人兎の娘
「うい~、姫様、おはようございますじゃ。今日も朝からお美しいですなあ」
翌朝、宿で顔を合わせた時には、ガノンドも調子を取り戻していた。……いや、少しばかり顔が赤いような気がする。
「お爺ちゃん、酒臭いよ」
ミスティンがいち早く、そのにおいに気づいた。
「ガノンドさん。朝からお酒ですか……。いい加減、歳をわきまえてください」
ガノンドのお世辞には眉一つ動かさず、アルヴァは冷ややかな視線を投げ返す。
「朝からではありませぬ、夜からですぞ。朝のこれはイドリスの伝統――迎え酒です。そうやって眉間にシワを寄せては、美しいお顔が台無しですぞ」
ガノンドはアルヴァを相手にして一歩も引かなかった。
「…………」
「じょ、冗談ですじゃ……。老いぼれの戯言と思い、どうかご慈悲を……」
と思いきや、アルヴァににらみ返されてすぐに折れた。ガノンドは今にも平伏しそうな勢いである。
「昨夜は程々で切り上げるならば――と付き合ったのですが……。ご覧の有様です。不肖の父に代わって、私が謝罪いたします」
ガノンドと同室だったナイゼルは、首を横に振りながら釈明した。
ナイゼルは二日酔いの症状が出ているらしく、頭を押さえていた。ひょろい見た目の通り、酒には強くないのだ。
四人の兵士達も付き合ったらしく、気分を悪そうにしている者もいた。
「まあ、いいじゃねえか。たまには酒盛りもいいもんだぜ。爺さんだって、酒飲んでヤなこと忘れたい時もあるってこった」
グラットはガノンドを擁護した。
どうも、昨夜の酒盛りには、彼も参加していたらしかった。もっとも、グラットは酒に強いのでケロリとしている。
アルヴァはこれ見よがしに溜息をついて、
「こんな状態で馬車に乗れるかどうか、いささか不安ですが……。ソロンはこんな大人になってはいけませんよ」
と、なぜだかこちらに視線を向けた。ガノンド達をたしなめるのは諦めたらしい。
*
少し出発の時間を遅らせたものの、河沿いの宿を一行は発った。
ゆるやかに流れるセミューレ大河の水が、朝日の中にきらめいている。それを横目にして、馬車の駅へと歩いた。
馬車に乗れば、フラメッタから海都イシュティールまでは一日もかからない。この日のうちに目的地までたどり着ける見込みだ。
駅の建物が見えてきた。職員用の駅舎、馬小屋、車庫、停留所がひとまとまりになっているため、それなりに大きな施設だった。
停留所に近づいたところで、蹄の音が聞こえてきた。そして、二頭の馬に引かれた馬車が到着した。
まだ朝に含まれる時間帯である。夜を飛ばしたはずはないので、近郊の町を早朝に出発して来たのだろう。
馬車から乗客がぞろぞろと降りてきた。
全部で十人といったところだろうか。見たところ、ひとまとまりの団体ではない。他人同士を一緒に乗せてきたのだと思われた。
「ん……?」
ソロンの目を引いたのは、最後に降りた若い娘だった。
肩にかかる薄紅色の髪が鮮やかだった。どことなく気品はあるが、貴族のような華美な服装ではない。どちらかといえば、丈夫で動きやすそうな服装をしていた。
「あの女の子……」
ソロンが指を差せば、
「好みなのか? ついにお前も色気づいたか?」
グラットが見当違いの方向に持っていこうとした。ひょっとしたら、わざとやっているのかもしれない。
「……違う、あの耳」
娘は薄紅の髪から、ウサギのような耳を生やしていたのだ。
亜人のはずだが、顔つきは随分と人間的である。耳と髪色を除けば、遠目には人間と区別がつかないほどだ。
「おお、オリドナ! オリドナではないか!?」
突然、ガノンドが叫びだした。停留所へと一気に駆け寄る。泣きながら娘にすがりつかんばかりだ。
「ちょっ、先生!?」
ソロン達も小走りでその後を追った。
「な、なんだよ、あんたは!?」
しかし、娘は狼狽し迷惑そうにしていた。
「爺さんの愛人が生きてたってか? それにしたって、ちょっと若すぎないか?」
グラットは首をかしげて、娘の顔を眺めていた。どう見ても精々がソロンと同年代にしか見えない。
「いえ、これは噂のご息女のほうでしょう。年齢的にも違いありません」
取り乱すガノンドをよそに、アルヴァは落ち着き払っていた。
