イドリスの神獣
黒い光が消え失せた跡から、神獣が姿を現した。
遠くからも確認できる竜よりも巨大な姿。忘れもしない、かつてイドリスを襲ったものと同一の神獣だった。
ムカデのように数多の足を生やし、姿勢は地べたを這っていた。赤い甲殻が背中を覆い、ハサミのような腕が前方に二本伸びている。尾は先端で三叉に分かれていた。
全身を覆う赤黒い瘴気。この瘴気こそが、神獣を守る障壁の役割を果たしているのだ。
全体的な形状はムカデというよりも、足の多いサソリといった印象である。それでいて様々な部分がサソリとも異なっていた。
二つの眼とは別に、背中には大きな眼がついている。
それがギョロギョロと上方を見回していた。背中には羽のようなものが六枚生えている。ただし、空を飛ぶ様子はない。この神獣はあくまで地をゆく存在なのだ。
見れば見るほど違和感を持つ姿態である。
神獣は生物としてどこかおかしいのだ。通常、生物というものは自らの生存のために、様々な器官を保有する。ところが神獣はそんな法則を無視していた。
ただ獲物を殺傷するためだけの器官。そもそもの意味が分からない器官。そんなものが多すぎるのだ。
この戦争の行方は、神獣との戦いに全てが懸かっている。それは皆が知っていた。だから、恐怖に身を震わす者はいても、逃げ出す者はいなかった。
「ついに出やがったな……! ナイゼル、頼んだぞ!」
神獣をその目にとらえるや、サンドロスが言った。
一切の攻撃が通用しないことは、以前の戦いで判明している。無駄な攻撃はせず、すぐさま小さな神鏡を使うと決めていた。
そして、鏡を使う役目はナイゼルに託されていた。彼こそがイドリス第一の魔道士であるためだ。
「了解しました! さあ、いきますよ!」
ナイゼルは杖を腰に差し、両手で神鏡を手に持った。かつてイドリスの秘宝だった鏡……。小さくなってはいるが、今またここに戻ってきたのである。
神鏡を用いた訓練は事前に済ませていた。だから、どれだけの魔力を込めればよいかもナイゼルは把握していた。
みるみるうちに神鏡へと魔力が集中していく。本来の神鏡からすれば、これは欠片に過ぎない。けれど、そうとは思えないほどの力強さだ。
神鏡からまばゆい光があふれ出した。光は大きく広がり、まだ薄暗い朝の下界を照らし出していく。
風が巻き起こり、長めに伸びたナイゼルの灰茶の髪がゆれ動いた。
神鏡からあふれた光はすぐに収束し、太い光線となって放出された。
光が洪水となって、神獣を飲み込んでいく。巨大なサソリのような体が、光に包まれて見えなくなった。
光の反動で鏡面が振動する。
なおもナイゼルは鏡を手放さない。神獣に鏡をじっと向けて、魔力を込めた光を存分に注ぎ込んでいく。
神獣が耳をつんざくような悲鳴を上げた。おぞましい悲鳴であったが、それは神鏡の効力を示してもいた。
光が消え失せた時には、神獣を包んでいた瘴気も消し飛んでいた。神獣は自らを保護する障壁を失ったのだ。
「よし、障壁をはがした! だが、迂闊に近づくなよ! 矢と魔法で攻めるんだ!」
サンドロスが攻撃の号令を下す。
呼応して、百を超える兵士達が一斉に矢を放った。二十を超える魔道士達の杖先から怒涛の魔法が放たれた。
巨大な的となった神獣に次々と矢が、そして魔法が命中していく。
凄まじい猛火を浴びて、神獣の元に爆炎が生じた。神獣の巨体すら隠すような噴煙が立ち昇る。その衝撃はイドリスの町中へと振動を走らせた。
生き残っていたグリガントまでも、爆炎に巻き込まれて崩れ落ちていく。
いまだ晴れない噴煙の中で、神獣の巨体が動く気配が見えた。
突如――咆哮が響いた。怒りの感情を思わせるおぞましい神獣の咆哮。
空気を叩くような音と共に噴煙が晴れ上がり、神獣の姿がまたもあらわになった。神獣は六枚の羽を羽ばたかせ、噴煙を振り払ったのだ。
サソリのような全身には矢が突き刺さっていた。甲殻には焼け焦げた跡。その足元にあった石造りの道は、無残に崩壊していた。
だが、それでも神獣は立っていた。羽をゆらゆらと動かしながら、その生命力の健在を誇示した。
そして神獣が動いた。
無数の足で助走すると共に跳躍する。
数回ほど羽ばたいた神獣は、多くの兵士達がいる只中へと巨体を着地させた。
大地が鳴動し、逃げ遅れた兵士が踏み潰された。その鎧は重量に圧縮され、元の形を失った。その中身については言わずもがなだ。
