雲海の街道
「ウ~ン……!」
と伸びをしてソロンは起き上がった。
「もうよいのですか?」
アルヴァが声をかけてくる。
「いつまでも休んでられないから」
少し待ったら、仲間達が戻ってきた。その中にはガノンドを引き連れたナイゼルもいた。ガノンドは存分に泣いて、落ち着きを取り戻したらしい。
「すまんかった……。わしとしたことが……この歳でここまで泣くとは思わんかった」
「二十年以上ですからね。仕方ないですよ」
ソロンは軽く笑って応えた。
「なあ、どっちに行くんだ? タスカートは南だよな。この辺、ずっと森の中みたいだが」
グラットが上界の地図を取り出して指差した。
タスカートは、以前にソロンが竜玉船に乗った港町である。グラットとミスティンの二人とも、そこから出発する竜玉船で出会ったのだ。
次に向かうのも、そのタスカートだ。そこから竜玉船に乗って帝都を経由し、陸路で目的地の海都イシュティールを目指す。
もちろん、界門がある場所など地図に載っているわけもない。それでも、ここがタスカートの北側なのは前回の経験から分かっていた。
「以前、ソロンが上界に昇った時はどうしたのですか? よく迷いませんでしたね」
グラットの地図を眺めるソロンを見て、アルヴァは話しかけた。
「一応、先生が簡単な地図を残してくれていたけど……」
ソロンが旅立つ際にナイゼルが地図を渡してくれたのだ。だが――
「うむ、あれはわしの力作だったからな。書いたのは随分と昔じゃったが」
ガノンドは満足そうに頷いた。ちなみにナイゼルはやれやれと苦笑している。
「いや、どこがですか!? どう見ても子供の落書きだったじゃないですか! この島なんてほとんど三角形でしたよ!」
ここぞとばかり、ソロンはガノンドへの恨みをぶつけた。
「そうじゃったかの~。ふぉふぉふぉ」
ガノンドは全く悪びれなかった。
「そうですよ! かろうじて、帝都とこっちで島が違うことは分かったけどね」
それからソロンはアルヴァを向いて。
「――とにかく西の雲海に沿って、南に向かえば間違いないとは何となく分かったから。……本当に人が住んでいるのか、かなり不安だったけどね。丸一日で森を抜けて、道を見つけた時は嬉しかったよ」
「その気持ちはとても分かります」
しみじみと同情を交えてアルヴァが言った。下界に降りた時の不安と苦労を、また思い出しているのだろう。
もっとも、彼女が降りた下界の地点は、こちらよりも遥かに危険だった。魔物の強さも人里への距離も、アルヴァが一人被った苦労とは比較にならない。
「でも、僕のやり方が正しいとは限らないな。知らないからそうしたってだけで……。雲海に沿えば絶対に迷わないだろうけど――」
「そうですね。地図を見る限り、まずは東に向かったほうが早く森を抜けられると思います。そうして街道に出たほうが、結果的には安全かつ短時間で済むのではないでしょうか」
「じゃあ、そうしようか」
なんせ、アルヴァは帝国の地理については専門家だ。
それも帝国にある全ての町は記憶していると豪語していたほどだ。実際に全ての町に行ったわけではないだろうが、ソロンより遥かに詳しいのも確かだろう。
*
十人は森の中をひたすら東へと歩き続けた。
馬も竜車も下界に置いてきたため、もちろん徒歩で進まなければならない。
森とはいっても、下界の森のような不気味な場所ではない。正面からは木漏れ日が射し込んでくる。どこか心の安らぐような静謐な森だ。
「う~む、昼間がこれほど明るいとは不思議な感覚ですね」
数時間が過ぎて、太陽が真上にやって来た。ナイゼルはどこか不思議そうに、上天に輝く太陽を眺めていた。
「不思議も何も、これが普通だろ。本来、昼間の太陽ってのは明るいもんなんだぜ」
グラットが上界の常識を傘にして言い放った。
「僕らからすれば、普通って言われても違和感あるんだけどね」
上界人には『普通』であっても、下界人は生まれた時からあの環境で暮らしてきたのだ。容易には納得できないというものだ。
「まあのう。どちらが異常でどちらが普通か――なんてのは相対的な価値観でしかないからな。わしとしても、太陽がまぶしいのは喜ばしいことじゃが。同時にちと落ち着かん気持ちもある。地上に出たモグラの気分とでも言おうかな。まったく……すっかり、下界の暮らしに慣れてしもうたわい」
両方の世界で長く暮らした経験を持つガノンドが、しみじみと語っていた
昼下がりには、あっさりと森を抜け出した。
森を出て、わりあいすぐに道も見つかった。帝国では普遍的な町と町をつなぐ石造りの街道――それが南北に伸びている。
南へと進めば、右手には雲海が見えてきた。
雲海に沿って伸びる街道が、どこまでも続いていく。
帝国人にとっては何気ない景色なのだろう。それでもソロン達にとっては人生初の絶景である。単調なはずの道のりに、大きな彩りを添えてくれた。
街道の途中、ところどころで旅人の姿も目に入ってくる。
安全のため、いずれも徒党を組んで歩いていた。ナイゼル達にとっては、初めて上界で見る上界人というわけだ。
「ここまで来れば、もう安全だね」
少し気を抜いてソロンは言った。
