帝国雲海軍
時刻はわずかに遡る。
一方、右舷の側では――
「どうだミスティン、いい的になりそうか?」
「うん、そろそろかな」
やがて、こちらの右舷側を敵船がすれ違う形勢になった。
まだ距離を隔ててはいるが、次第に弓を構える賊兵の姿が見えてきた。さすがにこの距離では届かないため、敵が射ってくる気配はない。
もっとも『この距離では届かない』というのは常識で考えればの話だ。
「じゃあ、いくよっ!」
と、元気よく叫んだミスティンが弓を構えた。
風伯の弓――風の魔導金属で作られた彼女愛用の弓である。扱いは難しいが、その飛距離は普通の弓とは比較にならない。
風を斬り裂く音を鳴らして矢が羽ばたく。
恐るべき速度で、矢は雲海の上を飛び越えて敵船へと到達する。甲板に姿を現していた敵の射手へと、突き刺さった。
賊は悲鳴を上げたはずだったが、遠すぎて聞こえない。それほどの距離だった。
「やたっ! 当たった!」
あの距離で命中するのは。彼女にとっても驚きだったらしい。ミスティンは嬉しそうに、拳を天へと突き上げた。
「ミスティン、ますます腕を上げたんじゃねえのか? ……が、今は戦いの最中だ。喜ぶのは後で、次の矢を頼むぜ」
グラットは釘を刺すことを忘れない。こういうのは普段アルヴァの役目だが、今は彼女も反対側にいた。
「は~い。分かってるって」
ミスティンは適当に返事をしてから、また弓を構えた。
その間、唖然とする敵の有様が遠くからも伝わってきた。ミスティンにとっては遊び半分かもしれないが、敵にとっては恐るべき事態なのだ。
そもそもこちらは武装しているとはいえ商船だ。軍船ではない。
その船から先制攻撃をしかけてくること自体が意外である。それどころか、常識を越えた射程外からの攻撃だ。雲賊達が慌てふためくのも、分かろうというもの。
ミスティンは容赦なく、二の矢、三の矢を放っていく。さすがにこの距離では全てが命中とはいかなかった。それでも、二つに一つは的中するのだから、その技量には舌を巻くしかない。
船に同乗した他の護衛達も呆気に取られていた。
今の段階では彼らも手出しできない。弓も魔法も届くはずのない距離なのだ。矢を打ち続けるミスティンを、ただ呆然と皆で眺めていた。
「う~む。祭りでやる射的を見ているような気分じゃな」
ガノンドがのんきな感想をもらした。まさしく賊兵を的とした射的の時間だった。
さすがの賊兵も、無防備に甲板へ立つことはやめたようだ。物陰に隠れて、こちらの様子を窺うようになった。
突如、凄まじい稲光が後方で巻き起こった。衝撃が突風になって、こちらにも伝わってくる。
「相変わらず凄まじいなあ」
グラットはつぶやいたが、視線はあくまで前方の敵船から外さない。稲光の正体はアルヴァの魔法に決まっている。振り向く必要もなかった。
敵船は速度を上げて、見る見るこちらへと近づいて来ていた。
射程外から攻撃するこちらに、距離を取っていても勝ち目はない。そう悟ったのだろう。どうやら、こちらの船へ突撃する覚悟を決めたようだ。
両船の間隔は見る見る狭まっていく。
やがては褐色の肌をした男達の姿が、視認できるようになった。帝国人とは人種自体が異なるらしい。帝国人とイドリス人の違いよりも、人種的差異は大きいように見えた。
敵の矢がこちらへ届く距離になった。物陰に隠れていた賊の射手達も、わずかに体を出しながら一斉に矢を放ってくる。
さすがにまだ距離は遠く、狙いは安定しない。ほとんどの矢は見当外れな場所に届いたが、それでも――
「おっと、危ねえなっ!」
ミスティンに迫った矢を、グラットが槍で叩き落とした。
敵の狙いはミスティンらしい。遠くから矢を放った彼女の技術を、敵も認めたのだろう。
もっとも、こちらとて座視しているつもりはない。
「ゆくぞ、ナイゼルよ!」
ナイゼルへ声をかけると同時に、ガノンドが杖を構えた。ガノンドとナイゼルは親子であり、師弟でもある。言うまでもなく、お互いの息遣いを知り尽くしている。
「お安いご用ですよ、父さん。フフフ……ついに私の出番ですね」
ナイゼルは怪しい笑みを浮かべながらも、既に杖を構えていた。
雲賊船へと向けられた杖先に光るのは緑の魔石。ナイゼルが得意とする風魔法の魔石だ。
たちまち風が巻き起こった。風は局所的な嵐となって、賊船へと襲いかかる。
矢などまともに狙えるはずもない暴風。
「紅炎よ、踊り狂うがよい!」
そこにガノンドが杖を向けた。杖先から炎が踊るように伸びていく。
本来なら、炎の魔法が威力を発揮するには遠い距離である。それでも風に乗った炎は、勢いを減ずることもなく敵船へ届いた。
そして、雲賊船から炎と煙が上がった。
* * *
「大丈夫、歩ける?」
座り込むアルヴァへと、ソロンは手を伸ばした。
魔法を放った反動で、尻もちをついていたらしい。以前、この魔法を使用した後、彼女は歩くこともままならなくなったのだ。
「平気です。体力と精神力が残るように加減はしてあります。たかが賊船を潰すのに、全力はいりませんので」
