海都の休日
翌朝、ニバムは予定通りに港へと向かった。
伯爵家の館はイシュテア海に面しており、港ともさほど離れていない。
見送りに向かったアルヴァに、ソロン達も同行した。なんだかんだいって、泊めてもらっている以上は礼儀を尽くしたい。
穏やかな海は朝の日射しの中に、青く透き通っていた。
港には五隻の軍船があった。いずれの船も高々と帆が張られている。これが魔物と戦うための船団となるらしい。
そして、船団に乗り込む兵士達が規律正しく整列している。
ニバムは立派な杖を振りながら、彼らに指示を下していた。
聞くところによれば、彼は魔道士としてもかなりの力量なのだそうだ。さすがはアルヴァの祖父である。
海では接近戦を挑みづらいため、魔法は重要だった。もちろん、伯爵もそれを理解しており、兵士の中には杖を持つ者を多くそろえていた。
伯爵の隣に従っているのは、次男ダナムだ。
彼のほうは杖ではなく剣を下げていた。こちらは魔法を使えないのかもしれない。
船団は、三隻と二隻の二つに分割して運用するらしい。三隻の側をニバム、二隻の側をダナムが率いる手はずになっていた。
さらにはそこに、イシュテア海の近辺を領有する諸侯も加わる。
海竜が現れたというラスクァッド島の近海――そこにある多数の島のどこかに、魔物は潜んでいるという。まずはラスクァッドの港町に集結し、手分けして魔物の捜索を行うことになっていた。
「では行ってくるぞ、アルヴァ。短い間とはいえ、お前と別れるのは惜しい……。だが、船を沈める悪しき魔物を討伐せねばならんのでな。大人しく留守番していれば、そのうち陛下からも連絡が来るやもしれん。それまでに私が戻れるかは分からぬが、その場合はマリエンヌと相談して対応を決めてくれ」
「分かりました。お祖父様……。どうかお気をつけて」
どこかよそよそしさは抜けないが、昨日の冷え切った空気はいくらか緩和されていた。
ソロンは心中で一応の安堵をする。自分に非はないと思っているが、それでもアルヴァと祖父の仲が穏やかでないのは、見ていて辛いものがあった。
「お前もいい歳なのだからな。あんまり無理をするでないぞ。せっかくその歳まで生き延びたのに、海竜のエサになってくたばらんようにな」
伯爵の旧友ガノンドが憎まれ口を叩いた。それでもその表情には、どこか旧友への気遣いが窺えた。
「くくっ、馬鹿を言うな。体は衰えたとはいえ、わが雷光の魔法は健在だ。海竜など海の藻屑にしてくれようぞ」
ニバムの杖先に光る魔石は紫色。アルヴァと同じ雷の魔石だった。
雷は相当に難易度の高い魔法系統であり、そこからも伯爵の実力が窺い知れた。
「大丈夫だ、アルヴァ。今回の戦いには俺が付いているからな。そうそう親父も危険な目に遭うことはないとも」
ダナムは人の良い笑顔を見せた。『頭のほうは今一歩』などと酷い表現を父にされていたが、好人物のようには見える。
「ダナム叔父様もお気をつけて」
アルヴァは一礼をして、別々の船へと乗船する二人を見送った。ソロンも目立たぬように、そんな彼らの姿を見守っていた。
やがて遠ざかる五隻の船団が、イシュテア海の水平線の向こうへと消えていった。
*
それから数日が過ぎた。
遠征したニバムからの連絡はなかった。
ラスクァッド島までは、帆船でも七~八時間といったところらしい。つつがなく進んだならば、既に魔物退治が済んでいてもおかしくはない。
……とはいえ、相手は正確な居所も分からぬ魔物である。一日や二日で所在を突き止め、退治できるとは考えないほうがよいだろう。
皇帝エヴァートへ送った手紙も、返事は来ていない。
もっとも、帝都とイシュティールの間は往復で四日程度を所要する。当然といえば、当然ではあった。それも、皇帝が速やかに返事を送り返したという想定の話である。
そもそも、ソロン達が帝都に寄った時点では、エヴァートはベオに向かっていたのだ。
