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雲海のオデッセイ  作者: 砂川赳
第五章 蒼海をゆく
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海都イシュティール

 フラメッタの町を馬車で出発した一行は、川の西岸沿いを北へ進んだ。

 川はやがて西へと曲がっていく。その川に沿うように街道も曲がって敷かれていた。

 一行の前に、北岸へ渡る大きな橋が見えた。しかしそれは渡らずに西へと進み続ける。

 ゆるやかに流れる川――その川沿いの坂を(さかのぼ)るように登っていけば、やがては大きな水たまりが見えてきた。


 帝国最大の海――イシュテア海である。

 そして、そのそばには壁で囲まれた町の姿があった。

 現在地から町まではゆるやかな下り坂になっており、壁の向こう側も覗くことができる。白い壁で囲まれた町は、青い海と見事に調和していた。


 それこそが海に臨む町、海都イシュティールだった。

 上界の日射し――それも昼下がりの好天に見る海は美しかった。遠くからでも、青くきらめくイシュテア海の水がよく見える。


「綺麗だな~。上界の海はこんなに透き通ってるんだ」

「そうでしょう。マリエンヌも故郷の美しさを、よく自慢していましたからね」


 どこか誇らしげにアルヴァが言った。イシュティールは彼女にとっても、思い入れのある土地なのかもしれない。


 外壁の門をくぐって、イシュティールの町中に入った。

 (さえぎ)る壁がなくなったためか、海風がソロン達へと吹きつけてくる。


「おお~、涼しくていいじゃないか」


 季節は八月の夏の盛り。帝国の暦では季節通りの日輪の月である。海水に冷やされた風は、ソロン達の体を心地よくなでた。


「ええ、真夏の潮風は気持ちのよいものですね」


 帽子を押さえながら、アルヴァがグラットに賛同した。

 ソロンはふと気になって。


「そういえば、こっちでも潮風って言うんだね」

「それがどうかしたのですか?」


 何がおかしいのか――と、言わんばかりにアルヴァがこちらを見た。


「シオだよ。しょっぱい塩と海の潮。こっちには塩の海はないけど同じ音なんだね」

「……もしかして、同じ語源なのですか?」

「ええ、元々は同じ言葉という説が有力ですよ」


 下界でも博識で鳴らすナイゼルが、眼鏡を無駄にクイッと押しやった。


「――先に海を表す潮という言葉があり、そこから産出されるものを塩と呼ぶようになったのだと」

「ははあ……。無関係な同音異義語だと思っていましたよ」


 アルヴァが感心しながら口にした。


「――なるほど……。現存する言葉の多くは先史時代に生まれたものであり、その由来も失われたと考えていましたが……。下界には、上界で失われた知識も眠っているのですね。原始の上界人は、下界からやって来たという有力な証拠ともなるでしょう」


 アルヴァによれば、上界には塩の海が存在しないという。

 となれば、塩と海を結びつける要素はなに一つ存在しなくなる。塩の語源など推測できるわけもなかった。それでも塩の海はなくとも、潮という言葉だけは残っていたのだ。


「言葉の由来で言うなら、本当はここの海も、下界のマゼンテ海も『海』じゃないらしいけどね。君がこの前、読んでた本にもあったろうけど」

「そうでしたね。あの呪海のあった場所が、元来は陸よりも(はる)かに巨大な海だったとか……。その定義によれば、現存する海は全て湖に過ぎないと……。もっとも、私も今更イシュテア湖などとは呼びたくありませんが」

