大海をゆく
錨を上げて船が出港する。
イシュテアの大海へと帆を掲げた。
船の甲板から、三本の帆柱が空に向かって伸びている。そこには数多くの帆が付いて、風を受けていた。
マリエンヌや船乗り達は、可能な限り立派な船を用意してくれたのだ。
船が動き出し、港が徐々に遠ざかる。
船の後部に立ってみれば、マリエンヌは今も港からこちらを見送っていた。
「命懸けで――だなんて軽々しく言ってはいけませんよ。別にその……私はあなたの主君でも何でもないのですから」
出し抜けにアルヴァから叱られた。
ソロンが横を向けば、潮風に黒髪をゆらす彼女の姿。紅い瞳は港を向いていたため、目線は合わない。
「別に軽々しく言ったつもりはないんだけどなあ……」
ソロンは頭をかきながら苦笑する。
「うむ、少なくともこいつは真顔だったぜ。お姫様のためなら、命ぐらい捨てるかもしれん」
グラットがソロンの頭を叩きながら冷やかす。
「うんうん」
と、ミスティンがなぜか嬉しそうな顔をして頷く。
アルヴァは「はぁ……」と溜息をついてから、三人に向き直る。
「別に、あなた方まで来る必要はなかったのですよ」
「そうはいかないよ」
と、ソロンは即座に首を横に振る。
「――主君じゃなくても友達だから。人間関係は上下だけじゃないさ」
「うん、たまには海も面白いと思う」
「まっ、爺さんが行方不明って聞いた時点で覚悟はしてたぜ。お姫様なら、自分が行くだろうとは思ってた」
と、三者三様に答える。
「まったくもう……」
アルヴァは少し困ったように目をそらしたが、覚悟を決めたように頷いた。
それから、船の帆へと鋭く視線を向けて、
「――そろそろ頃合いですね」
アルヴァは杖を帆へと向けた。同時に、かぶっていた帽子をソロンへと託す。
「おいおい、何する気だよ」
杖先の方向に立っていたグラットが、慌てて飛びのく。
「やっぱりか……」
彼女が何をしようとしているのか、ソロンは察した。
下界の魔道士も、船を急がせる場合に取る手段である。ただし、技量が必要とされるため、ナイゼルのような一部の者にしか使えなかった。
「ええ。少し乱暴ですが、急ぎますよ」
アルヴァの杖先に付けた緑の魔石――緑風石が光を放つ。たちまち杖先から風が巻き起こった。
強風を受けて、帆がバタバタと騒ぎ出す。
三本の帆柱に掲げられた数多くの帆――それが一斉にはためく様はなかなか壮観だった。
巻き起こる反動の風を受けて、アルヴァの黒髪と服が強かになびく。
他の三人も、同じようにその身へ風を受けた。魔法の射線から離れていても、あふれ出る風力の強さを感じられた。
嵐のような強風が甲板を吹き抜ける。
それでも、嵐と違ってこの風は方向と強さが一定していた。俄然、帆船は勢いに乗って海上を加速し出した。
「おうおう、すげえ速さだなあ!」
甲板で作業する船員達も、感嘆の声を上げた。
風で加速するという話は事前に聞いていたようだが、それでも驚きは隠せないようだった。
*
青く鮮やかなイシュティール海を、船は快調に飛ばしてゆく。
通常の帆船と比較して、倍以上の速度が出ているのではないだろうか。
一時間……二時間と時が過ぎていき、日が少しづつ陰っていく。
それでも、船は止まらない。なおも大海を斬り裂くように進んでいった。
しかし、そんな船の様子とは対照的に、アルヴァは必死だった。反動の風を全身に受けながら、苦しそうな表情を浮かべている。
やはり、これだけの風を維持するには大変な精神力が必要なのだ。
それでも、アルヴァの意志は強く、杖先の魔石へと魔力を送ることをやめなかった。
操舵士もその速力に負けじと、機敏に船を操り進路を調節していく。
途中、いくつかの島が目に入った。
どうやら、帆船は島伝いに航行しているようだ。広大な海とはいえ、目印がないわけではないらしい。
「おいおい……。大丈夫なのか? いくらお姫様でも、あれじゃあもたないぜ」
グラットはそんなアルヴァの様子を見て、いさめようとするが、
「いえ、まだ大丈夫です」
彼女は目線を帆に固定したまま即答した。
「――気が散るので……話しかけないでください」
「お、おう……。だがよう……」
鬼気迫るアルヴァの横顔を見て、大の男であるグラットが萎縮していた。結局、すごすごと少し離れた場所に座り直す。
すぐそばでミスティンも心配そうに、アルヴァを見ていた。それはソロンにしても同じだった。
実際、ソロンもいつ止めようか心中では、ずっと悩んでいたのだ。
無理はさせられない。……けれど、祖父の無事を願うアルヴァの意志も無下にはできない。
すぐにその時はやって来た。
案の定、見守るソロンの前でアルヴァの足元がふらついたのだ。
すかさずソロンは駆け寄り、アルヴァを支えた。
いずれこうなるのは予測していたので、ソロンは彼女のそばを片時も離れなかったのだ。
