前皇帝と現皇帝
エヴァートは一同を眺めやった。その瞬間にソロンと目が合う。
エヴァートは大帝国の君主であるが、さほどの威圧感はない。むしろ、かつてのアルヴァのほうが、よほど鋭い印象を受けた。
従妹の無事を目にした安堵がそうさせたのか、元々の気質なのかは分からない。
「そちらの方々は君の友人かい? 下界から君を連れ戻したのが、彼らということだろうか?」
「ええ、みな私の信頼する友人達ですよ。特に彼は下界の出身ですが、その助力がなければ私はここに戻ること叶いませんでした」
そう言いながら、アルヴァはソロンの腕をつかんだ。
「下界人……ということか。君は……?」
エヴァートの瞳がソロンを見据えていた。できれば大人しく黙っていたかったのだが、ここは答えなければならないようだ。
「イドリス王国から参りました。国王サンドロスの弟――ソロニウスと申します。陛下」
かつてはアルヴァを呼んだ呼称で、ソロンはエヴァートに返事をした。
陛下という呼称を、アルヴァ以外に使うのは長らく抵抗があった。けれど、彼女を名前で呼ぶようになった今は、その抵抗も消えてなくなった。
「イドリス王国とは?」
視線をそらさずにエヴァートは問い続ける。
「下界の王国です。お兄様」
これには代わってアルヴァが答える。
「下界に国があるのか!?」
驚きを隠せずにエヴァートが声を上げた。
国があるのかとは酷い言い方だが、相手に悪気はなさそうだ。上界人にとっては、下界の何もかもが驚きとなってもおかしくはない。
「もちろんありますよ」
苦笑しながらもソロンは答えた。
「――下界でだって、みんな普通に暮らしてますから。帝国のように繁栄しているわけではありませんけどね」
「いや、すまない。失礼な言い方になったかもしれないな。あんまり驚いたものだから。もし、気を悪くしたら謝るよ」
「謝るもなにも……。僕にしても、初めて上界に来た時は信じられないことばかりでしたから。陛下のお気持ちは分かります」
エヴァートはあくまで低姿勢だったので、ソロンは恐縮してしまう。
かつての経験でいえば、前の皇帝のほうが言葉遣いは丁寧ではあった。……が、彼女の場合は至るところに気の強さが垣間見えた。
その点、エヴァートは本当の意味で謙虚なようだ。
「なんだか二人の会話は微笑ましいですわね」
そんな二人のやり取りを見ながら、アルヴァは微笑を浮かべていた。
「別に面白がるところじゃないと思うけどなあ……」
ソロンは赤毛をかきながら苦笑する。
「私は面白いですよ?」
イタズラっぽい笑みを浮かべて、アルヴァは言い放った。
「へえ、君にしては随分と打ち解けたものだな」
アルヴァとソロンの掛け合いを、エヴァートは興味深げに観察していた。
「マリエンヌにも同じようなことを言われました」
と、アルヴァは苦笑して息を吐く。それから、声を鋭くして。
「――時にお兄様。元老院に私の情報が伝わっているようですが」
それを聞いたエヴァートも、少しばかりの真剣味を表情に宿した。
「ああ、そのことなんだが……誰かが院に密告したようなんだ」
「ではやはり……お兄様ではなかったのですね」
「僕がそんなことをするわけないだろう。実際、イシュティール伯爵からの手紙を受け取りはしたよ。けれど、それを誰かに伝えてはいない。内容も巧妙にぼかされていたから、他の誰が見ても分からなかったろう」
「ええ、お兄様だけに分かるような書き方にしましたから」
「だからこちらとしても、まずは慎重に手紙で返事をするつもりだった。密かに落ち合える場所を、指定しようと思ってね、……ところがそんな時に、法務省に何やら怪しい動きがあった」
「法務長官に密告が行っていたというわけですか……」
元老院から選出される司法を司る役職を、法務官という。
その筆頭が法務長官であり、法務省はその部下を含めた組織なのだそうだ。
密告先として選ばれたのも、司法を司るという事情からだろう。
……実のところ、ソロンもあまりよく分かっていない。……が、難しい話はアルヴァに任せておけば大丈夫だろうと腹をくくる。
「ああ、問いただしてみたら、あっさりと白状してくれたよ。秘密裏に君を捕らえようか検討はしていたようだが、さすがに決断しかねていたらしい。そんなわけで、急いで僕が近衛隊の派遣を提案したわけだ」
「よくそれで通りましたわね」
「彼らにしても、君の扱いには困惑していたからね。提案は渡りに船だったらしい」
「……密告者は何者だったのでしょう?」
アルヴァは核心に迫る質問を投げた。
けれど、エヴァートは首を横に振って。
「密告書の差出人は無記名だったそうだ。内容に具体性がなければ、捨てられていた可能性もあっただろうな。分かっているのは、君の手紙よりも二日前に法務長官の元へ届いたということぐらいかな」
「二日前に……?」
