海の無人島
船はネブロー島の北へと引き返し、断崖に挟まれた入江にたどり着いた。
地図に載っているとはいえ、ネブロー島は未開の島である。当然、座礁せずに上陸できる港などの設備は存在しない。
よって、浜辺から少し離れた場所に錨を降ろし、小舟で四人が上陸することにした。
探索に当たっても、いつ魔物と遭遇するか分からず危険は多い。
船員達には荷が重いため、彼らには船を守ってもらうように指示した。
「それじゃあ、お嬢様もお気をつけて。どうか、伯爵のことをよろしくお願いします」
船長自らの見送りを受けて、ソロン達は小舟から飛び降りた。波打ち際をひらりと跳んで、砂浜へと着地する。
ザックザックと歩きづらい砂を踏みしめる。
砂浜の向こうには、広葉樹林が広がっている。船から確認できた通り、自然豊かな島のようだ。そしてそれは魔物にとっても、格好の繁殖地である事実を示している。警戒は必要だった。
「うわ、あっついなあ……」
ソロンは思わず頭を押さえた。
今は下界の八月に当たる日輪の月。名前に違わず、その真昼は日射しを強烈に受ける時期である。
潮風がわずかな涼しさを運んでくれるとはいえ、浜辺の日射しはこの上なく厳しい。昼は常に曇りの下界人にとっては、経験のない天候だった。
「大丈夫ですか、ソロン?」
そんなソロンを、アルヴァが気遣わしげに見てくる。
「まあ、耐えられないほどじゃないよ。……上界の真夏って凄いんだね」
「んだな、さっさとあっち行こうぜ」
グラットも気を使って、森の方角へと促してくれる。
そんな中、ミスティンは島の様子が気になって仕方ないらしい。一行の先頭に立って、体と首を落ち着きなく動かしている。
「なんか面白いもんあったか?」
と、グラットが聞いてみれば、
「なんか来てる」
ミスティンは何かに気づいたらしく、前方を指差した。その指先は右へ左へふらふらとゆれている。
浜辺の各地から、ワラワラと黒い何かが群がって来ているのだ。その数は十――いや二十体はいるだろうか……。
「ん、何あれ?」
ソロンも目を凝らして見る。
黒い甲殻に白い腹、長く伸びた足がたくさん生えている。こちらに白い腹を向けたまま、斜めに向かってくる。
色と形状から見てクモかと思ったが、どうも違うようだ。不可思議な歩き方をする生き物のようだが――
「カニだ!」
その正体を確信したミスティンが叫んだ。なぜだか少し嬉しそうだった。
正面だけでなく、左から右まで黒いカニの姿が視認できた。
まだ数百歩の距離――遠くにいるはずなのに、はっきりとソロンにも分かる。
「おいおいおい……。でっかいぞ!」
グラットが狼狽気味につぶやく。
人の背丈ほどもありそうなカニの魔物。
長い十本の足で、砂をかき分けながら歩いてくる。見るからに凶器となりそうな大きなハサミ――それをガチガチと威嚇するように鳴らしている。
カニは斜めに円を描くようにして、こちらを囲むように歩いてくる。
「あれはアブクロガニのようですね。縄張りに踏み込んでしまったのでしょう」
と、アルヴァが指摘する。
「アブクロガニってなに?」
ミスティンも聞いたことがないらしい。動物には詳しそうな彼女も、海辺には精通していないのだろうか。
「泡黒蟹――転じてアブクロガニです。いえ、名前はいいのですよ。どうしますか?」
そう言いながらも、アルヴァは既に腰の杖を抜いていた。
「戦うしかないな」
ソロンは即答し、同じように背中の刀を抜いた。
側面は既に囲まれようとしているが、まだ後ろへ逃げる道はある。けれど、ここで引き返していては、島の探索などできるはずもない。
まだ最も近い相手までは五十歩の距離がある。とはいえ、ゆっくりしていては大勢のカニに包囲されてしまう。
ここは先手必勝だ。
魔力を紅蓮の刀へ込めながら、ソロンは一気に踏み込んだ。
刀を最寄りのカニへと突き出すやいなや、刃先が火を噴いた。
炎は勢いよく装甲を貫いて、カニを吹き飛ばす。将棋倒しの要領で、後ろにいた三体のカニも倒れた。
「ソロンも日に日に腕を上げていますね。私は楽をさせてもらいますよ」
そう言いながらも、アルヴァの杖先から紫電が走った。