「大丈夫? ……じゃないね。もう休みなよ」
「ですが……お祖父様が――」
苦しげにアルヴァがうめいた。既に、杖先から流れていた風は消えている。
「ダメだ。見ちゃいられない」
ソロンはアルヴァの言葉を遮った。それから彼女の手を引いて、船の後部へともたれさせる。
「――大体、目的地まで先は長いんだ。暗くなったら捜索はできないし、君がちょっと無理したってどうにかなるもんじゃない。そこは君のほうが分かってると思うけどね」
ソロンにしては強い口調で言い放った。
目的地はイシュテア海の中程にある島であり、イシュティールからは、おおよそ七~八時間かかるという。
風で大幅に加速させていたので、船の速度は倍といったところだろう。それでも、到着するには何時間とかかるのは確かだ。
どれほど偉大な魔道士にもそれだけの時間、魔法を維持するのは、不可能だった。
アルヴァは唇を噛みながら、悔しげな表情を見せた。
無理を承知で働いていたのは、彼女自身も分かっているはずだ。だから、いつものように反論して、ソロンをやり込めることもできなかった。
「……私を叱るなんて。ソロンも立派になりましたね」
精々が、そんな捨て台詞をつぶやくのでやっとだった。
そう言いながらも、アルヴァが手を握り返す感触が伝わってきた。どうやら怒っているわけではないらしい。
「地位にとらわれず。対等でいいって言ったのは誰だっけね?」
ソロンも彼女の隣に座って言い返す。アルヴァから呼び捨てでよい――と言われた時の話を持ち出したのだ。
「地位が関係なくとも……。私のほうが年長で……す」
すると、アルヴァは疲れた様子で弱々しく反論した。
しかし、そう述べるアルヴァにしても、歳上のグラットを敬っていた記憶はないのだが……。
「ん……?」
ソロンはふと肩に感触を感じて、隣に目をやった。
見れば、既にアルヴァは目を閉じて、ソロンの肩に頭をもたせかけていた。長く美しい黒髪がすっかり乱れている。
魔法を過剰に使えば精神力を消耗する。精神力を消耗すれば、眠くなるのが自然の摂理である。
ソロンも魔道士の一員として、その感覚はよく理解している。あれだけ魔法を長く使ったならば、当分は起きてこないだろう。
ソロンはアルヴァの頭に手をやって、乱れる黒髪を整えてあげた。
「まっ、これ以上は無理だわな。爺さんには悪いが、ここは休むしかないか」
そんなアルヴァを見て、グラットは苦笑しながら言った。
「ナイゼルがいればよかったんだけどね……」
ソロンは静かになった帆を見上げながら、「ふう」と息を吐いた。
ナイゼルは、何だかんだで頼りになるソロンの兄弟子だ。イドリス一の魔道士であり、何といっても風魔法の達人である。
そんな彼ならば、風で帆船を動かすぐらいはお安い御用だろう。
全くもって、帝都で別れたのが惜しい。しかし彼には彼の仕事があるのだ。
そんなことを考えていた時に、ふと感じる視線があった。
見れば、ミスティンがこちらをジッと見ている。
弓を片手に、何かを訴えるような視線である。
肩にアルヴァの頭が乗っているのが、気になるのかと思ったが――どうも、そういうわけではなさそうだ。
「……どうしたの?」
「これでできるかも……」
と、ミスティンは弓を指し示す。彼女にしては、あまり自信がなさそうだ。
「もしかして、それで風が送れるってこと?」
「うん」
「やってみる?」
駄目で元々、挑戦してみる価値はありそうだ。
「うん」
ミスティンは迷うことなく首を縦に振った。
彼女は立ち上がり、先程までアルヴァが立っていた場所に陣取った。
ミスティンは姿勢よく帆を見上げた。そして、悠々と弓を構える。それも矢をつがえていない空の弓だ。
ミスティンが愛用する風伯の弓――それを構成する風伯銀は、風を巻き起こす力を持っている。
しかし、その弓はイドリスで造られた特注品であった。杖で魔法を使うのとは、扱いは別物といってもよかった。
……が、風伯の弓が輝き出すと共に、風が放たれた。
最初は穏やかな風。ミスティンの金髪が風になびき、ゆらゆらと揺れる。
「いい感じだよ、ミスティン」
ソロンが声援を送れば、ミスティンもニコリと微笑む。
風は段々と強くなり、やがて帆がはためき出した。弓に込められた魔力が、徐々に強さを増しているのだ。
そんな中でも、彼女は至って涼しげな表情を浮かべていた。
帆船は、再び風に駆られて走り出した。
アルヴァが杖を振るっていた時よりもゆっくりだが、それでも悪くはない速度だ。
「お前……いつの間にそんな芸当、身につけたんだよ」
グラットが呆れ半分に声を上げる。杖代わりになる弓などは、前代未聞だろう。
「意外と簡単だよ。矢を射つ時と魔力の向け方を変えるだけ」
なんでもないように、天才肌のミスティンは言った。