そう答えながらも、彼女は差し伸ばした手を取った。それから間を置かず、立ち上がって見せる。この様子なら手を取る必要もなかったかもしれない。
「加減をしてもあの威力か……。沈んだりはしないんだね」
「ある程度の損傷ならば沈むこともありません。竜玉が無事な限り、船は雲海に浮かび続けるので。そして、竜玉はよほどの衝撃を受けない限り破損しません。今は竜玉の力を推進力へ変換する仕組みが、壊れた状況と考えればよいでしょう」
「そっか……。それならよかったよ」
ソロンはホッと胸をなでおろした。
なんせ、雲海に竜玉船が沈む姿を想像してしまったのだ。
船が雲海を貫いて下降し、ソロンが飽きるほど見た下界の空に至る。船は人を乗せたまま、下界の地上へと落下するだろう。
もちろん絶対に助からない。
船も人も、あの高度では原型すら残らずに破壊されてしまうに違いない。想像するだに恐ろしい光景である。
「相変わらず甘いことですね。賊など全て滅ぼしてしまえばよいと、私は常々思っています。もちろん彼らにしても、生きる上で悪事を働く事情があるやもしれません。ですがそれも、日々を正しく生きる民の安全と比較すれば、斟酌する価値はないでしょう」
言葉だけをとれば、ソロンを責めるような過激な内容だ。それでもアルヴァの口調はどこか穏やかだった。
「理屈としては分かるんだけどね。ただ、どうしても感情的にはそうなれないっていうか……」
「でしょうね。私も特に非難するつもりはありませんよ。それに――」
それから、視線を雲海へと外し、独り言のようにつぶやいた。
「――……そういうところも別に嫌いではないので」
*
ソロン達は分担して、二隻の賊船を大破させた。
ソロンは右舷へと移動し、ナイゼル達と速やかに合流を図った。彼らにしても、危なげない勝利のようだった。
船上には他の護衛達もいたのだが、彼らの出番はなかった。なんせ、敵船と接近する間もなく戦いが終わったのだ。手の出しようもないのは当然だった。
残った敵の一隻は、途中までは他の商船に向かう構えを見せていた。……が、今は舳先を転じて逃げ出す構えだった。大破した二隻の乗員を救出しようという意気は見られない。
「俺の出番もほぼなしで終わりそうだな。……それにしても、仲間を見捨てるたあ薄情だねえ」
去りゆく賊船を眺めながら、グラットがつぶやいた。
アルヴァがそれに答えて。
「妥当な判断ですよ。賊というのは、野獣と同じで生存本能が強い者達です。引き際は心得たものでしょう」
「連中の習性なら俺だって分かってるさ。騎士様・貴族様のように、面子第一で戦う連中のほうが変わり者なんだろうな。……で、このまんま逃がす気か?」
「さすがに船長へ進言しても、追ってはいただけないでしょうね」
それもそのはず、船長や商人の目的はあくまで交易なのだ。襲撃を受ければ反撃はするが、積極的に雲賊を追いかける理由はない。
……と、そこへ船長がやってきた。戦いの終わりを察知して、様子を見にやってきたらしい。
「いや、まさか無傷で撃退してくれるとは思わなかった。本当によくやってくれたよ。一隻は逃したみたいだが、これ以上は軍に任せるとしよう」
船長がそう判断したので、ソロン達もすんなりと従うことにした。
逃げる雲賊船はどんどんと小さくなっていく。じきに視界から消えていくだろうが、今となってはどうしようもない。
そう思っていたのだったが――
「向こうから来てる」
雲賊船が向かう先を、ミスティンが指差した。
「何が?」
ソロン達もそちらの方角に注目する。
すると、西からまた別の竜玉船が現れた。その数は二隻。雲賊の竜玉船よりも大型の船に見えた。
二隻の竜玉船は、逃げ延びた一隻を挟むように近づいていく。
「もしかして新手!? 仲間が助けに来たのかな?」
ソロンがミスティンに尋ねれば、彼女は横に首を振った。
「違う。黄金竜だよ、あれ」
いち早くミスティンは船を見極めたようだった。彼女の言う通り、船上を見れば黒地の旗に描かれた金色の模様が見える。
黄金の竜旗――サウザード皇家の紋章にして、帝国軍の紋章でもあった。
「おう、来なすったか」
グラットがなつかしむように帝国の軍船を眺めていた。帝国雲海軍に勤務していた彼にとって、まさしく古巣なのだ。
そうして、逃げようとする雲賊船は、その進路をふさがれてしまった。彼らには船を止めて、投降する以外の選択肢は残されていなかったのだ。
これにて一件落着。
ソロンはそう思っていたが――
「うげっ……」
グラットが小さくうめいた。
帝国軍の竜玉船が、こちらの商船にも近づいてきたのだ。
甲板に立った帝国兵が、大声でこちらを呼ばわっている。どうやらこちらの事情を尋ねているようだ。
船長もそれに声を張り上げて返答する。
そんなところに、戦いの終わりを知った商人も顔を出してきた。何やら冷や汗をかいている。彼も船の所有者として事情を聞かれるに違いない。
「ああ、これはちっとばかし面倒になるかもなあ……」
グラットが不安げにぼやいていた。