船旅の始まり
ネブラシア帝国は雲上交通を要とする国家である。
その肝となるのはもちろん、帝都南に位置するネブラシア港だ。
天然の小島を改造したこの港は、その名の通り帝国を代表する港でもあった。商船や定期船はもちろんのこと、軍用船を含む大型の竜玉船も、停泊できるようになっていた。
アルヴァは用意されていた竜玉船へと乗り込んだ。
竜玉船としては、それほど大きいわけではなく中型に該当する。輸送力よりも機動力に重点を置いているためだ。
目的を考慮する限り、無闇やたらと大きな船を駆る必要はないと彼女は考えていた。
船の外面は耐久性を高めるために金属で覆われている。木造船より重くはなるが、それでも竜玉を豊富に装着すれば、浮力は十分に足りる。
船の側面には皇城にもあった皇帝家の紋章――黄金竜が飾られている。皇帝家が所有する竜玉船であることを示しているのだ。
アルヴァに続いて、帝国の兵士達が乗り込んでいく。
今回の旅の名目は、あくまで休暇を兼ねた旅行であった。そのため、あまり多くの兵数は動員していないし、そもそも目的を考えれば必要なかった。
さらに後へと続くのが、選りすぐりの冒険者達である。
兵士達とは対照的に、その武器や衣装は多彩で統一感がない。しかし、それもまた面白いとアルヴァは思っていた。
目立たぬように後ろのほうを、赤毛の少年――ソロンが歩いてくる。
男にしては髪が長いが、女にしては少し背が高い。首元には今も例の首輪がはめられている。
中性的な外見で分かりにくいが、近くで話した限り男なのは間違いなさそうだ。
帝国ではあまり見ない片刃の曲剣を背負っており、赤い髪が妙に鮮やかだ。赤髪自体は帝国にも珍しくないが、どうも色合いが違う印象を受ける。
透き通った緑の瞳が、男にはもったいないほど綺麗だった。
先日の深夜、ネブラシア城での大立ち回りが記憶に新しい。あの華奢な体のどこに、あれだけの活力があったのだろうか。
そのくせ簡単な拷問をすれば、見苦しくも泣き叫ぶ有様だ。
全て正直に話しているようにも見えなかったが、大それた悪事を働くような人間にも思えない。
どことなく興味を感じて、温情を与えてやったのだった。
少なくとも、身体能力は確かなようなので、多少は役に立つだろう。あるいは、そうやって根気強く観察していれば、正体をつかめるかもしれない。
ともあれ、様々な地方からやって来る冒険者の知識はなかなか侮れない。時には会話を試みるのも悪くはなさそうだ。
貴族や皇族の中には『身分も知れない卑しい者』と冒険者を見なす者も多かったが、そんなことにアルヴァは頓着しない。
彼女は力を――そのための情報を渇望しているのだから。
力が欲しかった。
だからこそ、神竜教会が古文書の解読で得たという情報は、実に興味深かった。
伝説にある『杖』を手に入れれば、北方での亜人との戦いも優位に進むだろう。
もちろん、情報の信憑性は定かではないし、そのことは彼女自身もよく理解している。
だが、正解を手にするためには、多くのハズレを引く覚悟も必要なのだ。
実際に古代の遺物を発掘し、それで富や名声を得た者も少なくはない。その者達にしても幾度も失敗を積み重ねてきたのだ。
そうして、アルヴァは留守を秘書官のマリエンヌに任せて、自ら秘宝の島へ乗り込む決心をしたのである。
先帝の時代、アルヴァの母は皇帝秘書官を務めていた。そして、その母の補佐を務めていたのがマリエンヌである。
就任して一年に満たないアルヴァよりは、よほど仕事に精通している。その点では心配もいらない。
もちろん、マリエンヌはよい顔をしなかった。しかし、これはいつものことであり、気にしなければよいだけだ。
とはいえ、元老院までは無視できない。
皇帝が長期間不在となることは本来好ましくはない。そのため、事前に元老院議長の許可を得るのが通例であった。
意外ではなかったが、許可はあっさり降りた。
というのも、皇帝が不在の間、種々の事態への決定権はそれぞれの政務官が持つことになる。
そしてその政務官は元老院議員から選任されていた。皇帝の不在は、影響力の拡大を望む元老院にとって好都合だったのだ。
探検とは、それなりの危険がつきまとうもの。場合によっては、命を危険にさらすかもしれない。
その危険性を知られたら、さすがの議長も許可を出さなかっただろう。
……が、アルヴァは探検を、危険性の低い視察程度のものだと説明していた。
全ては帝国のためと確信している。多少のごまかしも大義の前には許されるはずだ。
