神鏡の祠
今、ソロンは西側の城壁の上に潜んでいる。
正面には城壁よりも少しだけ高い支城があり、そこから空中回廊を介して中央の本城へとつながっていた。
そして、本城の上に目的の神鏡が鎮座しているはずだ。
神鏡がある辺りを仰ぎ見れば、緑の光が瞬いている。ここからでは遠すぎて、神鏡の姿は確認できない。
支城の屋根までは少し遠いものの、ここからでも鉤縄で飛び移れそうだ。
問題はそういった派手な動きをして、気づかれないかだが……。
最も近い見張りは城壁上の左右にいる二人だ。どちらも注意は城の外に向いていた。
さらに遠く離れて、二つの尖塔が見える。
尖塔の頂上にはやはり緑の光が瞬いているが、遠すぎて様子が分からない。逆に言えば、あちらからこちらを確認するのも容易ではないだろう。
敷地内には多くの庭木が植えられており、虫や鳥の鳴き声が聞こえてくる。遠くで多少の物音が鳴っても、目立つことはなさそうだ。
これならば気づかれないかもしれない。
ソロンは伏せていた体を起こし、鉤縄を投じた。
狙い過たず、鉤縄は屋根の飾りに引っかかった。
狭い城壁の上で助走をしたソロンは、縄を握りしめたまま屋根へ向かって飛び込んだ。
「ぐぁ……!」
先程より強く体をぶつけながらも、屋根から伸びる縄にぶら下がる。
衝撃で頭がくらみそうになるが、手は決して離さない。ソロンは支城の屋根へと這い上がった。
そのまま屋根を這って、ソロンは本城へと進んでいく。
見張りがいないことを確認し、下の回廊へと飛び降りた。支城と本城をつなぐ空中回廊である。二つの建物の陰になるため、身を隠しやすい場所だ。
「それにしても……」
ソロンは静かに溜息をついた。
密航に皇城不法侵入、さらには窃盗予定である。
故郷では真面目で通っていたはずが、今や立派な犯罪者だ。故郷のためとはいえ、心の痛みはやむことがない。
それでも、ここまでくれば引き返せない。最後までやり通すしかないのだ。
鏡を借りて、故郷に戻り神獣を倒す。
もちろん、そのまま奪いっぱなしというわけにはいかない。元々、鏡は故郷にあったものだが、そんなことは言い訳にもならないだろう。
あくまで拝借するだけだ。事が終わればまた帝都へ戻り、鏡を返すのだ。
空中回廊を忍び足で進み、本城のそばに近づいた。
本城へと入る扉があったが、もちろん中には入らない。恐らくはカギがかかっているだろう。そうでなくとも、屋内に入っては逃げ場がなくなってしまうからだ。
方法は一つ。ここから壁をよじ登って、頂上に至るしかない。
今、ソロンが立っている空中回廊は、城の二階部分に相当するようだ。そこから見上げても、本城は相当に高い。
遠い上空で淡い緑の光がもれているが、そこへ至るにはソロンの背丈のゆうに二十倍は登らなくてはならないだろう。
幸い、見栄えに優れた本城には様々な意匠が施されている。城壁と比較すれば、つっかえとなる場所は多くあるはずだ。
「行くぞ……!」
と、ソロンは小さくかけ声を上げた。
まずは空中回廊の手すりへと足をかける。そこから本城の扉にある装飾部分を踏み台にして、上がっていく。
用途不明の出っ張りをつかみ、体を持ち上げる。さらには窓枠へと喰らいついた。
落ちないように、一つ一つ足場を見つけて登っていく。
段々と地上が離れていくが、下は決して見ないようにする。狭い足場の中でそんな余裕はないし、見たところで暗くて見えないだろう。
命綱のない決死行……。落ちたら一巻の終わりだが、それでもソロンにはこの道しかないのだ。
やがて、頂上が近づいてきた。
緑の光がこぼれて、こちらの視界へ入ってくる。
緑の光は手持ちのランプではなく、備えつけの照明を使用しているという証だ。ただし、ランプがないからといって、見張りがいないとは限らない。
今、ソロンがつかもうとしている窓枠の辺りが、城の最上階のようだ。
