小さな竜玉船
港を目指すソロン達は、山をまっすぐに降りていった。
まっすぐというのは文字通りのまっすぐである。
舗装された街道を無視し、住宅の間をかいくぐり、木々の間をすり抜けて……。強引に斜面を滑るように降りていった。
今のところサラネド兵の姿は見当たらない。それでも律儀に道をたどっていては、敵兵に見つかる心配があった。それに道を迂回していては時間もかかる。
そこでこういう手段を取ったわけだ。三人という身軽さあってこそ為せる業だった。
だがしかし――
「あの……ここを降りるのですか? 少し急過ぎるように思うのですが……」
ソロンやミスティンはともかく、アルヴァには少し厳しい道だったらしい。途中で尻込みする素振りを見せた。
もっとも無理はない。目前に広がるのはゴツゴツした岩と樹木に覆われた急な斜面である。
「大丈夫、なんとかなる。これぐらいの坂だったらどうってことないって」
ミスティンは何の根拠も示さず、楽観的に語った。
「いえ、これは坂ではありません。一般的には崖と分類します」
……ごもっともな指摘である。
ミスティンはソロンへと視線を移して。
「じゃあ、ソロンがお姫様だっこしてあげたら?」
「無茶言わない。いくらなんでも、両手ふさがったまま降りるのは無理だよ。それに本物のお姫様はけっこう重いんだから」
「ソロン、一言余計ですよ」
そう答えたら、アルヴァに睨まれた。
ここは話題を転換しよう。
「それより早く降りないと、ゆっくりしている時間はないよ」
「それは……そうですが。この崖では……」
「大丈夫だよ。怪我しないように僕がついてるから」
躊躇している暇はない。少し強引にアルヴァの手を取って、崖へと一歩進み出る。自分の運動能力なら、彼女の手を引きながらでも無事に降りられる自信もあった。
「……分かりました」
アルヴァも頷いて、手を握り返してくる。
「面白くないけど、仕方ないか。そっちのほうが安全だもんね」
「ミスティン、私で遊ばないでください」
*
崖ともいうべき斜面を三人は進んだ。
先導するミスティンが、軽快に道なき道を降りていく。
ソロンもアルヴァを支えながら、不安を与えないように降りていく。彼女の運動神経も、ミスティンには劣るが立派なものだ。
恐怖心はあるようだが、それでも一度覚悟を決めたなら不平は言わなかった。
三人は着々と崖を降りていく。
木々の間をようやく抜け切れば、港に接する街道へとたどり着いた。
戦場の喧騒がここに至って、轟くように聞こえてくる。
引き絞られる弓弦の音。鳴り響く鉄の音。燃えさかる炎の音。男達の叫び声――その片方は聞き慣れない異国の言語だ。
まずは建物の陰から港の様子を窺ってみる。
港にある雲海軍の基地を拠点にして、帝国軍はサラネド軍に対抗していた。しかし、見るからに劣勢を強いられている。
雲海へと目をやれば、黒煙を吹き出して炎上する軍船が何隻も見えた。位置が遠い上に黒煙に包まれているため、判別は難しい。
けれど、帝国軍とサラネド軍――双方の船が混在しているのは見て取れた。残念ながら、帝国軍の割合のほうが多いようだ。
多くの敵が港へと上陸しており、雲海の軍船と合わせて基地を囲んでいる。
帝国兵らは基地の屋上に立って、果敢に応戦していた。弓矢に魔法、あるいは投石で、迫る竜玉船と囲む敵兵を牽制する。しかし、守る兵士の数も少なく劣勢は否めなかった。
基地は内部への進入こそ許していないようだったが、この様子では陥落も時間の問題に思えた。
幸いといっては何だが、敵の注目は基地に集中されている。ソロン達にとって、敵の目につかないよう移動するのは難しくなさそうだ。
戦場から距離を取るように気を配りながら、三人は港を進んだ。
積まれた木箱やタルの陰に隠れながら、素早くその間を駆け抜ける。戦の喧騒の中では、多少の物音を立てても気づかれる心配はなかった。
場所は港なので、手頃な小舟はいくつか目に入った。
ただし、そのいずれも戦場に近い。無理に駆け寄って敵兵に見つかっては本末転倒だ。慎重に小走りで進みながら、敵兵の姿がない一帯を探した。
幸いにしてベオの港は広い。その全てが戦場になっているわけではなかった。
「あれっ」
ミスティンが指差した先へとソロンも目をやる。
港から桟橋が突き出しており、そこには小舟がつなぎ留められていた。漁業か何かに使うものだろう。
雲海に浮かんでいる以上、あれも一種の竜玉船なのは違いない。もっとも、櫂で漕ぐような原始的な乗り物である。
「どなたの物かは存じませんが、事は急を要します。拝借させていただきましょう」
これほどの事態に及んでも、アルヴァは小舟の所有者を気にしていた。相変わらず律儀な性格なのだ。
再び周囲を確認し、サラネド兵の姿がないことを確かめる。
「大丈夫、行こう」
ソロンが号令し、三人は桟橋へと走った。
