雲海に浮かぶ
「ソロン、ミスティンが……!」
アルヴァの呼びかけに気づいてみれば、ミスティンが先程よりも遠ざかっている。魔法を放った反動で、ソロンの体が動いてしまったのだ。
それだけではない。雲海にも流れがあるため、少しずつ体が流されていく。このまま引き離されては一大事だ。
「んぐっ……!」
ミスティンへと手を伸ばすが、全く届く気配はない。
ならば――と足で雲を蹴ってみるが、風を蹴るようなむなしさがあるだけ。水泳のようにはいきそうもない。空中に浮いているような奇妙な感覚だ。
「これでどうかな? つかまって」
ところが当のミスティンが、握りしめた櫂をこちらへ伸ばしてきた。
飛び込む際に、ちゃっかりと持ってきたようだ。彼女の冷静さは、意外な頼もしさを発揮することがある。
ソロンは伸ばされた櫂をつかんで、手繰り寄せるように体を引き寄せた。そのままミスティンの右手をがっしりとつかんだ。
「はぐれたらどうしようかと思った……」
顔に安堵を浮かべて、ミスティンが二人に抱きついてきた。ミスティンに抱きしめられる格好で、意図せずアルヴァとも密着してしまう。そのまま三人で輪を描くような格好になる。
そうして三人で、雲海にプカプカと浮かぶはめになった。
季節もあってか雲海は意外なほど温かい。体温が奪われる心配がないのは救いではあるが……。
「とりあえずは助かったみたいだけど……。これ、どうやって動くの……」
手足をバタつかせてみるが、やはり風を叩くような抵抗のなさがあるだけ。
海で泳げるのは、手足が水を叩けるから。陸を歩けるのは、足が大地を蹴れるからだ。
翻って雲海には、叩くものも蹴るものも存在しない。
「基本的に竜玉帯とは、泳ぐためのものではありません。浮いたまま体力を温存し、助けを待つのが常道です」
「こ、こんな戦場のまっただ中で、待たなくちゃいけないの……? どうにか進めないのかな……」
「それじゃ、あそこまで行ってみたら?」
ミスティンが櫂を伸ばした先には、三人が乗っていた小舟があった。
舟は逆さまになっており、遠く流されてしまっている。おおよそ五十歩の距離はあるだろうか。雲海の中を生身で進むには結構な距離である。
小舟は風で転覆しただけなので、大した外傷はないはず。
どうにか近づいて舟を起こせば、また動くに違いない。しかし、そうすると目立ってしまう懸念があった。こうして雲海に身を任せている間は、敵に見つかりにくいという利点もあるのだ。
それでも、今の状態はあまりに心細い。利点を捨ててでも、舟に近づきたかった。
「あそこまではどうやって……? 刀から炎を噴いて、反動で動く方法もあるけど……」
「そんな無茶な方法を取らずとも、竜玉がありますよ。それに魔力を込め、反発を起こして進みましょう」
この場にある竜玉とは、竜玉帯とミスティンが持つ櫂だけである。
竜玉帯でもできないことはないだろうが、さすがに想像しづらい。
「ソロン、がんば」
方法を考える前にミスティンが櫂を手渡してきた。ひとまずはそれで試すしかなさそうだ。
目的の舟から反対側の方向へと櫂を伸ばす。その間、両隣の二人もソロンにつかまったままである。
「離れないようにつかまってて」
二人へ注意を呼びかけ、杖と同じように魔力を込める。
握った手から、木の柄を通して先端の竜玉へと魔力を伝えていく。この際に生じた魔力の流れが、そのまま出力となって反発を引き起こすはずだ。
竜玉が赤く輝いた。
「うわっ!」「ひゃっ!」「わわっ!」
予想以上の勢いに押し出されて、各自が悲鳴を上げた。
怖い思いをしたものの、三人は無事に小舟のそばへとたどり着いた。
逆さまに転覆していた小舟は見た目以上に軽く、ソロンとミスティンの二人だけでも容易に元へ戻すことができた。
近くにサラネド船がないことをサッと確認。息も絶え絶えにソロンは舟上へと転がった。
「うぇ……はぁ……。本当に疲れたよ」
「ふぅ……。すみませんでした。まさかこれほど難事業になるとは……」
アルヴァもソロンに添い寝するように転がった。普段の彼女ならやらないような体勢だが、よっぽど余裕がないらしい。
「いいってことよ」
なぜだかグラットのような口調でミスティンが応えた。
「――でも、こうやって苦難を共にするっていいよね。なんだか私達は運命共同体って感じがして」
