イドリスを発つ
上界へ旅立つための準備が進められていた。
もっとも、水や食料については、ナイゼルが今回も万事整えてくれる。ソロン達が考えることはそれほどなかった。
そんな中、問題となったのは服装である。
「アルヴァはその服で行くつもり? 顔バレしたらまずくない?」
ミスティンがもっともな指摘をした。
アルヴァは罪人として下界に追放された身である。帝国内を堂々と歩くのは愚策だった。
「皇帝といっても、絵姿が出回っている程度ですから。実際の顔を知る者はそれほど多くないと思います。……とはいえ、服装ぐらいは変えたほうがよさそうですね。さすがにこの服も、酷使してしまいましたので」
アルヴァは今も、ソロンが上界で見た時と同じ旅装をしていた。恐らく、多くの帝国人が目にしている格好だろう。服自体も過酷な旅が続いたためか、見るからに傷んでいる。
「じゃあ、服屋さんに行こう。私もそろそろ新しい服が欲しいな。さすがにこの服じゃ暑すぎるし」
季節は七月。これから向かう帝国では神竜の月。呼称は違えど夏の真っ盛りに変わりはない。ミスティンも袖の長い旅装に辟易していたらしい。
「そうですね。せっかくなので下界土産にしましょうか。お給金もいただきましたし」
アルヴァはミスティンと珍しく女子らしい会話をしていた。
ちなみに給金というのは、戦いに参加した者へ与えられる報酬のことである。サンドロスから各自へ気前よく配られていた。
*
そんなわけで、アルヴァとミスティンは連れ立って服屋に来ていた。なお、ソロンとグラットも荷物持ちとして連れてこられた。
「いかがでしょう? あまり目立たない服装だと思いますが……」
試着を終えたアルヴァが姿を現すや、おずおずと切り出した。
質素で暗めの青い服。袖の短い動きやすそうな旅装だ。スカート丈も季節に合わせて幾分短くなっている。
「青にしたんだね。この前のドレスもそうだったけど、いいと思うよ」
黒以外も――というソロンの提案を覚えていたらしい。些細なことだが、何だか嬉しくなる。
「以前はずっと黒服を着ていましたからね。ミスティンの意見も参考にした結果、印象を変える意味で青にしました」
「アルヴァって下着まで黒いからね。たまには服ぐらい、他の色にしないと」
と、ミスティンが反応に困る言葉と共に現れる。
「ミスティン」
アルヴァがにらむが、ミスティンは悪びれる様子もない。
「私はこんなのにしてみた」
ミスティンも涼しげな緑色の服を選んできた。くるりと一回転すれば、ふわりとスカートがなびく。
アルヴァが黒を頻繁に着ているように、ミスティンも緑色の服をよく着ていた。
「悪くはないと思うぜ。前とあんまり変わらねえけどな」
「ミスティンは緑が多いよね。やっぱり、選ぶ時間が面倒だから?」
「やっぱりって何が? 面倒かどうかで色を決めたりはしないよフツー。私は緑が好き。自然の色って感じがしていいから」
ミスティンは問いの意味が分からず、首をかしげながらも答えた。実際、明るい緑の服は彼女の金髪とよく調和している。感性は決して悪くなかった。
「真っ当な答えが返ってきたなあ」
それだけの答えなのに、ソロンはなぜか感心してしまった。
「……真っ当でない答えとは何のことですか?」
当てつけと受け取られたのか、アルヴァに軽くにらまれた。
「お姫様はもう一押し欲しいな。服装に文句はないが、それで帝都を歩くわけにはいかんだろ。髪型を変えるか、帽子を買うかしたらどうだ?」
服を買う目的の半分は正体を隠すためである。それに沿ったグラットの提案だった。
「そうですね。いっそ短く切ってみましょうか? 手入れが面倒なものですから」
アルヴァはそう言いながら、長く伸びる黒髪をつかんだ。
「えー」「え~」
そろって声を上げたのはソロンとミスティンだ。
「……どうして、あなた達が不満そうなのですか?」
「髪は女の命だよ。もっと大切にしないと」
ミスティンは自分の金髪をなでながら主張した。ソロンも頷いて。
「短いのも似合うかもしれないけど、面倒だからってのは乱暴だよ」
「お前ら、お姫様の信者かなんかかよ……」
グラットに呆れられたが、わりと否定できない。
「はぁ……。ならば帽子にします」
アルヴァは溜息をつきながらも妥協した。
「うん。なるべくツバが長いほうがいいよね」
顔を隠せるような目立たない帽子が望ましい。
「これなんかどう? 色もちょうどよいと思う」
ミスティンがツバの長い帽子を手に取って見せた。ツバが長いだけではなく、てっぺんがとんがっている。色も服に合わせた青色だ。
「ふむ……。いいですね。要件にも合致しています」
アルヴァが帽子を手に取り、頭にかぶった。
「なんていうか――」
言いよどむソロンにグラットが続ける。
「昔の物語に出てくる魔女だな。お姫様というよりは、それに毒を盛る側っぽいぞ」
まさしく童話の中で、姫君に毒を盛ったり呪ったりする魔女に似ていた。その辺りの感性は、上界でも下界でもあまり変わらないらしい。
「うん。悪者っぽくてかっこいい。顔も隠れて一石二鳥」