そうして、窓枠に登ったところで、ゴンと音が響いた。勢い余って、膝を窓にぶつけてしまったのだ。
「しまった……!」
頂上が近づいたせいで、気がゆるんでいたのだ。大した音ではないため、頂上に衛兵がいても聞こえないだろう。それでも室内へは確実に聞こえたはずだ。
窓を覗き込んで見えるが、中は暗闇になっていて何も見えない。
ここは幸運を願うしかなさそうだ。中の住民がぐっすり眠り込んでいるか、あるいは人のいない部屋であることを祈ろう。
何にせよここまで来て、止まることはできない。ソロンは再び見上げて、頂上を視野に入れた。
頂上まではあと少し。……だが、手の届くような出っ張りはないようだ。
ならば――と、ソロンは鞄から再び鉤縄を取り出す。
窓枠を支えに力を入れて、上空へと鉤縄を放り投げた。
ガチャッと音を立てた鉤縄だったが、何かに弾かれて下へ落ちていった。
ひょっとしたら、今の音で見張りに気づかれるかもしれない。
冷や汗が出るが、ソロンはめげない。縄を手繰って鉤縄を引き戻し、再挑戦を試みる。
二回目の挑戦で、鉤縄は見事に頂上の手すりをつかんだ。
ソロンは縄を引っ張り、屋上に顔を出すまで体を持ち上げる。そうして、手すりの隙間から覗き込んだ。
屋上には段差があり、その上には小さな神殿のような祠が備えつけられていた。
祠の柱に取りつけられた緑の魔石が、淡い光で屋上を照らしている。
神鏡は祠の奥に安置されているのだろう。今はしまわれているせいか、神鏡の姿は確認できない。
そして――そこには見張りの兵士の姿もあった。
もっとも、それはソロンも覚悟していたことだ。
たどり着くことも困難な城の頂上とはいえ、さすがに国を代表する宝である。番人がいないはずもなかった。
幸いながら、ソロンの存在にはまだ気づいていないようだ。鉤縄の音は空耳程度にしか、届かなかったのだろう。
見張りは二人。祠の左と右に分かれている。
両者の間隔はある程度離れているため、音を立てなければ同時には気づかれないはず。もっとも、それはそう簡単ではないのだが……。
比較的簡単に音を立てない方法は、殺してしまうことである。声を出される前に、気道を絶ってしまえばよいのだ。
……が、もちろん論外である。
悪人でも敵でもない人間を殺すわけにはいかない。彼らは職務に忠実な模範的兵士に過ぎないのだ。
鏡を手に入れるためには、手段を選ぶつもりはない。……つもりはないが、殺しだけは論外だ。
さて……どうしようもなく難題だが、やるしかない。
ソロンは素早く屋上へ登り、横に回り込んで段差を駆け上がった。そうして、死角から一人目の間近へと忍び寄る。
同時にふところから魔石を取り出した。今は暗がりだが、本来なら緑色の鮮やかな魔石である。
風の魔石――すなわち空気を制御する緑風石だ。
なけなしの金貨をはたいて買った魔石である。純度が低く用途に乏しい粗悪品だが、今回はそれで事足りた。
衛兵がはっとした顔をした時には、ソロンの右手が伸びていた。
兵士の首をつかんでギュッと絞める。幸い、兵士の鎧は首元を覆う形式ではなく、問題はなさそうだ。
そのまま左手に持った緑風石を、兵士の口元へと運ぶ。魔力を込めれば、緑風石が輝き出す。
「ぐ……」
兵士は目を見開き、口を開いて叫ぼうとしたが、声が吐き出されることはなかった。
緑風石で空気を制御し、音を断ち切ったのだ。
そのまま、右手で首を絞め、左手の魔法で空気を奪い取る。
風魔法だけで窒息させられれば見栄えはよいが、そうもいかない。
なんせ、この魔法はごく局所的な空気を動かすだけである。少しでも頭の位置が動けば、あっさりと解除されてしまうのだ。ソロンの技能と魔石の純度ではこれが精一杯だった。
そうして、ソロンの腕の中で兵士が意識を失った。
ソロンは音を立てずに、兵士を床へと横たえたつもりだった。
だが――
「どうしたっ!?」