「落ち着けって! オリドナはあたしの母さんだけど……」
亜人の娘はガノンドを押しのけながら告げた。
「なな、なんと! では、お前はオリドナの娘なのか!?」
「うん、そうだよ。爺さん、あんたは母さんの知り合いかなんかかい?」
「知り合い……。そうじゃな、知り合いじゃよ。わしは……あの子の主人じゃった。帝国に戻って、二十年ぶりに会いに来たんじゃが……」
さすがのガノンドも、愛人にしていたとは言えなかったらしい。またもガノンドは泣きそうな顔になった。
二人の奇妙な邂逅劇に、駅の利用者からの視線が集まっている。
「…………すると、母さんの奴隷時代のご主人様ってことか? ほら、泣くなよ。会えなくて残念だったのは分かったけどさ」
娘は困惑の体でオロオロと周囲を見回し、そこでソロン達の存在に気づいた。
「爺さんの知り合いかい? なんとかしてくれないかねえ?」
「これは失礼しました。ほら父さん、落ち着いてくださいよ」
娘の懇願に、ナイゼルが応える。ガノンドの背中に手をやって、さすり始めた。
「ふう……」
亜人の娘は人心地がついたようで、ほっと息を漏らした。
そこにミスティンが近づいて、娘の顔を覗き込む。ミスティンらしい無遠慮な所作だった。
「な、なんだい?」
ギョッとしたようなオリドナの娘に、
「いくつ? 私は十九だけど」
ミスティンが唐突に質問を投げかけた。
「歳のこと? 二十二だけど、それがどうかした?」
「うお、俺の一個上かよ!」
「同じくです。まさか歳上とは……」
意外な回答にグラットとナイゼルが驚きを見せた。
「若く見えるのは人兎の血だってさ。母さんなんて、死ぬ前は四十代のなかばだったけど、人間の二十代みたいだったよ」
「どうでもいいけど、初めてグラットの年齢を聞いた気がする」
ミスティンが無表情のまま、確かにどうでもよさそうにつぶやいた。
「どうでもよくはないぞ。大事なことだから、覚えておけよ。俺のほうがお前より二歳上で偉いんだぞ」
この期に及んでグラットは年齢を笠に着ていた。……が、そんなグラットを、ミスティンは無視して娘との会話を続ける。
「あんまり似てないね」
しかし、簡潔すぎて分かりにくいのも相変わらずだった。
「誰と?」
「お兄さんと」
そこでソロンも気づいた。若きヘテロ男爵によれば、オリドナが後妻へ迎えられたのは二十年前だという。目の前の娘とは年齢が合わないのだ。
もしかしたら、ミスティン一流の直感が何かを掘り当てたのだろうか。
「ああ、兄さんに会ったんだね。今日は仕事のついでに顔見せするつもりだったんだけど。……似てないのは、血がつながってないからさ」
「失礼ですが、あなたのお父様は?」
アルヴァが単刀直入に切り出した。ここまで来れば、追求をやめるわけにはいかない。
「いないよ。あたしが生まれる前に別れたって」
「もしや、彼女は父さんの娘さんでは?」
ナイゼルが確信を口にして、ガノンドへと目をやった。それはつまり、ナイゼルの腹違いの姉という意味でもある。
「お前がわしの娘なのか……? 名前は?」
ガノンドは亜人の娘を見つめて、
「カリーナだけど。あんたがあたしの父親な――」
「カリーナ! オリドナとわしが二人で決めた名前だ! 男ならナイゼル、女ならカリーナと相談していたのじゃ!」
カリーナが言い終わる前に、ガノンドは叫んだ。
どうやら、ガノンドと奴隷の娘は、子供が生まれた時のことを話し合うような仲だったらしい。当時、ガノンドは妻帯者だったはずだが、それはどうなのだろうか……。
「……私の名前、使い回しだったのですか。母さんが生きてたら何と言ったでしょうね……」
ナイゼルが悲しげな表情で父を見ていた。いつも飄々とした彼には珍しい本気の目だ。
「じゃあ、やっぱり……!」
カリーナは目を見開いて、ガノンドを直視した。彼女の目は髪色と同じような薄紅色だった。
「おお、わが娘よ!」
ガノンドは泣き叫びながら腕を大きく広げ、カリーナへと抱きついた。
「ちょっ! やめろよ!? この変態!」
――が、すげなくカリーナに投げ飛ばされた。護身術の心得があるらしい華麗な投げ技だった。