「確かに。みんなもう、それで馴染んじゃったし。……アルヴァはこういう話が好きだよね」

「そうですね。下界に関わる話は、私の好奇心が大いに満たされます。また、色々と聞かせてください」

「う、うん……。今は思いつかないけど、また考えとくよ」


 旅の目的地は今や目前に迫っていた。

 そしてそれは、彼女との別れを意味するかもしれなかった。再びこのように話す機会は訪れるのだろうか……。


 イシュティール伯爵家は海沿いに面しているという。

 ソロン達はアルヴァの案内に従って、海側へと進んでいった。目的地は町の領主の館でもある。案内がなくとも迷うような場所ではなかった。


「アルヴァは前にも来たことあるんだよね? そんなに堂々と歩いて大丈夫?」


 ソロンとしては、やはりアルヴァのことが心配である。なるべく彼女の姿を隠すように前を歩いていた。


「問題ないでしょう。以前に訪れたのは六年も前ですから。今とは背丈も随分と変わっています。その上で帽子もかぶっていれば、気づく者はまず居ないでしょう」


 当時のアルヴァは十二歳。そこから十八歳までといえば、子供から大人になりつつある時期である。そして何よりも女性が美しく変化する時期でもあった。


「それもそうか。でも、あんまり前に出ないでね」


 ソロンは軽く釘を差しておくに留めておいた。

 ミスティンがアルヴァを見つめながら。


「十二歳のアルヴァか~。ちょっと見てみたかったね。絶対かわいいと思う。今でもかわいいけど」

「どんなだったんだろうなあ。お姫様なら子供の時でも、今のソロンぐらいは簡単にやり込めそうだよな」


 グラットがソロンを引き合いに出しながら、アルヴァをほめた。


「あんまり否定できそうにないのが悲しい」


 十二歳のアルヴァにやり込められる自分の姿を、思わず想像してしまう。


「まだ皇学院にも入学していない時期ですから、今よりはずっと世間知らずでしたよ。大半は城で学業を送る日々でした。ただ両親やマリエンヌには、色んな場所に連れていってもらった記憶があります。……それより、私としては十二歳のソロンがどんなだったかが気になりますね」


 矛先をソロンに転じたアルヴァが、かすかな笑みを作った。


「あ~、それは私も見たい。絶対かわいいと思う。今でもかわいいけど」


 ミスティンがまた同じようなことを言い放った。


「いや、ちょっとやめてよ。僕は男の子だからね」

「ええ、ええ……。それはもう、本当にかわいかったですよ。五人ほど告白されましたからね」


 待ってましたとばかりに、ナイゼルが口を挟み出した。

 余計なことを言わせれば、この男に敵う者はいない。眼鏡が爛々(らんらん)と輝いている。……嫌な予感しかしなかった。


「うむ、そうじゃなあ。わしも赤子の頃から見ておったが、途中までは王子だとは信じられんかった。ペネシア陛下も女の子が欲しかったみたいでの。いっそ女の子として育てようかと、真剣に悩んでおったぞ。さすがに父君が止めさせたがな」


 ガノンドが昔を(なつ)かしむように語った。彼はソロンが生まれる前から、イドリスにいたのだ。


「なにその、いらない新事実!?」

「なんだかんだいって、ソロンも結構モテてたんだな。まあ、かわいい男が好きな女もいっぱいいるしな。そいつみたく」


 グラットが勝手に納得して、ミスティンを指差した。当のミスティンも反発するどころか「うんうん」と頷く。

 ところがナイゼルは――


「坊っちゃんが女子にモテたなんて、私は一言も言ってませんよ。五人とはもちろんだ、むぐっ――」

「やめ! その話はやめ!」


 ソロンはナイゼルの口を寸前でふさいだが、


「うち三人は……坊っちゃんを女性と勘違い。残り二人は男性と知ってなおも――」


 なおも、ナイゼルは続けようとした。


「ていうか、なんでそんな詳しいんだよ!?」

「まあ……」「わわ~……」


 アルヴァとミスティンが、何とも言えない表情でこちらを見ていた。


 *


 ナイゼルをなんとか黙らせた頃、ソロン達は海沿いの道に差しかかった。

 砂浜に押し寄せる波の音が聞こえてくる。海鳥が空を駆け巡り、鳴き声で辺りをにぎわしている。

 遠くを見れば、水平線の向こうから雲が立ち昇るように続いていた。


 やがては大きな港が見えてきた。雲海の港ではなく、海の港を帝国で見るのは初めてだった。

 コンクリート製の港に停泊する帆船(はんせん)の姿が、あちこちに散見された。帝国では、水上船などと奇妙な表現をされるそれである。


「相当に広いよね。実際のところ、どれぐらいあるのかな?」


 地図を見る限り、このイシュテア海の大きさは下界のマゼンテ海に及ばない。それでも巨大な海に変わりはなかった。


「そうですね……。北西にあるニキューズの町が、ここの反対側になるのですが。――そこまでゆくのに、船で十五時間といったところでしょうか。帆船なので無論、風向きにも左右されますけれど」