ミスティンはなにやら満足気だった。
「そ、そうですか?」
しかし、アルヴァもまんざらでもないようだ。帽子のつばに手をやりながら、店に備えつけの鏡を見ている。意外と気に入ったらしい。
ソロンは改めてアルヴァの格好をしげしげと見る。帽子の選定はともかくとして、印象が変わったのは間違いない。
「後は瞳の色かなあ……」
「そんなに目立ちますか?」
「うん、綺麗な色だからね」
「…………」
アルヴァはきょとんと目をしばたたかせた後、照れを隠すように目をそむけた。
紅玉帝という呼称の通り、紅い瞳は女帝アルヴァネッサの象徴だった。
帝国において、紅い瞳を持つ者はどちらかといえば珍しい。それでも皆無なわけではないし、それだけで注目を浴びるほどではない。
ただ、彼女の瞳に宿った紅は、鮮やかで強く印象的なのだ。それこそ、初めて目にした時からソロンを引きつけるほどに。
「ナイゼルが色眼鏡を持っていたけど、さすがになあ……」
「ええ、逆に目立って仕方がないと思います」
帝国において、眼鏡はそれなりに高級品ではある。それでも貴族や学者、聖職者といった者達には愛好されており、珍しいというほどではない。
だが色眼鏡となるとまた話は異なってくる。特に若い女性がつけている姿は大変に目立つだろう。瞳の色を隠せても、それ以上の注目を浴びては本末転倒である。
「ちょっと見てみたい」
「却下です」
ミスティンは興味があったようだが、結局、色眼鏡は却下された。
*
準備を終えて、ついにイドリスを発つ時がやって来た。
「お前が優先すべきは、しっかりとアルヴァを送ることだ。彼女が問題に巻き込まれるようなら、力を貸してやれ。多少、期間が長くなっても構わん。帝国との交流は、あくまでナイゼルと先生の役目だ。お前はそのついでだと思っておいてくれ」
改めてサンドロスがソロンに釘を差した。もっとも、ソロンとしてもそのほうがありがたい。彼女の居場所を確保するために、働く覚悟だった。
「……うん、分かった」
「それと……あんまり悲愴になることはないぞ」
浮かない顔をしていたのに気づかれたのか、サンドロスがソロンの肩を叩いた。
「――今後、上界に行くことは何度もある。お前の友達とも今生の別れというわけじゃあない。というか、帝国に駐留するぐらいの覚悟でやってくれ」
「そ、そうなんだ。……じゃあ!」
「ああ、言っただろう。それが二つの世界をつなぐという意味だ。せっかくできた友達は大切にしろよ」
ソロンの気持ちがスッと軽くなった。
「ありがとう兄さん!」
「というわけで、先生とナイゼルも頼んだぞ。二人が頼みだからな」
「ほほほ、久々の帝国に腕が鳴るわい」
「お任せあれ。坊っちゃんと違い、このナイゼルは頼りになる男ですから」
ナイゼルに王弟を敬おうという気はないらしい。
「サンドロス陛下、お世話になりました。何の立場も持たない身ではありますが、ご恩は忘れません」
アルヴァがサンドロスへと一礼した。
「よしてくれ。こっちこそ本当に助かったんだ。あの雷の魔法は、イドリスの伝説になってもおかしくないぞ」
伝説などという表現も、あながち誇張ではない。神獣との戦いにおいて、それだけ彼女の協力は大きかった。
「結構大変だったがいい経験でしたよ。そっちも大変だろうけど、まあかんばってください」
グラットも彼なりの礼儀でサンドロスに声をかけた。
「私も楽しかった。あと、弓……もらっていいんですよね?」
ミスティンが風伯の弓を片手に念を押した。
「ああ、男に二言はない。鍛冶屋の親父も、使い手が見つかって喜んでいたぞ」
「大事にします」
ミスティンは嬉しそうに応えた。
サンドロスの妻子ナウアとスライも同じように別れを惜しんでくれた。もっともスライは小さすぎて、意味が分かっていたかは怪しい。
それでもミスティンとアルヴァは喜んで、スライの頭をなでていた。
「アルヴァさん。どうかソロンのことをよろしくお願いします。頼りない子かもしれないけど、私にとってはかわいい息子なの。どうか頼んだわね」
ペネシアはなぜか念入りにアルヴァへ頭を下げていた。
一応、こちらがアルヴァを送りにいく旅のはずなのだが……。これでは逆の立場にしか見えない。
母はソロンが再び旅立つと聞いて、大いに悲しんだのだった。それでも結局はソロンの意志を尊重してくれた。
心は痛んだが、これもソロンが親離れするため――というよりも、ペネシアが子離れするためには必要な儀式だった。
アルヴァも愛想よくほほえみながら。
「私こそ、ソロンには何度も助けられています。ですが承りました。ペネシア陛下に代わって、私がソロンの保護者となりましょう。どうかお任せください」
……保護者ってなんだろう? 二人そろって、物凄くソロンを子供扱いしている気がする……。
それからまた、ペネシアはソロンを固く抱きしめるのだった。ペネシアをザウラスト教団の手から救って以降、ここ数週間で三度目である。
そうして、ソロンは再び上界への旅に出た。ただし、今回は多くの仲間と一緒である。
もはやソロンは孤独な旅人ではないのだ。