ここから目的の島がある領域までは、まだ多少の距離がある。まずは一日かけて、帝都南西のポトム港に停泊する予定となっていた。
* * *
初日の船旅は、ネブラシア港から南西のポトム港へ向かうだけである。
船乗りにとってはおなじみの航路であって、特に目新しいものもない。陸沿いに進むだけなので危険性も少ない。
雲海にも魔物は棲んでいるが、竜玉船の標準的な航路に現れることはそう多くないようだ。
とはいえ、ソロンにとっては初体験の航路である。北西の陸地を眺めたり、竜玉船の上をウロウロしていたりで暇をつぶしていた。
ソロンの観察によると、今回の旅に参加する冒険者は自分達三人を含めて十五人。帝国の兵士もそれと同程度の人数がいるようだ。
それに女帝や船長、船員を加えた人数が今回の探検隊の人員ということになる。
皇帝肝煎りの探検隊にしては少ない気もするが、竜玉船には重量制限もある。
大人数だと小回りが利かなくなることも考慮すると、案外妥当なのかもしれない。
ふと、人々の視線を集める一画があった。そこにいたのは、かの女帝アルヴァネッサである。
少し離れて護衛らしき兵士も二名いるが、片方が女性なのは世話係なども兼ねているからだろう。
物々しい雰囲気はないが、それでも近寄りがたいらしく冒険者達も遠巻きにしている。
うっかり粗相でもすれば、どんな目に合うか分からないからだろう。
もっとも、話しかける者はいなくとも、視線は彼女へ嫌というほど集まっているのだが……。
もちろん、ソロンもうかつに近寄らないよう注意している。
特にソロンの場合は、例の首輪があった。機嫌を損ねれば、また電流の刑に処されそうだ。
当の女帝は集まる視線を気にした様子はない。気流に黒髪をなびかせながら、何気なく雲海を眺めている。
生まれた時から人の注目を浴びてきた彼女にとって、視線は慣れたものなのだろう。
雲海を眺める女帝に飽きる様子はない。
ミスティンも言っていたように、もしかしたら意外と暇なのだろうか。
そんなことを思いながら、ソロンも思わず眺めていた。雲海――ではなく女帝というにはあまりに若い女性の横顔を。
人の顔をいつまでもジロジロ見るのも失礼だろうし、陸地側を眺めるにも飽きてきた。
それで何となく、ソロンは船の後部から後ろの景色を眺めていた。
よく見ると船尾から、乱れた雲が尾を引くように続いている。以前、竜玉船に乗った時は、前ばかりに気を取られていたので、気づかなかったのだろう。
ふと気になって真下の船尾を覗き見ると、激しく回転する羽根のような物が付いている。あれがこの船を動かす仕組みなのだろうか?
せっかくなので専門家にご教授願うとしよう。
「ねえグラット。あれがこの船を動かしてるんだよね」
ソロンは船尾から身を乗り出して指を差した。
「ああ、スクリューのことか。昔は帆を使っていたんだが、今はそいつが推進力だな」
ソロンが指差す物を見るまでもなく、グラットは答えた。さすがは竜玉船を持つのが夢と語っていただけはある。
「スクリューっていうんだ。あれって、どうやって回してるの?」
「魔石を使ってんだよ。緑風石って言ったっけな。風を起こして回転運動に変換してるんだぜ」
元々、自分の好きな分野だけあって、嫌がる素振りもなく答えてくれる。
だが、その回答には引っかかる箇所もあった。
ならば――と遠慮なく質問を重ねる。
「緑風石は知ってるけど、どうやって力を引き出してるの? 人がやってるようには見えないけど?」
通常、魔石から力を引き出すには、人間の精神力を介する必要がある。
そのため、ソロンの認識では人が手を貸し続けなければ、船は止まってしまうはずだ。
これにはグラットも「ううむ」と唸ってしまった。
「言われてみりゃあそうだな、ソロン。魔法についちゃあ、俺はお前みたく詳しくないからな。そこまで考えたことなかったぜ」
グラットは降参と言わんばかりに手を挙げた。あまり役には立たないながらも、意外と潔いところを見せる。
「緑風石の共鳴現象を利用しています。常に人手を加えなくとも、魔法力を継続的に取り出せる仕組みがあるのです」
と、そこに透き通った声が割り込んできた。どうやら、グラットに代わって説明してくれるらしい。
「ああ、説明してくれるのならありがた――」
グラットが礼を言おうと、後ろを振り向く。すると、その表情が途端に固まった。
長い黒髪に紅い瞳。そこに立っていたのは女帝アルヴァネッサその人であった。