提案した。またぞろぞろとカニがやって来ては、たまったものではない。


 砂浜に散らばったカニの死骸の数々を尻目に、四人は歩き出した。

 グラットの足取りにも問題はなさそうだ。幸い、カニの毒はかゆいだけで、体力を奪うものではないらしい。


「アブクロガニって、食べられる?」


 ミスティンが出し抜けにそんなことを口に出した。視線の先はカニの死骸に向けられている。


「正気かよ。つうか、昼飯ならさっき食べただろ」


 言葉通りの正気を疑う目で、グラットはミスティンを見る。船から降りる前、既に昼食は済ませていたのだ。


「無理でしょ。だって毒があるんだよ」


 ソロンも続いてミスティンをたしなめる。それからアルヴァへと視線をやった。

 彼女なら何かしら見解を述べてくれるだろう。ついでに、口を開かせれば元気を出すかもしれない。

 アルヴァは頷いて。


「内臓を省けば可能でしょうが、素人には難しいため推奨できません。アブクロガニの毒は、それこそ戦場で用いられた程の強力なものです。かつては、(やじり)につける毒として猛威を振るったそうですから」

「……そうなんだ。死なない毒ってわりには意外だね」


 ソロンは相槌を打っておく。どうやら、先程グラットに(さえぎ)られた話の続きらしい。よほど、話したかったようだ。


「致死性はありませんが、それも戦場ではある意味有益になります。毒に冒された者がいれば、救助のために人員が必要ですから。ゆえに、敵の戦力を減らすという目的において、即死させる以上の効果が見込めるのです」


 いつものごとく得意気に彼女は語った。

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