帆船に風を送っていた疲労があるため、派手な魔法は使わない方針らしい。それでも無駄のない魔法で、着実にカニを仕留めていく。
ミスティンの矢も命中したが、黒い甲殻に弾かれた。硬い甲殻に対しては、どうやら分が悪いらしい。
「む~」
と、不機嫌なうなり声をミスティンが上げる。どうやら、ムキになったらしい。
ミスティンは弓へと魔力を込め始めた。それもいつもより強く、時間をかけて精神を集中している。
そこに襲いかかったカニがいた。
カニはハサミを振り上げて迫り来る。人間の胴体を骨ごと断ち切れそうな巨大なハサミ――黒光りするそれをガチンガチンと鳴らしている。
動きは鈍いが、見るからに恐ろしい姿だった。
「うひゃあっ、ごっついハサミだなあ」
そう叫びながらもグラットは、
「――おらよっ!」
と、超重の槍を真っ向からカニへ叩きつけた。
ズシャリという鈍い音が、晴天の下に響く。
重力を操るグラットの槍には、見た目以上の重量を付与できる。そうして、一撃の下に黒い甲羅を粉砕したのだ。
次には、右から迫るカニがハサミを振るってくる。
しかし、それにもグラットは動じない。黒いハサミへと、横から突き上げるように槍を払った。ハサミは根本から断ち切られ、地面に落ちる。
グラットの槍は止まらない。ひるんだカニの脳天へ、槍を激しく叩きつけた。
たちまち、二体の死骸が砂浜に転がった。
「大したことねえなぁ。ハサミがご立派なもんだから、強敵だと思っちまったぜ。それとも俺様が強すぎるのかな? へへっ!」
いつものようにグラットは調子に乗っていた。
「油断しない! ハサミよりも、泡に気をつけてください。アブクロガニは毒を持っていますから」
そんな彼へとアルヴァが忠告。さすがにグラットもこれは無視できなかったらしく。
「ま、マジかよ……。毒ってどんな毒だ?」
「致死性の毒ではないため、さほどの危険はありませんが――」
「なんだ、危険じゃねえなら大丈夫だろ。ビビらせんなよ」
アルヴァの忠告を遮って、グラットはまたカニへと駆け寄った。
「話は最後まで聞きなさい!」
アルヴァが背中に向かって叫ぶが、もはや聞いていない。
そうこうしているうちに、ミスティンの弓へ魔力が集まったらしい。空気の流れがつがえられた先に集約されている。
離れているソロンへも、彼女の周囲に渦巻く風が見えた。
「いくよ!」
空気を斬り裂く鋭い音と共に、勢いよく矢が放たれた。
矢は突風を巻き起こしながら、浜辺を疾走する。砂を巻き上げながら、たちまちカニの足元に着弾した。
爆音と共に、カニの足元から竜巻が巻き起こった。猛烈な勢いで砂が噴出し、何体ものカニが上空へと放り投げられる。
思わず空を見上げるソロン。
重たいカニは天高く、舞い上がっていた。
次の瞬間、大地に引き戻されたカニは砂浜へと落下した。その衝撃で、砂煙がまたも巻き上がる。
砂煙が晴れた先には無残な光景が待っていた。
カニはベシャリと潰れていた。砂と共に中身が砂浜に散乱してくる。茶色い何か――もしやこれがカニ味噌だろうか。
「……気分が悪くなりそうです」
アルヴァは青白い顔をして、その光景を見ていたが、すぐに目をそむけた。
「すっきりした~」
全力を出し切って満足したのだろう。ミスティンだけは気分がよさそうだった。
残ったアブクロガニは、五体となった。
「おお怖え……。残り物の処分は任せときな」
グラットが槍を振るって、生き残ったカニへと向かう。
ソロンも刀を構えて、カニに立ち向かう。
すると、カニの口元から紫色の何かが吹き出された。追い込まれて動きを変えたのだろうか。
慌てて、サッとソロンが回避すれば、砂上に紫の何かが張りつく。
カニの口元に残るそれは泡に違いない。アルヴァが注意しろと言っていた件の泡だ。
ソロンの胸中に小さな緊張が走る。
慎重に紅蓮の刀をカニへと向けた。魔力を込めて、刀の先から火炎を放射する。泡はあっけなく蒸発し、丸ごとカニを焼き払った。
「熱に弱いみたいだね。これなら大丈夫かな」
ソロンはほっとひと安心する。もう一体にも火炎を放ち、泡ごと始末する。
グラットも最後の一体を仕留めたらしく、ついに浜辺からカニの動く気配がなくなった。