つまり今も、彼が帝都に戻っているとは限らない。まだしばらくは、返事が来ないと想定したほうがよさそうだった。
どちらにしても、今できるのは待つことばかり。ソロン達にとって、久々の自由時間が訪れたのだった。
アルヴァにとっては、六年振りとなる母方の故郷である。イシュティールは観光地としても有名であり、見るべき場所は多彩にあった。
「いい機会だしマリエンヌさんと、観光でも行ってきたら?」
そこでソロンはアルヴァに向かって、そう勧めてみた。
「マリエンヌと……ですか?」
いかにも意外といったふうに、アルヴァは目をきょとんとしていた。
「そうそう、君にとっては第二の母さんみたいな人なんでしょ? たまには労ってあげないと」
「ふうむ……。そう言われてみれば、二人で休暇を過ごした経験はあまりなかったように思いますね。分かりました。誘ってみましょう」
* * *
静かに寄せる波の音。
イシュテア海の浜辺を、主従二人は歩いていた。
先をゆくアルヴァの後ろを、少し離れてマリエンヌが黙って付き従う。
はてさて、何を話したものか――と、ゆったりと歩を進めながら、アルヴァは頭を悩ませていた。
付き合いは長く、無言でもさして気まずくはならない間柄ではある。……が、それだけに無駄な話も普段からしないようになっていた。
こうして仕事を離れると、何を話してよいのか分からなくなる。
話したいことはたくさんあるはずなのに……。自分も案外、不器用な人間なのだと痛感させられる。
透き通った海を眺めていて、ふと思いついた。
「知っていますか? マリエンヌ。下界の海は塩辛いのですよ。イシュテア海とは違って、人には飲めない水なのです」
アルヴァは絶対にマリエンヌが知らない知識を披露した。
「まあ、そうなのですか? どうしてそうなっているのでしょう?」
マリエンヌも興味を引かれたらしい。話題にしてよかった。
「いくつか推測はできます。例えば、土壌に含まれていた塩分が、海中へと溶け込んでいるのではないでしょうか。その塩分が蓄積されやすい地形になっているため、塩辛い水が生まれたとも考えられます。……もっとも、あくまで推測です。ソロンも分からないと話していましたから」
ところが、マリエンヌは今の説明にあまりピンと来なかったらしい。
「そうなのですか? 下界とは何かと不思議な場所なのですね。……ソロンさんとは、よくお話しされるのでしょうか?」
あっさりと話の矛先を変えてきた。
何気なくといったふうではあるが、どこか探りを入れるような雰囲気である。
「まあ、そうですね。下界で助けてもらって以来、よく話しますね。別にソロンだけではなく、ミスティンともそうですが……。今回マリエンヌを連れ出したのも、ソロンの発案なのですよ。たまには労れ――ということなのだそうです」
「お優しい方なのですね。……やはり、気に入ってらっしゃるのですか?」
予想の範疇に違わぬ質問が飛んできた。
「ええ、とても気に入ってはいますが……。ただ、特別な関係などではなく、まあ、弟のようなものですよ」
「……そういえば以前、弟が欲しいとおっしゃっていましたね」
「そんなことを言いましたか? 記憶にありませんが……」
首を傾げて記憶を探ってみるが、思い当たる節がない。
……いや、実際は何度となく心中では思っていたのだ。しかし、口に出した覚えはなかった。
「イルファ様が亡くなるよりも前の話ですよ。誕生日に何が欲しいかと聞かれて……」
ということは、十年以上も前の話である。
実のところ、一度は弟が誕生したのだ。
……が、それも生まれて数日で死んでしまった。それ以来、体を弱くした母は、子を産みたくとも産めなくなってしまった。
さすがに幼いアルヴァでも、それを何となくは悟っていた。弟が欲しいとは内心で思っていても、強くは主張をしなかったはずだ。
