黒狼の紋章旗
ベオに残った一行にとっては、何事もない数日が過ぎた。
掃討作戦がどのように進んでいるのかを、ソロンに知るすべはなかった。
グラットもアルヴァも首尾を気にしていたが、二人にしても同じこと。アルヴァですら、今は一介の冒険者と立場は変わりなかったのだ。
しかし、その平穏な日々もたちまち終わりを告げた。
*
甲高い鐘の音が響き渡った。時刻はまだ朝の早い頃合いである。
その音をソロンは知っていた。
帝都が緑の巨獣――グリガントに襲撃を受けた時にも、鐘は鳴り響いていた。町全体へ伝える警鐘の音だ。
ソロンはすぐに跳ね起きた。同様に目覚めていたグラットと目を合わせる。
ソロンは速やかに、アルヴァとミスティンの寝室へと走った。
「これは……!」
目覚めの早いアルヴァは、すぐにソロンへと頷き返した。そのまま機敏に起き上がる気配を見せた。その顔には強い緊張の色が浮かんでいた。
アルヴァにとって、帝都が襲われた時の出来事は強い心的外傷となっている。
一連の騒動の中で、未知の杖を用いた自らの魔法が民を傷つける結果となったのだ。それはソロンも察していた。
「港からだ。着替えたら屋上に来てくれ!」
廊下に姿を現したグラットが叫ぶや、マーシアとショーナの部屋へと駆け込んでいった。この町を故郷とする彼は、事態の重大さを誰よりも悟っていたのだろう。
ただ一人、ようやく上半身を起こしたミスティンは、眠そうに目をこすっていた。
「ミスティン、着替えますよ!」
アルヴァは、ミスティンを抱きかかえるようにして強引に引き起こした。
「んにゅ~……」
奇怪な声をもらしたミスティンは、されるがままになっていた。寝間着がアルヴァの手でまくれ上がり、ヘソが顔を出している。情けない体勢だったが、それでもどうにか立ち上がった。
「ソロン、あなたも早く着替えなさい」
アルヴァに軽くにらまれて、ソロンは慌てて部屋に引き返した。
着替えを終えた四人は、ゾンディーノ家の屋上へと集まった。みな武器を手に持って、不測の事態へと備えている。
ゾンディーノ家の面々も、すぐに同じようにして姿を現した。
そうしているうちにも鐘は何度も何度も鳴り響き、事態のただならぬ様相を窺わせた。
平民とはいっても、さすがは将軍の家である。ゾンディーノ家はこの住宅街の中では、最も高い建物だった。坂の上にあることもあって、その屋上は外を眺めるにも好都合だった。
下り坂の向こうに港が見える。港の向こうには白く雲海が広がっている。そしてその雲海には――
「いっぱい来てるね……」
ミスティンが不安を交えた口調で言った。さすがの彼女も、眠気まなこではいられなかったようだ。
ソロンは数瞬、それが何なのか分からなかった。あまりにも距離が遠く、黒い点が雲海上に点在しているとしか見えなかったためだ。
目の焦点が合うに従い、ソロンもすぐに理解した。
全部で数十隻はあろうかという船団――それが雲海を越えて、町の方角へと押し寄せてきているのだ。
船上には何か布のような物が掲げられている。
帆かとも思ったが、色は黄色い。恐らくは旗だろう。さすがに、この距離では柄までは判別できないが。
「これで見てみな」
と、母マーシアがグラットへと双眼鏡を手渡した。武門という家柄もあって、常に港と雲海を監視できるように常備していたのかもしれない。
「サラネド軍の旗だな」
覗き込むなりグラットは断言した。
予想通りだったらしく驚く様子もない。帝国軍人としての経歴を持った彼が言うのだから、疑いを挟む余地はなかった。
その横顔は今までにもなく真剣だ。父の将軍を思い起こすような鋭い目だった。
まだ距離は遠く、サラネド船の様子はよく見えない。ソロンもグラットの双眼鏡を覗き込めないかと、気にする素振りをしていたら、
「ソロン君も見る?」
と、双眼鏡を手渡してくれたのはショーナだった。
「ありがとう」