アルヴァは顎に手を当てて、考える素振りを見せた。彼女が手紙を出したのは、伯爵と再会した翌日である。文面を検討するために、一日の時間を置いたのだ。
疑わしい時機と相手はいくらでもある。
上界に昇ってからイシュティールで手紙を出すまでに、いくらでも機会はあったのだから。
帽子で顔を隠していたとはいえ、アルヴァは有名人だ。ただの通行人が気づき、密告した可能性も否定できなかった。
「ふう……」
アルヴァはお手上げとばかりに息を吐いた。
「――分からないことを考えても仕方ありませんね。今日はそのために来たわけではありませんから」
長い前置きを経て、ようやく本来の要件を切り出せそうだった。
要件は先に送った手紙でそれとなく暗示してある。それはエヴァートにしても承知しているはずだ。
「君の追放刑について、今ならどうにかできるかもしれない」
エヴァートは自ら核心へと切り込んだ。
「元老院を説得できる見込みがあるのですか? 状況はさほど変わっていないことは、こちらでも承知しているのですが……」
これにはアルヴァも目を見開き、エヴァートを凝視した。
エヴァートは、ふと表情をゆるめて、
「セネリーのお腹も、もう随分と大きくなってきていてね」
と、急激に話題を転換した。
アルヴァは驚いた顔で。
「……お姉様が!? ああ、すみません。ずっと前から分かっていたことなのに……。私としたことが自分のことで精一杯で、すっかり失念していました。改めて、おめでとうございます」
セネリーというのは、エヴァートの妻のことだろう。つまり出産時期が近づいているというわけだ。
「そんなわけで、ちょうどいい機会になるだろう。下界からの帰還など前例がないからな。元老院でも容易に判断できないはずだし、つけ込む隙はあるだろう」
「ですが、それではまるで……。祝い事を利用するようで気が引けるのですが……」
アルヴァは申し訳ないような顔になった。
「問題ない」
エヴァートは即答した。
「――子供が産まれたお陰で、可愛い妹が返ってくる。めでたいことが二つになるなら、僕らにとってもこの上ない喜びだ」
「そういうことでしたら、ぜひともお願いします」
アルヴァは深々と頭を下げた。
「うまくいきそうでよかったね、アルヴァ」
ミスティンも自分のことのように喜んでいた。
「なるほど、そんな手がありましたか。これは幸運でしたね」
と、ナイゼルも感心をしている。
……話が脱線したかと思いきや、そうでもないらしい。ソロンは何の話をしているのか、今一つ分からず、
「どういうことなの?」
と、小声でナイゼルに聞いてみる。
それが耳に入ったらしく、アルヴァは自ら説明してくれた。
「皇子か、皇女か……。ともかくお子様の誕生に合わせて、恩赦を出してくださるということです」
「ああ、なるほど」
恩赦とは――皇帝の崩御および即位、子女の誕生を初めとした慶弔の機会に罪人への量刑を軽くすることである。
「そういうことさ」
と、エヴァートは首肯して。
「――まあ、できる限りはやってみるよ。……ただ、君が皇女だった頃の権限が戻ってくるかどうかは分からない。何らかの制約は課されると思っていたほうがいい」
「構いません。むしろ、そのほうがよいでしょう」
「それはまたどうしてだい?」
アルヴァの発言は、エヴァートにとっても意外に聞こえたらしい。
「はい。まず元老院が私を追放した理由として、私が彼らの脅威となったことが上げられます。なにせ得体の知れない杖を振り回し、強大な魔物を召喚したわけですから。加えて強権を振るい、元老院をないがしろにしたことも否定できません」
アルヴァは冷静な自己分析を見せた。
「なるほどな……」
「私の追放を取り消しても、元老院の脅威にならないと明示してみせるわけです。従って皇籍への復帰は不要ですし、帝国政府の職につくこともありません。私の希望はあくまで故国への帰還ですから、それ以上は何も求めません」
「理屈は分かったよ。君は皇族ではなくなり、イシュティール伯の孫娘となるということだな。けれど、もったいないように思うがな……。君の才覚を在野に遊ばせておくなど、宝の持ち腐れだ」
「高望みはしません。正直なところ、半ば駄目元ではあったのです。最悪、お兄様にご挨拶だけでもできれば……と」
アルヴァはそう結んだ。
「……そうか、君の思いは分かったよ。恩赦の件は任せてくれ」
残念そうにしながらも、エヴァートは首肯した。
「ありがとうございます、お兄様。それから、大事な要件はもう一つあるのですが……。ソロン」
そうして、彼女はソロンへと呼びかけた。
「えっ、なに?」
……が、ソロンは意図が分からず、逆に聞き返してしまった。
アルヴァはしばしこちらを見ていたが、諦めてナイゼルを向いた。
「では、ナイゼルさんからどうぞ」
「はは、すみませんね」
と、満を持してナイゼルが立ち上がった。