……いや、強くは言わなかったけれど、一度ぐらいは口を滑らしたような気も……。なんせ、あの頃のアルヴァは子供だった。今のような確固たる自制心を持ち得なかったのだ。
「……言ったかもしれません。よく覚えていましたね」
「それはもう、イルファ様がとても困っていましたから。あの方は、大抵のことを私に相談しましたので」
マリエンヌはどこか誇らしげだった。母の侍女であり秘書であり親友であったことを、彼女は今も誇りに思っているのだ。
「母がそんなことを……」
母は気に病んでいたのだろうか……。だとしたら、申し訳なかったなと思う。もっとも、後悔しても詮ないことではあるけれど。
「代わりに弟を産んでみないか――なんて、冗談とも本気ともつかないこともおっしゃっていましたけれど」
「は、はあ……」
さすがに返答に困る。
「ふふっ」
と、マリエンヌは笑って。
「――それで、ソロンさんは弟としていかがですか?」
「……悪くはありませんね。何事にも一生懸命ですし、家臣でもないのに何かと私に尽くしてくれます。少し頼りないところもあるのですが、個人的にはそこも嫌いではありません」
視線を海へと外して、何でもないように口にしてみた。……自分でも何を語っているのだろう――と思わないでもない。
「あまり優秀すぎても、可愛げがありませんものね」
マリエンヌが正確に理解してくるのが、また腹立たしい。そう言いながら、彼女は後ろを振り返った。
視線の先にはずっと離れた二人の姿――ソロンとミスティンがこちらを見守っていた。
念のため、二人が護衛を買ってくれたのだ。離れているのは、マリエンヌとの水入らずを邪魔しないためだそうである。
……それにしても、なんだか二人は仲が良さそうに見える。
何を話しているのかまでは聞こえない。けれど冗談らしきことを言ったり、小突き会ったりと楽しそうだ。
アルヴァにはああいった関係の友人はいなかったため、少しうらやましい。
「……もしかして、あれがうらやましかったのですか?」
二人をじっと見ていたら、マリエンヌに声をかけられた。
「へっ?」
「昨日は申し訳ありませんでした」
「何がですか?」
「叱ったことです。……ああいうのが、うらやましかったのですよね」
ミスティンの頬をつねっていた件のようだ。
「いえ、別にうらやましいという程では……。ただ、なんとなく楽しそうだな――と」
思わずごまかそうと答えたが、あまりごまかしになっていなかった。
「そうですか。仲良くできるとよいですね。明日はもう少し大勢で、遊びに行かれてはどうでしょう?」
マリエンヌは母のような笑みを、まだ若々しい顔に浮かべた。
「それは悪くないかもしれませんが。……マリエンヌだって、別に私のために一生を捧げる必要はないのですよ」
その辺りで、アルヴァも反撃に打って出ることにした。
マリエンヌは幼少の頃、母の侍女として伯爵家に連れて来られたという。出自は母から見て、母方の再従姉妹に当たるそうだ。そして伯爵家に来て以来、浮いた話はとんと聞かない。
「と、言いますと?」
しかし、マリエンヌはとぼけてみせた。
ならば――とアルヴァははっきりと口にしてみせる。
「縁談です。今からだって遅くはありません。ひいき目を抜いても、同年代の女性よりは美しいと思いますよ。もちろん持参金も私が用意します。積極的に探す気さえあれば、引く手は数多あるでしょう」
「必要ありません。世話を焼く相手は一人いれば十分ですので。ああ……でも、あなたご自身が家族を増やされるなら、その方もお世話いたしますよ。私はいつになっても、どこにいっても、アルヴァ様にお仕えしますので」
マリエンヌは清々しく言い放った。
「そうですか。……なら私も、あなたが歳をとっても、老後の面倒は見て差し上げますよ」
アルヴァは諦めたようにそれだけ答えた。