イシュティール伯爵
マリエンヌの案内に従って、ソロン達はイシュティール伯爵家の廊下を進んだ。
ちなみに、イドリスの兵士達は別室に待機させてある。領主と会うのに、兵をゾロゾロと連れては無礼に当たるからだ。
外装と同じ白を基調とした内装。華美ではない落ち着いた装飾には、ソロンも好感を持った。
「そう言えば、アルヴァは六年振りに来たんだっけ?」
「はい。道中で話した通りですよ」
「それじゃあ、お祖父さんとは、そんなに何度も会ってるわけじゃないのかな?」
話を聞いた限り、当の伯爵とアルヴァは親密そうな印象を受けた。とはいえ、六年も会っていなければ、思ったほどではない。身内とはいえ、疎遠な相手なら警戒も必要だ。
「そういうわけでもありません。お祖父様は元老院議員として、年に何度も帝都を訪れます。その際には、必ず私の元へ会いに来てくださいました。皇帝になってからも何度か会っていますよ」
「それならよかった。仲がいいんだね」
「はい。父方の祖父と同じくらい敬愛しております」
父方の祖父――つまりはアルヴァから見て先々代の皇帝のことだろう。
彼女は自らに流れるサウザード皇家の血筋を誇りに思っている。その皇家の祖父に匹敵するほど――という表現は相当な賛辞と考えてよさそうだ。
……と、そこで視線を感じた。
マリエンヌが不思議そうな表情でこちらを凝視していたのだ。
それでソロンもハッと気づいた。この場において、アルヴァとなれなれしく話すのはまずかったかもしれない。
なんせ、一ヶ月半に渡ってこの調子だったのだ。
それもただの一ヶ月半ではない。四六時中一緒にいるような濃密な一ヶ月半である。最初はぎこちなかったやり取りも、今ではすっかりなじんでいた。
当のアルヴァ自身が友人か、はたまた姉のような距離感で接してくるのだ。ソロンも自然、それに順応してしまった。
「いや、これはその……。ごめんなさい、なれなれしくしてしまって……」
アルヴァに向けたのか、マリエンヌに向けたのか、微妙な角度でソロンはおどおどと言った。
ところが、アルヴァはソロンの肩に手をやって。
「大丈夫ですよ。マリエンヌはそんなことで、あなたを咎めたりはしません。だいたいイドリスの王弟殿下ともあろう者が、萎縮しすぎです」
マリエンヌもその言葉を受けて、軽く微笑んだ。
「ええ、皇族の方でも、ご友人と対等の交わりを結ばれることは珍しくありません。特にソロンさんのように、目覚ましい功績を挙げられたならばなおさらです。なので、私の前でも普段通りにしていただいて結構です」
「そういうことです」
と、アルヴァは鷹揚に頷く。
それでどうにかソロンも気を抜いた。
「ですが、それにしても仲がよろしいので驚きました。アルヴァ様は、どちらかと言えば友達作りが苦手だったのに……」
マリエンヌは本人を前にしても遠慮がない。
「一言余計ですよ、マリエンヌ」
案の定、アルヴァは少しすねた口調でくちびるをとがらせた。
出会った頃には、決して見せなかったような表情だ。きっと、マリエンヌやソロン達のように、親密な者にだけ見せる表情なのだろう。
「大丈夫。私とソロン、少なくとも二人は友達がいるから」
ミスティンはマリエンヌに向かって胸を張った。口調は砕けており、どこか友達の母にでも声をかけているような雰囲気だ。……実際、その程度の認識なのだろう。
「俺も俺も。友達かどうかは知らんが、仲間だとは思ってるぞ」
仲間外れは嫌だとばかり、グラットも手を上げた。
「はいはい、分かっていますよ」
と、アルヴァも穏やかに返事をする。
先導するマリエンヌは、そんな様子を横目で微笑ましげに眺めていたが……。ふと思い出したように振り返った。
「ああ、でも、ニバム様の前でその調子だとまずいかもしれませんね」
「やっぱり、礼儀にはうるさい方なんですか?」
「いえ、普段はさほどでもありません。ですが、男性の友人となると少々難しくなりそうです。なんせ、かわいい孫娘ですからね。その辺りの機微は、世間のどこの家庭とも変わりないと思いますが……」
マリエンヌは濁すように言ったが、もちろんソロンにも言わんとすることは伝わった。
「ああ、どこの馬の骨とも分からぬ奴に、わしの孫娘はやれん!――的なヤツっすね。そいつは確かに厄介だ。注意しろよ、ソロン」
グラットが身もフタもない言い方で説明してくれた。