さっそく双眼鏡をソロンも覗き込んだ。
双眼鏡――イドリスにおいて遠眼鏡と呼ばれるそれは、結構な高級品だった。
帝国ではイドリスよりも、ずっと手頃に買える物らしい。それでいて、イドリスの遠眼鏡よりも作りはよほど確かなようだ。双眼鏡の視界に歪みはない。
レンズ越しに港がグッと近づいていく。
そこから焦点をずらしながら、雲海を目指す。慣れない操作にとまどいながら、サラネドの船団を収めようと悪戦苦闘。
白一面の海が狭い視界に収まり、やがては目的の船団が目に入った。
雲海に浮かぶ数々の木造船。帝国の竜玉船とも、外観が異なる異国の船が映し出される。
掲げられた旗をよく見れば、黄色というよりは砂色の生地をしている。そこに描かれた紋章は黒の狼。これが初めて見るサラネド国の紋章だった。
船団の中に際立って大きな船が一つ。他の船の数倍はあるだろうか。その船だけは材質が異なって、船体は灰色の金属に覆われていた。
「どうですか?」
アルヴァが息のかかるような距離まで顔を近づけていた。
……無言の圧力を感じる。どうやら、ソロンの双眼鏡がお目当てらしい。
「うん、大きな船が一つだけある」
「サラネド軍の旗艦でしょうか」
そう言いながら、なおも顔を離してくれない。
「見る?」
「はい」
圧力に負けて双眼鏡を指差したら、さっと奪われてしまった。そうして手中にした双眼鏡を、彼女は食い入るように覗き込んだ。
「ちっ、よりにもよって、親父達が作戦の途中に襲ってくるとはな……」
双眼鏡から目を離したグラットが唇を噛む。
「いえ、この機を見たような動きは恐らく偶然ではありません。雲賊は囮で、サラネドは帝国軍がその討伐に向かうのを待っていたのでしょう。狙いは雲海軍の基地に違いありません」
アルヴァの推測が合っているならば、サラネド軍の襲撃は相当に計画的なものと考えられた。
例えば、軍が出払った時期を見計らって襲撃をしかけるにも、入念な準備が必要なのだ。
そのためには港を監視し、帝国の軍船が雲賊討伐に向かったという情報を、いち早くつかむ必要もある。
もっとも商人を初め、サラネド人も堂々と港へと入り込めたのだ。監視だけなら難しくもなかったはずだ。
「んなっ……。サラネドの連中は、賊を完全に手なづけてるってことかよ!?」
「どちらかというと利用されていたのでしょう。こうなっては、雲賊もただでは済みませんからね。……それにしても、愚かなのはサラネドです。ここで一時的に勝利をつかんでも、下手をすればその後は全面戦争ですよ」
話しながらもアルヴァは、双眼鏡を通して状況の確認を怠らない。
ソロンも再び、肉眼に映る黒い点となった船団へと目をやった。
サラネドの船団は大半が港へと向かってきていた。帝国製の竜玉船に負けず劣らず、滑るような速さで港へと迫っていく。こうして話しているうちにも、事態は動いてゆくのだ。
敵の目標はアルヴァの見立て通り、このベオにある帝国軍基地で間違いなさそうだ。あそこさえ陥落させてしまえば、帝国軍は反撃もままならなくなってしまうだろう。
「くそっ……。どうやら、基地だけを狙ってくれるわけじゃあなさそうだな」
グラットが悪態をつく。
そんな中でも、敵船団の一部は港を通さずに雲岸へ向っていた。
どうやら、港以外からも上陸してくる作戦のようだ。陸地から基地を目指すのか、あるいは町そのものを狙うのか……。
「町を守れるだけの兵力はありますか?」
「基地を守るだけで精一杯だろうな。普段から警備の兵もいるが、精々が何十人だ。それにあれは同じ帝国兵でも、軍というより警察隊だからな。軍隊の相手は荷が重いだろうぜ」
「そっか……。そりゃ厳しいな」
船団を見ながら、ソロンは暗然とつぶやいた。
あそこに搭載されたサラネド兵の数は、千を超えることは間違いない。町を襲う兵力も何百という規模になるはずだ。何十人では相手になるはずもなかった。