上界では街道を進む限りは、危険な魔物に遭遇することは少ない。一人旅のような無謀をしなければ、おおむね安全に進めるようだ。
「宿場まで残り五里だって!」
いち早く立て札を目に留めたミスティンが知らせてくれた。
どうやら、野宿をする必要はなさそうだ。下界より安全な帝国とはいえ、やはり魔物は怖い。野宿を避けられるなら、避けるに越したことはなかった。
「じゃあ、今日はそこが目標だね。……そういえば先生、体のほうは大丈夫ですか? 疲れてはいませんか?」
ソロンは最年長のガノンドを気遣うことを忘れなかった。ガノンドの荷物は兵士達が代わりに持っているため、他の者よりも負担は少ない。それでも年齢が年齢だ。
「これ、ソロンよ。わしを年寄り扱いするでないぞ」
コツンとガノンドはソロンの頭を杖で叩いた。
歩行を補佐するための杖ではなく、歴とした魔道士の杖である。彼は帝国の貴族であった頃から、それなりの魔道士でもあったらしい。
「だって、年寄りじゃないですか」
「まだ六十を過ぎたばかりじゃ。足腰は衰えとらんぞい」
実際、ガノンドの足取りは軽く、老人とはとても思えなかった。ラグナイの占領軍に監禁されていた経緯もあり、懸念もあったがどうやら心配無用だったらしい。
今回、ガノンドが同行すると決まって、ソロンの内心では心配もあった。
元は上界人とはいえ、この年齢で異なる環境下へと旅立つのだ。それでも、ソロンが同行を許可したのは、行程自体が短かったこともある。
界門からタスカートの町までは数日でたどり着ける。
そこから帝都へは竜玉船で雲海をゆけばよい。
帝都から海都イシュティールまでは、何日か要するが街道が整備されていると聞く。馬車が使える上に、宿場も完備だ。ガノンドでも大きな負担はないだろうという判断だった。
「坊っちゃん……。父さんはいいので、それより私のことを気遣ってくださいませんか?」
――が、ここにガノンドよりも体力のない男がいた。
「ナイゼル……。そこまで厳しい道でもないと思うけど……」
「いえ、道は我慢できますとも。しかし、この辺はちと暑すぎやしませんかね?」
見ればナイゼルは多量の汗を額に浮かべている。
上界の夏は暑い。昼間になればさらに暑い。
理由は言うまでもなく、雲を通さず太陽に照らされているからだ。そしてナイゼル達にとって、これは初めての経験だった。下界人にとって夏の昼間は、むしろ朝よりも涼める時間帯なのだ。
「確かに暑いかもね。帝都よりいくらか南だからなおさらかも。でも、昼間も過ぎたから涼しくなっていくし。水飲んでもいいから、我慢しなよ」
ソロンも下界人として、その気持ちは分からなくもない。
「ふはは、情けないのうナイゼル。わしにとってはこれしき、なつかしい暑さじゃよ」
ガノンドは余裕を見せて「かかっ」と笑った。
「くっ……父さんは存外しぶといですね。……仕方ありません。イドリス一の魔道士の実力、見せてさし上げましょう」
言うやいなや、ナイゼルはおもむろに杖を取り出した。杖先に輝く魔石は彼が愛用する緑風石。
杖先を顔の前に運んだナイゼルは、魔石を輝かせて風を起こした。灰茶の髪が穏やかな風にゆれて、ナイゼルは気持ちよさげに目を細めた。
「どうです、皆さん? 風使いたるこのナイゼルにかかれば、扇子すらも必要ないのですよ」
「なあ、扇子であおいだほうがマシじゃねえか? あれって結構、精神力を使うよな?」
多少は魔法の心得があるグラットは、ナイゼルの奇行をそう評した。
「そうとも言い切れません。暑さによる体力の消耗が、精神力の消耗を上回るならば意味はあるやも……。それにしても、風向きと風力の絶妙な制御。相当な技量がなければ、あれはできません。イドリス一の魔道士というのも、誇張ではなさそうですね。なるほど……そうやって日常的に魔法を使い、訓練とするわけですか……」
アルヴァはナイゼルの奇行を、見下したりせずに思案していた。
「いや、考えすぎだって……」
*
数時間後、精神力を消耗したナイゼルは案の定ヘトヘトになっていた。もっとも、その頃には太陽も陰りを見せ、風を送る必要もなくなっていたのが幸いした。
夕方には西に見えていた森も途絶えた。代わって目に入ったのは雲海の姿。西に輝く夕日が雲海を赤く照らしていた。
程なくして、壁に囲まれた宿場が見つかった。そうして上界での最初の夜は、無事に屋根があるところで過ごすことができた。
ちなみに部屋割りは、ソロンたち四人とナイゼルたち六人に分けることになった。
ナイゼルとガノンド、および四人の兵士――彼らの目的は皇帝に謁見し、ネブラシア帝国と国交を結ぶことである。アルヴァをイシュティールへ送ることを目指すソロン達とは目的も違っていた。
それにソロンを除いた三人は、さすがにナイゼル達とは距離があった。そんな事情もあって、十人の一行は四人と六人に分かれていたのである。
「本当は私も坊っちゃんと同室がいいんですけどねえ」
などとナイゼルが寂しがったので、
「大丈夫だよ。僕はナイゼルと別室で構わないから」
ソロンも適当にあしらっておいた。ナイゼルはそれに鬱陶しい泣き真似で応えていた。