二人目の兵士が物音に気づいた。金属の鎧がわずかに床と擦れた音が聞こえたらしい。
兵士がこちらを驚愕の表情でにらむ。
ソロンはさっと祠の陰に隠れたが、さすがに通じなかった。
「く……くせものー!」
たちまち発見されて、叫び声を上げられる。
こうなれば――と、ソロンはとまどいもあらわな兵士へと近づき、兜の横に刀を叩きつけた。
衝撃を受け、よろめいた兵士の首をつかみ、またも魔石で昏倒させる。
しかし、既に声を上げられてしまった。ここは孤立した場所にあるので、誰にも聞こえていないことを祈るしかない。
そうして、ソロンは神鏡が安置されている祠の元へと足を進めた。
祠の扉を開こうとするが――
カギは固く開かなかった。
「ぐっ……」
ソロンの焦りがここに来て募る。
ここに至って、ソロンは自分の愚かさ加減に気づいた。
事前に確認したのは、日中と晩には神鏡の姿が見られるということだけ。神鏡が深夜も外にさらされる場所にあるなど、誰も断言していなかったのだ。
いや、今更後悔しても遅い。
全てが想定通りに進むなど、ソロン自身も考えていなかったのだから。問題はここからどうやって、神鏡を手に入れるかだ。
果たしてカギはどこにあるのか? 倒れ伏している兵士の懐を探れば見つかるだろうか?
だが、余計なことをして、目を覚まさせてしまうかもしれない。
そもそも、彼らがカギを持っている保証などどこにもないのだ。
それとも、祠のカギを刀で破壊したほうがいいだろうか。だがそうすると、衝撃で中の鏡を傷つけてしまいかねない。
ならば、この場に隠れて朝を待つのはどうだろうか。
いや……既に衛兵を倒しているのだ。隠れおおせる可能性は低い。だいたい脱出はどうするのだ。
「侵入者だ!」
そうこう悩んでいるうちに事態は進んでいた。階段から一人の兵士が駆け上がってきたのだ。
足音はその後ろからも続いており、相手が一人でないことは明らかだった。
こうなれば、今は諦めるしかない。
またの機会があるかどうかは分からないが、捕まっては全ての可能性を失ってしまう。
ソロンは一目散に、下へと降りる鉤縄へ走り寄ろうとした。
「逃さんぞ!」
だが、その時には三人の兵士が退路をふさいでいた。呆然としていて、時間を使いすぎたのだ。
背中の刀を抜いて、魔法を放てば突破できるかもしれない。だが、それをしたら最後、間違いなく殺し合いになってしまう。
ソロンは反転するなり走り出し、祠の裏へと回り込んだ。
「くそっ、逃げるな!」
衛兵は悪態をつきながら、後を追ってくる。
ソロンの速い動きに、鎧をつけた衛兵達は追いつけない。
だが、問題はここからである。
複数の兵士を巻くには、屋上はあまりにも狭いのだ。
ソロンは祠の裏を通って、反対側から出ようとしたが……。案の定、二人の兵士と鉢合わせしてしまった。
強引に振り切ろうとソロンは突っ走るが、兵士が組みついてくる。重い鎧を着込んだ兵士にのしかかられては、小柄なソロンでは耐えきれない。
腰が下がり、地面に押し倒されそうになるが、
「うりゃああぁ!」
ソロンは力を振り絞って、兵士を振り払った。
一人を振り払ったが、今度はもう一人がしがみついてくる。
そうこうしているうちに、どんどん兵士が集まってきた。
このままではまずいと、ソロンが思った時――勢い余った兵士同士が、ゴツンと頭をぶつけた。
ここぞとばかり、ソロンは兵士の隙間をくぐり抜けて走り出す。なおも足をつかんでくる兵士を、必死で引きずりながら。
「騒々しいですね」
女の声が聞こえたのは、その時だった。喧騒の中でも、その声は不思議とよく響いた。
ソロンが足をつかむ兵士を振り払い、鉤縄へ突き進もうとした瞬間――
「うあっ!?」
背中に電流のような衝撃が走った。
激しい痛みを受けて、ソロンは床に倒れ伏す。
ソロンの孤独な戦いは、あえなく終わったのだった。