同時に大きく伸ばたハサミが、兵士の体を上下に引き裂いた。盾も鎧も役には立たず、真っ二つになるしかなかった。
勇敢な兵士達も、背後から攻撃しようと槍を構える。けれど、振り払ったしっぽが三人の兵士を呆気なく弾き飛ばしてしまった。
体中の器官を駆使したデタラメな攻撃。イドリスの兵士達はたちまちにかき乱れた。
「ひるむな! 攻撃は効いている! もう一度行くぞ!」
サンドロスが号令し、次なる総攻撃をかけようとした途端――
神獣が口から何かを吐き出した。
赤い魔石のような何かが、大量に地面へ降り注ぐ。それは着地すると同時に煙となって、中から赤い虫のような魔物が現れた。
角を生やした大型の甲虫。体長は人間と同じかそれ以上の大きさがある。全部で数十体はいるだろうか。
兵士達はたちまち、甲虫を相手にせねばならなくなった。
甲虫は群れを作って、突進してくる。勢いのある突進に兵士達が吹っ飛ばされた。
兵士達が反撃するが、硬い甲殻に槍も矢も弾かれてしまう。
サンドロスは大刀に体重を乗せ、甲虫を叩き割った。グシャリと嫌な音が鳴って、甲虫が潰れた。どうやら、重量のある武器での攻撃は有効なようだ。
「斬っても突いても効果が薄い! 重い武器で叩き潰せ。魔法も頼む!」
サンドロスの指示した通り、兵士達は甲虫を叩いて攻撃し出した。槌を持ち出して叩き潰す。あるいは刀や槍の重量で叩き潰した。
効果はあったようで、少しずつ甲虫が潰れていった。魔道士達も炎を放ち、甲虫を何匹も焼き殺した。
それでも、甲虫は残っている。しぶとく、うじゃうじゃと数で攻め寄せてくる。
「クソッ! うっとうしい奴らだ!」
地裂の魔法で敵を蹴散らしながら、サンドロスは吐き捨てた。
「陛下、私にお任せを!」
神鏡を使用して消耗していたナイゼルが、再び杖を手に取った。
「すまん、頼めるか?」
「承知しました」
ナイゼルは杖を向けて、突風を巻き起こした。竜巻のように渦巻く風が、甲虫の群れへと襲いかかる。巻き込まれた甲虫が次々と飛ばされていく。
仰向けになって腹をさらした甲虫に、兵士達は槍を突き刺す。お腹はやわらかく、簡単に武器が通るようだ。
神獣は甲虫を産み出した直後は大人しくしていた。
どうやら、甲虫の生産と攻撃を同時にはできないらしい。だがそれも、わずかな猶予でしかない。神獣は間もなく、体を揺らして動き出そうとしていた。
「今を逃すな!」
攻撃するのは周囲の甲虫を一掃した今しかない。またもサンドロスは号令をかけた。
一斉に矢と魔法が乱れ飛ぶ。再び、神獣は爆炎の中に包まれていく。
その間に、サンドロスは地面に大刀を突き刺した。魔力を込めるほどに、刀身の輝きが増していく。大地の力が大刀に結集されたのだ。
この魔法がサンドロスの切り札だった。
矢と魔法が途切れた瞬間――サンドロスは意を決して動いた。大刀を上に構えながら、神獣に向かって走り出す。
伸ばされた両腕のハサミが危険だが、その隙間を思い切ってすり抜けた。
「くれてやる!」
サンドロスは咆哮するや、跳び上がった。
大刀を大きく振り上げ、力の限りに神獣の頭部へと叩きつける。
途端、凄まじい衝撃が空をゆるがした。大地の力が神獣の顔面に伝わり、弾けたのだ。
神獣はもだえ苦しむように、叫びを上げた。顔の甲殻に亀裂が入ったようだった。
けれど、神獣は動きを止めない。接近しすぎたサンドロスに、反撃の突進をかました。
とっさに後ろへ飛ぶが、間に合わない。顔面の甲殻がサンドロスに衝突する。
「ぐふあっ……!」
体が大きく吹っ飛び、サンドロスは地面へと転がった。
全身に激しい痛みが走る。まだしも敵に接近していたため、さほどの勢いがなかったのが幸いした。もう少しの助走があれば、再起不能になっていただろう。
「畜生め……! なんて固い野郎だ……!」
サンドロスは体を起こそうともがきながら、悪態をついた。神鏡は確かに効果があった。実際に損傷も与えている。以前の戦いでは傷一つつけられなかったのだから。
だがそれでも、あれを倒すには及ばない。もっと強力な力が必要だ。
ズシリと地面を踏み鳴らしながら、サソリ型の神獣は迫ってきた。倒れたままのサンドロスを踏み潰さんばかりに。
刹那――神獣の頭が炎上した。
いや、正確には神獣の頭に火球が衝突し、それが炸裂したのだ。
「間に合ったあぁ! 兄さん、大丈夫!?」
「よお……待ってたぞ」
倒れたまま、サンドロスは小さく手を挙げた。
姿を現したのは、サンドロスの弟――ソロンだった。