「グラットもでしょ?」
と、ソロンが言い返せば、
「残念ながら、俺は対象外だ」
グラットはピシャリと断言した。
*
そうして、ソロン達は伯爵の部屋へと案内された。
目に入ったのは、厳格そうな顔つきをした老人の姿。だがその顔はアルヴァの姿を見るなり、一瞬にして崩れ落ちた。
「おお、アルヴァや!」
老人がアルヴァへと抱きついた。このところ、彼女は何度となく人に抱きつかれている気がする。
「お祖父様……。ご心配おかけしました」
老人――イシュティール伯爵ニバムは滂沱の涙を流していた。いつかのガノンドにも劣らぬ勢いだ。
ニバムはがっしりした体つきの男だった。
六十路を過ぎたガノンドと同程度の年齢だろうに、見た目の立派さは現役の兵士にも劣るものではない。
その茶髪には白いものも混ざり始めている。
年齢によるものなのか、あるいは愛する者達を失った悲しみもあったかもしれない。だが、その一人は無事に彼の元へと帰ってきたのだ。
涙流れる老人の瞳が、紅く輝いて見えた。
涙で充血しているのではない。アルヴァと同じ紅い瞳を彼も持っていたのだ。彼女の瞳の色は皇帝家ではなく、こちらの家系から遺伝したものなのだ。
そもそも、そうでなければ、彼女だけが紅玉帝などと呼ばれたりはしない。
「途方もなく心配したぞ……。下界に落とされたと聞いて、もう会えないものだと思っておった。恐ろしい思いをしたであろう。だがもはや、私がいる限りはお前を危険な目に合わせたりはせんぞ」
アルヴァを抱きしめるニバムを、マリエンヌは目を細めて眺めていた。マリエンヌは、アルヴァの母に長く仕えた家臣であり友人だったという。ニバムとも長い付き合いなのだろう。
「頼りになりそうな、じいさんでよかったな」
「うん。これならアルヴァを守ってくれるかな」
グラットのささやきに、ソロンも小声で返した。ミスティンも「うんうん」と頷いていた。
改めて部屋を見渡せば、調度品の中にまぎれて四人の人物が描かれた絵画がある。
今よりも若い壮年の伯爵に、その妻らしき人物。美しい茶髪の女性に、手を引かれる黒髪の少女の姿が描かれていた。
伯爵の妻を除けば、絵画の登場人物は皆が紅い瞳をしていた。
少女が幼き日のアルヴァなのは、考えてみるまでもなかった。茶髪の女性がその母に違いない。
ニバムはその絵を眺めながら、アルヴァが無事に帰ってくる日を願っていたのだろうか。
「ありがとうございます、お祖父様。……それから、下界に降りた私がここにいるのは、助けてくれた方々のお陰です」
そう言って、アルヴァは伯爵から体を離した。
彼女はこちらへと向き直り、伯爵へと紹介するように手を伸ばした。
「イドリス王国より参りました。セドリウスの子――ソロンと申します」
とりあえずは、ソロンが代表として名乗ることにした。
「ふむ……。マリエンヌから、下界の出身者が助けに向かったと聞いてはいたが……」
「はい。下界では相当に過酷な目に遭いました。ですが、そこに彼が駆けつけてくださったのです。他の皆様にしても、何度も私を助けてくださいました」
アルヴァはソロン達を誇るように言った。
「このような少年がそれだけの役目を果たしたとは、にわかには信じられんな。そもそも、どうやって下界とこちらを行き来したのだ? 下界へのカギは、皇城で厳重に管理しているとのことだったが……」
その口調にソロンは緊張せざるを得なかった。
いつの間にか、ニバムの顔はいかめしい老人のそれになっている。孫娘との再会で見せた温和さは、もはや見られなかった。
それどころか、伯爵は鋭い眼光でソロンを値踏みしているようにも思えた。
「僕は下界の生まれですから……。あちらにも行き来するカギが残っていたのです。それで幸運にも、彼女を助けることができました」
鋭い眼光にたじたじとなりながらも、ソロンは答えた。
「雲の下に人がいるなど、にわかには信じ難いが……」
「そう言われましても……。実際に僕は雲の下から来たのです」
……それにしても、どうしてこんなことをわざわざ尋ねるのか。
見知らぬソロンを疑う気持ちは、分からないでもない。だが、他ならぬアルヴァ自身が、ソロンに助けられたと証言しているのだ。ならば、まずは受け入れるのが道理ではあるまいか。
「これ、ニバムよ。わしの教え子を威圧するでないぞ」
助け舟を出したのは、意外にもガノンドだった。