ミスティンも混ざって、狭い舟上に三人が寝転んだ。
……が、さすがに気まずくなって、ソロンは起き上がった。
「もうちょっと休みなよ」
と、ミスティンに足を引っ張られたが、それは無視する。
「みんなが心配だから早く戻ろう。二人は休んでてもいいから」
ソロンは櫂を手に取ったが、そこではたと気づいた。
もう一つの櫂が、舟に見当たらなかったのだ。
転覆した時、雲海に落ちてしまったらしい。竜玉を備えた櫂は雲海にも浮かぶはずだが、探すのは至難だろう。
仕方なくソロンは一人で舟を漕ぎ始めた。
もう体力の限界だったので、強い力は出せない。竜玉を備えた櫂は魔力でも加速できるが、どちらにせよ疲れるのに変わりない。
空を見上げれば、太陽がまっすぐにこちらを照らしている。
早朝に始まった戦いだったが、ようやく真昼に至ったらしい。程よい微風も合わさって、日光浴には絶好の頃合いだろう。
「平和だねえ~」
いまだ寝転がったまま呑気につぶやいたのは、やはりミスティンだ。もちろんここは、戦場のど真ん中であって平和なはずはない。
しかし、ミスティンの言ったことも分からないではない。ここは不自然に静かだった。それはまさしく嵐が去った後のように……。
ふと気になって、ソロンは周りを窺ってみた。
見渡す限りの雲海に、船の姿は見えない。サラネドの船、帝国の船、いずれも見当たらなかった。
ただ見つかったのは、雲海を流れる残骸だけ。これは先程の戦いで発生したものだろう。
ソロン達が雲海に落ちてもたもたしているうちに、サラネドの船団は引き上げたのだろうか?
「さすがに、あれで終わったのかな?」
口にしたのは予測というより願望である――それはソロン自身も理解していた。
「さあて、どうでしょうね。敵の司令官に気骨があれば、旗艦から他の船に乗り換えて、戦闘を続行するやもしれません」
アルヴァの口調はどこか投げやりで素っ気ない。
そこには悲観というよりも、諦観が混じっているようだ。彼女もミスティン同様に寝転がったままだった。
「そ、そっか……。終わりとは限らないんだよね」
「乗り換える暇も与えないほどの、魔法をぶつけたつもりではありますが……」
眠った体勢のまま、気だるげにアルヴァは語り出した。
「――なんにせよ、私達にはこれが精一杯です。うまくいこうがいくまいが、港へ戻りましょう。全ての敵船を破壊して回るわけにもいきませんし。それに……正直なところ、今日は疲れました」
「なんか、アルヴァにしては珍しいね」
そう言ったミスティンにしても、声はいかにも眠たげだった。
「私だって限界がありますよ。時には引き際を見極めるのも大事なことです」
下界に追放され、盗賊にさらわれても、アルヴァはほとんど弱音を吐かなかった。それでも、今回はさすがに疲労を隠せなかったようだ。
*
途中、サラネドの軍船に遭遇することもなく、小舟は無事に港へとたどり着いた。
相変わらず一人で漕いでいたソロンは、元あった桟橋へと小舟を停泊させた。元気を少しだけ取り戻したミスティンが、綱を桟橋にくくりつけてくれた。
周囲には、帝国の軍船が港へ停泊している姿が見える。サラネドとの戦いを終えて、戻ってきたと考えてよいのだろうか……。
「終わったのかな……」
その様子を見たソロンがつぶやけば、
「まだ分かりません。基地の様子を見にいきましょう。それではっきりするでしょうから」
アルヴァは断定を避けて、慎重に提案した。
疲れた体を押して、彼女は小舟から立ち上がった。他の二人もそれに続いて、桟橋へ足を踏み出す。
お世話になった竜玉帯を、小舟へ残しておくことも忘れない。
港をゆっくりと歩く三人の前に、雲海軍の基地が見えてきた。
遠くから見ても、コンクリートの壁面が黒く焦げているのが分かる。激しい戦いの跡が刻まれていたのだ。
基地の周囲を囲んでいたサラネド軍の姿はなかった。
その代わり、周囲には数多くの遺体が散乱しており、それを収納しようとする兵士達の姿が見えた。
遺体は帝国兵とサラネド兵の両軍が混じりあっているようだ。分かってはいるが、いつ見ても気の沈む光景だった。
「終わったね……」
ミスティンがポツリとつぶやく。
事ここに至って、戦いは終わったとしか考えられなかった。