 船で渡るのに十五時間もかかる海。ちょっとした国なら、収まってしまうような広大さだろう。


 *


「あれがお祖父様の館です」


 イシュティール伯爵家は、海に面した立地にある館だった。立派に構える白レンガの館である。


「これは……綺麗な館だね」


 白を基調とした伯爵家は、前面に広がる海と合わさって見事に映えていた。

 好天に恵まれた今、透き通った海が青くきらめいている。帝都に住む貴族が、いかに豪華な館を造ろうとも、この景色は決して手に入らないのだ。


 伯爵家の様子を少し離れて確認する。

 門前には二人の衛兵が見張りをしていた。

 今までにも何度か見たが、イシュティール兵の鎧は青みがかった銀色が特徴らしい。


 こちらは十人の団体である。衛兵達は警戒するような素振りで、近づくこちらをじっと見ていた。

 アルヴァはソロンの後ろ側を、控えめに歩いていた。帽子をかぶりながら、今も目立たないようにしているのだ。


 やがて門前にたどり着いた。衛兵達の顔がはっきりと確認できる。

 ここでもアルヴァが直接前に出れば、騒ぎになる可能性もあった。

 ここはソロンが前に出るしかなさそうだ。

 (れっき)とした貴族であるミスティンもいるが、こういう場では当てになりそうもない。


「えっと、すみません。マリエンヌさんは――」


 ソロンがそう衛兵に伝えようとした時――


「ああ、あんたは!?」


 ソロンの顔を見た衛兵が突如、声を上げた。

 思わずソロンはギクリとなった――が、よく見れば相手は見知った顔である。マリエンヌと共に、ソロン達を界門へ案内した兵の一人だった。


「連れてきましたよ」


 ソロンもそれだけ言って、控えめな仕草でアルヴァを目で示した。彼女も目深(まぶか)にかぶっていた帽子を上げて、衛兵へと軽く礼をした。

 衛兵は今にも叫び出さんばかりだったが、それを押し留めた。


「マリエンヌ殿を!」


 その代わりに、門の向こうにいる衛兵へ呼びかける。呼びかけられた衛兵も事態を察して、ただちに走り出した。


「ありがとう、ありがとう……」


 見知った衛兵はソロンの手をつかんでゆさぶり、それからアルヴァの前へと走った。


「アルヴァ様、お怪我はございませんか?」

「大丈夫です。ありがとう、ジョアン」


 アルヴァも衛兵の名前を呼んで、それの返事とした。


 やがて、中年の女性が館の庭を駆け寄ってくる姿が見えた。

 相当に急いできたらしく、息が上がっている。年齢は四十代手前と思わしき茶髪の女性。

 アルヴァの元秘書官――マリエンヌだった。


 すぐに門が開かれて、マリエンヌはアルヴァに駆け寄った。

 アルヴァは目深(まぶか)に帽子をかぶっていたが、マリエンヌは迷う様子もなかった。


「ご心配を……おかけしました」


 マリエンヌに強く抱きしめられて、アルヴァが言った。


「いいえ、よくぞご無事で……」


 マリエンヌも首を振って言葉を返す。

 その目には涙が浮かんでいた。心労の中で数ヶ月を過ごしたためか、少しやつれているようにも見える。

 そんな彼女を、アルヴァもしっかりと抱きしめ返す。


「そこにいる皆さんが、助けてくれましたから」


 それから、マリエンヌはソロン達のほうを見た。

 ソロン、グラット、ミスティンの三人については既に知った顔だ。

 ナイゼル達を見てわずかに怪訝(けげん)な顔をしたが、問うては来なかった。


「皆様、ありがとうございました」


 マリエンヌは深々と礼をした。それから頭を上げて。


「――ニバム様もお喜びになるでしょう。どうぞ、中にお入りください」


 マリエンヌは門の内側へとこちらを招き入れた。どうやら、ニバムというのがアルヴァの祖父たる伯爵の名前らしい。

 一連の様子を見ていた衛兵達も、一行に向かって深々と頭を下げていた。

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