木板が騒がしく足音を立てたが、この距離ならば気づかれることはない。すぐに小舟へとたどり着いた。
ミスティンがひらりと飛び乗った。続いてアルヴァも、慎重な足取りで小舟へと乗り込む。
ソロンは二人を見送った後、立ち止まって付近の雲海を眺めやった。
透き通った雲海を通して、砂浜の底が覗いていた。どうやら、まだこの辺りは下に地面があるようだ。
ソロンは安堵して、小舟の上へと足を踏み出した。
万が一、舟から落ちた場合、それが水の海ならば泳ぐこともできるだろう。
しかし、雲海となるとそうはいかない。雲海の美しさに魅せられたソロンだが、同時に底知れない恐ろしさも感じていたのだ。
乗った勢いでかすかに舟体が沈んだが、竜玉の浮力がすぐに押し返してくる。沈没することはなさそうだ。
ミスティンが先頭、ソロンが後ろ、間にアルヴァを挟む隊列となった。
三人で乗れば丁度よい大きさ。吹けば飛ぶような小さな舟だ。安定性には欠けるが、贅沢は言えなかった。
それに小さな分だけ、敵の注意が集まりにくいという利点もある。なんせこんな小舟から、旗艦を脅かすほどの攻撃が放たれるとは敵も思わないだろう。
「ふう……」
ソロンは緊張で溜息をついた。そんなソロンへと前のミスティンが振り向く。
「そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。これ付けといて」
と、舟に積まれたベルトのような物を差し出してきた。アルヴァにも同じように手渡している。
「なにこれ?」
「竜玉帯。中に小さな竜玉が入ってる」
いつも通りの簡素な物言いだが、それで十分に伝わった。
これが雲海における救命胴衣というわけだろう。考えてみれば、こうした物があっても不思議はなかった。なんせ船を浮かせるより、人間を浮かせるほうが遥かに簡単なのだから。
服の下に竜玉帯を着込めば、安心感が少しだけ身を包んだ。アルヴァもミスティンも同じようにして身につけていた。
舟に備えつけられた櫂は二つ。役割は自然と定まり、ソロンとミスティンが手に取った。
そして、先程浮かべた不安がまた湧き上がってきた。彼女達を信じてはいるが、心配は隠せない。
「これで雲海を漕いで進むんだよね?」
ソロンが知る櫂とは、水をかいて推進力を得る道具である。つまり水の抵抗力があるからこそ、前に進めるのだ。
対して、雲海には水のような強い抵抗が存在しない。気体と液体の中間を思わせる何か――流体なのは間違いないが、その弱い抵抗があるだけだ。常識では櫂で漕げるはずもない。
「ええ、ベスタ島でも乗ったでしょう。櫂の先端を見てください」
アルヴァに指摘されて、櫂の先端に目をやる。そこには輝く小さな赤い玉が埋め込まれていた。それはソロンもよく知った玉――竜玉だった。
「なるほど、こんなふうになってるんだね」
雲海との間に抵抗を生み出す竜玉だが、それだけに、推進力としても活用できるのだ。
かつてベスタ島へ上陸する際にもこの種の小舟に乗ったが、実際に漕ぐのは始めてだった。
「じゃあ、行くよ!」
桟橋と小舟をつないでいた綱を、ミスティンがほどいた。同時に桟橋を手で「えい」と押しやる。反動で小舟がゆっくりと進み出した。
まずは試し――と、ソロンは竜玉のついた櫂で水面ならぬ雲面を叩いた。
「のわっ!?」
思いのほか強い反発に、体勢を崩しそうになる。
水のような感触を予想していたが、どうやらそれとも違うらしい。感覚としては磁石同士の反発に近いだろうか。
「大丈夫ですか?」
と、アルヴァが振り向き、ソロンの体を支えてくれた。
「う、うん……。けど、思ってたのと感触が違うね」
「そうですね。竜玉と雲海の反発には、独特の感触がありますから。私は経験がないので助言できませんが……。どうぞ焦らずに漕いでください」
アルヴァは穏やかな口調で、ソロンへと声をかけた。今は火急の事態だが、それでもこちらを落ち着かせようとしてくれている。
「大丈夫。私も一緒だから。最初はゆっくり行こう」
そう言って、ミスティンが手本を見せてくれた。雲面を押さえるかのように、櫂を雲の中に入れていく。ひと漕ぎしただけで、舟はするすると加速を始めた。
ソロンも同じようにして、櫂を雲へと差し入れる。独特の感触が、櫂を通して手元へと伝わってくる。それを押すようにして、ひと漕ぎした。
「よしっ!」
舟はさらに速度を増していく。水の舟よりも加速はずっと滑らかだ。船体と雲海の間に摩擦がないためだろう。
ミスティンも、こちらに息を合わせて櫂を動かしてくれる。二人の息はピッタリで難なく進めるようになった。
遠く雲海では、サラネドと帝国の船が戦を繰り広げている。合わせて数十隻はあるだろうか。まだ距離があるため、各船の所属は区別できない。
これよりソロン達はあちらへ進み、サラネドの旗艦を撃沈するのだ。